第陸頁 塙団右衛門&林半右衛門………例え袂は分かっても

塙団右衛門略歴 前頁を参照して下さい(笑)。



林半右衛門略歴  さて………………採り上げておいて何なのだが、殆んど分からないんだよなあ、この人物(苦笑)。諱も不明で、渡り浪人に等しい人生だったので、何時何処で生まれて死んだかもはっきりしない。

 一応、調べ得たことだけを記すが、まず小早川秀秋の家臣だったことが分かっている。
 周知の通り、小早川家当主秀秋は嗣子なくして夭折したため、小早川家は改易となり、家中一同は浪人して路頭に迷った。その後、半右衛門が仕官を求めてどう彷徨っていたのかは不明だが、一時期、水野勝成に仕えていたことがはっきりしている。

 水野勝成の父・忠重は徳川家康の生母・於大の弟で、勝成は家康の外甥に当たる人物である。家康と水野家との関係の歴史を語ると長くなるので割愛するが、忠重は早くから家康に従い、勝成も家康に従って各地を転戦したのだが、小牧・長久手の戦いの際に忠重に逆らって抜け駆けしたことを咎められ、徳川家を出奔し、九州各地の大名に仕えたり、辞去したりし、一五年も放浪した果てに父と和解し、水野家のホームタウンである刈谷藩主になったと云う破天荒な人生を歩んだ人物だった(大坂の陣後には備後福山藩主となった)。
 この辺り、性格的に団右衛門と似てなくもないが(笑)、大坂冬の陣時点では半右衛門は既に水野家を辞し、池田家に仕えていた(団右衛門はまだ水野家に仕えていると思っていた)。

 その後の事は不明…………すみません、拙房史上、最も不鮮明部分の多い人物を中途半端に取り上げました………勿論塙団右衛門への贔屓から、所縁のある人物を無理やり採り上げたことを白状しておきます(土下座)。



共に過ごした時間 上述した様に、塙団右衛門林半右衛門が知遇を得たのは、両者が小早川秀秋に仕えていた頃と思われる、と云うかそれしか考えられない(苦笑)。
 団右衛門が秀秋に仕えたのは伊予にて二〇万石を領有していた加藤嘉明の下を出奔した後なので、慶長五(1600)年一〇月以降のことである。また秀秋の夭折で小早川家が改易となったのは慶長七(1602)年一〇月一八日の事なので、両者が共に小早川家の家臣だった時間は長く見ても二年に満たなかった。

 その後、小早川家の改易により、家中全員が路頭に迷った訳だが、家老だった稲葉正成(春日局の夫)ですら簡単に再仕官が叶わなかったのだから、団右衛門半右衛門も自分の身の上で精一杯だったと思われる。
 団右衛門に関しては、その後松平忠吉・福島正則と仕え、旧主からの横槍で福島家を辞してから大坂の陣における浪人募兵に応じるまで士分にはなれなかったから、どこかで半右衛門と顔を合わせていたとしても、そう長い時間だったとは思えない。
 また、上述した様に、団右衛門半右衛門が小早川秀秋逝去から大坂の陣勃発までの間のどこかで水野家に仕えていたことは知っており、大坂冬の陣が終わった時点では既に半右衛門が水野家を辞して池田家に仕えていたことを知らなかったから、浪人中両者が顔を合わせていたとは考えにくい。

 だが、それでも友情は連綿と続いていたことを後述にて触れておきたい。



不滅の友情 例え、共にいた時間が短く、長く顔を合わせていなくても、塙団右衛門林半右衛門が友人関係にあったことははっきりしている。そのことがはっきりするのは大坂冬の陣における興和が成立し、大坂夏の陣が始まるまでの四ヶ月間に見られる。とはいえ、このときも両者は顔を合わせてはいない。

 大坂冬の陣は、徳川方と豊臣方の「講和」と云う形で終結した。この講和が、豊臣方を謀って、大坂城の外堀を埋めて、大坂城の防御機能を殺す為のものだったのは後世に生きる我々にとっては半ば常識だが、当事者の中には額面通りに平和の到来を喜ぶ者もいた。
 何せ、戦争勃発前、徳川方の怒りを解く為には、豊臣秀頼が大坂城を退去するか、生母・淀殿が江戸に人質として下向するしかないと片桐且元が説き、それは断じて受け入れられないとして開戦となっていた。
 同時にその開戦は団右衛門を初めとする浪人衆にとっては再仕官の最後にして最大の好機で、決して逃せられないものだった。それゆえ、和睦交渉において大坂方は「淀殿を人質として差し出す代わりに豊臣家の領地を増やすこと」を打診したが、家康から帰ってきたのは砲撃だった。
 家康は豊臣家の領地が増えればそれを浪人衆に与えることで豊臣軍が強固に団結することを恐れ、申し出を却下した訳だが、結局、「人質を出すに及ばず」、「浪人衆も召し抱えたままでいい。」としつつ、「一応の戦果がないと参陣した大名衆が納得しないので、戦果として大坂城の外堀を埋める。二の丸・三の丸は大坂方が埋める。」との条件で和睦が成立した。
 この和睦がどうなったかはここでは書かないが、豊臣家への仕官継続が認められ、一時的な報奨金も貰った浪人衆は束の間の平和を享受した。

 この時、団右衛門は、半右衛門が水野家にいると思い、水野家の家臣である黒川三郎右衛門なる人物を訪ねた。黒川が水野家中において如何なる地位にある人物なのかは不詳(家老でないのは確か)だが、このとき黒川は団右衛門に、半右衛門が水野家を辞し、池田家に仕えていることを告げた。
 半右衛門との再会が叶わなかった団右衛門はそれを寂しく思ったが、それ以上に寂しく思ったのは、大坂城に入った自分の消息を何人もの知人が訪ねて来たのに、半右衛門からの便りがなかったことだった。

 団右衛門からそれを聞いた黒川は、本町橋の夜襲における団右衛門の活躍を知りつつ、それにがっかりしていたことを告げた。というのも、団右衛門半右衛門は一廉の大将になることを誓い合いつつ、同時に、「どんなに偉くなっても、戦場にあっては自ら槍を振るって戦う一武士であらんとする。」との誓いも交わしていた。

 上述した様に、団右衛門は夜襲において自らは床几に腰掛け、指揮官に徹し、彼自身のステータスとも云える豪勇を振るわなかった。つまり半右衛門はその在り様に、団右衛門がかつての誓いを忘れたのか、と失望し、連絡を寄越さなかったとのことだった。
 黒川からそれを聞いた団右衛門は、半右衛門の言葉をもっともだ、として、黒川には本町橋の夜襲が、「己は一生軍を指揮するものにはなれない。」と云って彼を罵った旧主・加藤嘉明を見返す為の行動で、これを達成したからには次は死ぬまで槍を振るって戦うことを宣したのだった。

 例え、言葉を交わさずとも、顔を合わさずとも、一時的に相手を誤解していようとも、共に同じ価値観を共有し、それを重んじた友情の在り様が何とも見事である。

 そして運命の慶長二〇(1615)年四月二九日、塙団右衛門は樫井にて最期の最後まで槍を振るって壮絶な戦死を遂げたのだった。このことを聞いた林半右衛門がどう述べていたのか…………………知っている方、是非教えて下さい!!


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令和五(2023)年二月三日 最終更新