第漆頁 榎本武揚&黒田清隆………互いに守り合った命と名誉

榎本武揚略歴 天保七(1836)年八月二五日に、幕府西丸御徒目付・榎本武規(箱田良助)の次男として江戸下谷御徒町柳川横町(現在の東京都台東区浅草橋付近)に生まれた。
 父が伊能忠敬の弟子だった縁で榎本は嘉永四(1851)年に昌平坂学問所に入学したのを皮切りに、嘉永六(1853)年の黒船来航以来対外問題に頭を悩ます江戸幕府にあって、時代の技術習得を学ぶことを期待される若者で、一時安政元(1854)年に箱館奉行の堀利煕の従者として蝦夷地箱館に赴き、蝦夷地・樺太巡視に随行したことから、海軍と蝦夷地に縁のある人生を歩むこととなった。

 文久元(1861)年一一月の軍艦(開陽丸)発注に伴ってオランダに留学(当初の予定はアメリカだったが、南北戦争の最中だったためにオランダに変更された)することとなり、文久三(1863)年四月一八日にオランダに到着した榎本は同国にて船舶運用術、砲術、蒸気機関学、化学、国際法を学び、合間を縫ってプロイセン、オーストリア、デンマーク、フランス、イギリス等も訪問し、様々な技術を学んだ。
 発注していた開陽丸が完成するに及んで慶応二(1866)年一〇月二五日に榎本は開陽丸にてオランダを発ち、慶応三(1867)三年三月に帰国し、開陽丸乗組頭取(艦長)に任ぜられた。

 同年末、榎本は幕府艦隊を率いて大坂湾へ移動し、京都での軍議にも参加した。
 既に幕府は末期で、薩摩・長州は幕府への露骨な敵意をむき出しにしており、榎本は翌慶応四(1868)年一月二日、四日と、大坂湾にて薩摩藩の軍艦に勝利。直後の鳥羽・伏見の戦いにおいて旧幕府軍が敗北すると榎本は七日に大坂城へ入城し、新政府軍に抗戦せんとした。
 しかし総大将である征夷大将軍・徳川慶喜は既に前日の夜に大坂城を脱出しており、七日朝、開陽丸にて江戸へ引き揚げていて、榎本は置いてけぼりを食らった。。
 榎本は大坂城内の銃器や刀剣、金子を積んで江戸に向かうと海軍副総裁に任ぜられて徹底抗戦を主張したが、慶喜に戦意は無く、海軍総裁の矢田堀も慶喜の意向に従い、榎本派が旧幕府艦隊を支配した。

 結局慶喜は新政府軍に恭順の意を示し、江戸に進軍してきた西郷隆盛と勝海舟の面談を経て旧幕府軍の降伏、江戸城無血開城を成立させた。
 しかし、降伏条件の一つである旧幕府艦隊の引渡を榎本は拒否し(勝海舟の説得に応じて四隻は新政府軍に引渡した)、箱館に退いて尚も抗戦せんとした。
 だが、その主張は勝に反対され、五月二四日、徳川宗家の駿河・遠江七〇万石への減封が決定すると榎本は配下の軍艦で館山藩の陣屋を砲撃した上、徹底抗戦派の脱走兵を東北地方へ運ぶなど旧幕府側勢力を支援した。
 そして八月一五日に徳川家達(慶喜養子で、第一六代宗家当主)が駿府へ移封すると榎本は一九日に抗戦派の旧幕臣と共に開陽丸以下八艦からなる旧幕府艦隊を率いて、勝海舟に檄文(王政復古を善しとしながら、それに伴う明治新政府の旧幕府に「朝敵」の汚名を着せる等の仕打ちに対する怒りと抵抗を示し、旧幕臣達に共に立ち上がることを呼び掛ける内容)と「徳川家臣大挙告文」という趣意書を残して江戸を脱出し、奥羽越列藩同盟の支援に向かった。

 だが、房総沖の暴風雨で咸臨丸・美賀保丸の二隻を失い、頼りとした仙台藩主伊達慶邦も九月一二日には降伏を決定する等、初めから多事多難だった。榎本は土方歳三と共に仙台藩の降伏翻意を説くも、それに失敗し、尚も抗戦すべく仙台藩を脱藩した兵と共に石巻、気仙沼、宮古を経て蝦夷地へ向かった。

 蝦夷地に着いた旧幕府軍は、二手に分かれて箱館へ進撃。各地で新政府軍を撃破し、一〇月二六日に五稜郭を占領。榎本も一一月一日に五稜郭に入城した。
 その後、榎本は状況把握と自国民保護の為に軍艦を箱館に派遣していたイギリスとフランスの艦長および在箱館領事と会談。イギリス公使パークスとフランス公使ウートレーからは、旧幕府軍を交戦団体として認めず、日本の内戦に対する不干渉を要請し、「厳正中立を遵守する、旧幕府軍については英仏国民の生命・財産・貿易保護のためにのみ限定して『事実上の政権』として承認する」という、内容の覚書を得て、榎本は事実上の政権として認められたと喧伝した(←但し、パークスは後にこのことを否認した)。

 榎本も戦うことばかり考えていた訳ではなく、一二月一日に明治新政府宛の書面を英仏の艦長に託したが、一四日、明治新政府はこれを拒絶。事ここに至って翌一五日、榎本蝦夷地平定を宣言し、士官以上の選挙により総裁となった。
 だが三日後の同月一八日、局外中立を宣言していたアメリカが明治新政府支持を表明。幕府が買い付けた装甲艦・甲鉄(戊辰戦争の勃発に伴い引渡未了だった)も新政府に引き渡された。

 その後榎本はこの状況を打破すべく、宮古湾に停泊中の甲鉄を奇襲し、奪取する作戦を実行したが失敗。四月九日に新政府軍が蝦夷地上陸すると五月初めには箱館周辺に追い詰められた。
 五月八日早朝、榎本武揚は自ら全軍を率いて大川(現・七飯町)の新政府軍本陣を攻撃するが撃退され、一一日には箱館市街が新政府軍によって制圧された。
 三日後に為された降伏勧告を榎本は回答状にて拒否する旨を答えたが、榎本自身、勝算が無きに等しいことを自覚していて、オランダ留学時代から肌身離さず携えていた『海律全書』を降伏拒否の回答状と一緒に新政府軍海軍参謀に贈っていた(これに対して新政府軍は海軍参謀名で感謝の意といずれ翻訳して世に出すという内容の書状と酒肴を返送した)。

 結局一七日、榎本等旧幕府軍幹部は亀田八幡宮近くの民家で黒田清隆等と会見し、降伏約定を取り決め、一八日朝、亀田の屯所に出頭・降伏した。
 榎本武揚等旧幕府軍幹部は、熊本藩兵の護衛の下、五月二一日に箱館を出発し、東京へ護送され、六月三〇日に兵部省軍務局糾問所の牢獄に収監された。
 政府内では榎本等の処置に関して対立があったが、黒田清隆・福沢諭吉等が、助命を求め、榎本は明治五(1872)年一月六日、特赦により出獄。親類宅で謹慎をへて、三月六日に放免となった。

 その二日後には、清隆が次官を務めていた開拓使に四等出仕として任官、北海道鉱山検査巡回を命じられ、以後、榎本は資源調査、石狩炭田開発、農場経営、土地管理等の北海道開拓に尽力。
 南下政策を続けていたロシアとの関係がきな臭くなると、駐露特命全権公使に任命され、サンクトペテルブルクにて皇帝アレクサンドル2世に謁見し、明治八(1875)年五月七日、千島・樺太交換条約を締結した。
 それらの実績やその後のロシア見聞から清隆からはますます重用され、外交に、海軍軍事に、明治宮殿の建設に、八面六臂の活躍をし、内閣制度が成立すると第一次伊藤内閣の逓信大臣就任を皮切りに、続く黒田内閣では逓信大臣に留任するとともに、農商務大臣を一時兼任し、それ以後も文部大臣(第一次山縣内閣)、外務大臣も歴任した。

 その後も農商務大臣(第二次伊藤内閣)を務め足尾銅山鉱毒事件やメキシコ移民政策にも尽力したが、明治三八(1905)年一〇月一九日、海軍中将を退役すると事実上の引退となり、明治四一(1908)年)一〇月二六日、腎臓病で死去した。榎本武揚享年七三歳。同月三〇日、海軍葬にて送られた。



黒田清隆略歴 天保一一(1840)年一〇月一六日に薩摩鹿児島城下(現・鹿児島県鹿児島市新屋敷町)にて家禄四石の下級薩摩藩士・黒田仲佐衛門清行の長男として生まれた。幼名は仲太郎
 文久二(1862)年の生麦事件の際には抜刀しようとした者を取り押さえ、この事件に派生した文久三(1863)年の薩英戦争にも参戦。このときイギリス軍に苦戦した経験から、後に江戸で砲術を学び、皆伝を受けた。

 慶応二(1866)年に犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩との間で薩長同盟が締結。この時清隆は薩摩藩側の使者として当初同盟に消極的だった長州に赴き、同盟の有効性を説いた。
 この薩長を初めとする倒幕派の勢いに抗し切れなくなったと判断した征夷大将軍・徳川慶喜は慶長三(1867)年一〇月一四日に大政奉還を行い、ここに江戸幕府は滅亡した。
だが、慶喜が新政府内に勢力を残しかねないと見た薩長は幕府を武力で潰すことを止めず、慶応四(1868)年に鳥羽・伏見の戦いが勃発。この戦いで清隆は薩摩藩の小銃第一隊長として戦った。
 その後も抵抗を続ける旧幕府勢力を討つべく、長岡・松ヶ崎・新発田と新潟各地を転戦し、新潟を降した後は庄内・米沢の両藩を西郷と共に降し、寛大策をもって臨み、同年九月二七日にこれらを帰順せしめた。

 その後、一時鹿児島に帰郷したが、翌明治二(1869)年一月に軍務官出仕に任命され、海を渡って、北海道にて旧幕府軍との最後の戦いにおける総指揮を執った。
 五月一一日の箱館総攻撃で、箱館山を占領し、敵を五稜郭に追い込み、一七日、敵将・榎本武揚に降伏を勧め、榎本もこれに応じた。
 戦後、清隆榎本助命を強く要求し、三年後の明治五(1872)年一月六日に榎本を初めとする主要メンバーは謹慎、その他は釈放として決着した。

 戦後、五稜郭での戦功もあって、清隆は北海道にてロシアを警戒しつつ、北海道開拓に尽力することとなった。
 明治三(1870)年五月に清隆は樺太(現・サハリン)専任の開拓次官となり、樺太・北海道を視察して、対ロシア関係が容易ならざることを帰京後に中央政府に告げ、明治四(1871)年一月〜五月までは北海道開拓の手段を求めて欧米を巡り、帰国すると開拓使次官のまま開拓使の頂点に立ち、箱館で降伏させた榎本武揚を初めとする旧幕臣を開拓使に登用し、アメリカから連れて来たケプロンを顧問に基盤整備事業を起こしたが、やがて産業振興に重点を移した。

 明治六(1873)年、同郷の西郷隆盛と大久保利通が征韓論を巡って対立すると清隆は内治重視の立場から反対の意を唱えた(同様の理由で翌明治七(1874)年の台湾出兵にも反対)。
 同年六月二三日、陸軍中将となって、北海道屯田憲兵事務総理を、同年八月二日に参議を兼任し、正式に開拓長官となり、榎本を登用してロシアとの交渉に臨んだ。
 明治八(1875)年、清隆榎本を特命全権公使としてロシアと交渉し、千島・樺太交換条約を締結。同じ年に起きた江華島事件に際しても翌明治九(876)年二月に全権弁理大臣として李氏朝鮮と交渉し、日朝修好条規を締結した。

 明治一〇(1877)年、不平士族による最後にして最大の反乱で、薩摩閥最後の内部対立でもあった西南戦争が勃発。清隆は征討参軍として熊本城を包囲する西郷軍を北から攻撃していた山縣有朋軍を助けるべく八代付近に上陸して敵の背後を突いた。
 西南戦争は九月二四日に西郷が自害して終結した。

 そしてこの西郷の自決を皮切りに清隆に不幸が相次ぐ。
 明治一一(1878)年三月二八日、清隆の妻を病没。日頃の酒癖の悪さが祟って、当時の新聞に「酒に酔って帰った黒田が、出迎えが遅いと逆上し妻を殺した。」とのデマ記事が掲載され、清隆は辞表を提出した。
 だがこの辞意は同郷の大久保利通によって止められ、撤回した。大久保は清隆がそのようなことをする人物でないと保証すると述べ、同時に自分の腹心で大警視だった川路利良に検死させて妻の死が病死であると結論付けてくれた。
 しかし二ヶ月もしない五月一四日に、その大久保が暗殺された(紀尾井坂の変)。

 かかる身内や同郷人の不幸を受けて、清隆は期せずして薩摩閥のトップに立ち、四年後の明治一四(1881)年、開拓使の廃止を受けて清隆は開拓使の官営事業の継続のため、官吏を退職させて企業を起こし、これに官営事業の設備を払い下げる計画を立てた。
 清隆は事業が赤字だったことを理由に、払い下げ額を非常な安値とし、私利で動かない官吏出身者を事業に充てるべきと主張したが、これは払い下げ規則を作った大隈重信との対立を生んだ。
 このことは妻死去時並みに新聞や世論に叩かれ、「薩摩出身の政商・五代友厚の企みによるもの」と見做して激しく非難された(開拓使官有物払下げ事件)。これを大隈が新聞社に密告したものと考えた清隆は伊藤博文に協力して陰謀で大隈を失脚させた(明治十四年の政変)。だが一度沸いた世論は止まず、払い下げは中止になり、清隆は開拓長官を辞めて内閣顧問となった。

 掛かる痛手受け、以後閑職に甘んじていた清隆だったが、薩摩閥の重鎮だったことで明治二〇(1887)年第一次伊藤内閣の農商務大臣、翌明治二一(1888)年四月には第二代内閣総理大臣となった。
 だが、在任中に行われた明治二二(1889)年二月一一日に大日本帝国憲法の発布は伊藤の功績で、逆に不平等条約改正交渉の失敗は黒田内閣の責任とされ、黒田内閣は引責辞任の形で同年一〇月に倒れた。
 ちなみに交渉失敗は治外法権・領事裁判権撤廃の段階措置として外国人の裁判官を置くという案が新聞に漏れ、張本人である外務大臣が爆弾を投げつけられた事件によるものだったが、その外務大臣とは、かつて清隆の追った大隈重信だった………。
 首相辞任後も枢密顧問官、第二次伊藤内閣の逓信大臣、枢密院議長を歴任するなど、薩摩閥首魁としての立場は強固だったが、明治二六(1893)年から体調不良が目立ち出し、明治三三(1900)年八月二三日、脳出血で死去した。黒田清隆享年六一歳。



共に過ごした時間 榎本武揚黒田清隆両名の経歴を見れば一目瞭然だが、両者の邂逅は敵同士としてだった。
 ざっくばらんに記せば、旧幕府軍最後の抵抗勢力として箱館・五稜郭に籠る榎本清隆が攻めた折にその才能を惜しんで助命と登用に努めた結果、対露外交・海軍軍備充実に協力し合うようになった訳である。

 実際、清隆の尽力がなければ様々な意味で榎本の命は無かった。
 箱館戦争は云うまでもなく旧幕府に属する最後の抵抗勢力で、最も頑強な徹底抗戦派でもあった。土方歳三も戦死し、彼と生死を共にした兵卒は母を亡くした子の様に痛哭したと云う。そして榎本自身も自害するつもりでいた。
 直接自害を止めたのは元彰義隊員でもあった大塚霍之丞(おおつかかくのじょう)だったが、新政府側の助命功労者となったのは清隆だった。

 新政府関係者には最期の最後まで抵抗した榎本軍関係者に対して厳罰を求める者も少なくなかった。当時の厳罰と云えば十中八九死刑である。実際、新政府内にどれほどの割合が厳罰を主張する者達で占められていたのかは薩摩守の研究不足で定かではないが、清隆は剃髪してまで榎本の助命を周囲に訴えたと云う。
 結果、榎本は獄中でも酷い待遇を受けることなく、明治五(1872)年一月六日に特赦となって謹慎し、三月六日に放免となると二日後には清隆が次官を務めていた北海道開拓使に四島出仕として任官されたのだから、恐らくは清隆榎本の知識や才能が北海道開拓に役立つことや、自分が面倒を見ることを訴えて助命を勝ち取ったと思われる。

 当然の様に、北海道着任後の榎本清隆の片腕の如く動いた。
 当初は北海道鉱山検査巡回を命じられ、石狩炭田の調査に尽力。後にロシアの脅威が高まると清隆は日露領民が混在し、治め難いと見た樺太に執着せずに千島列島を初めとする日本領の地歩を固めるべきとし、榎本をサンクトペテルブルクに派し、千島・樺太交換条約を締結させた。
 一般に樺太(サハリン)の広大さから、この地を失った同条約を屈辱的と見る向きが強いが、同時並行に榎本は日本外交史上初の国際裁判となったマリア・ルス号事件(横浜港停泊のロシア船で苦役させられていた清国人が日本に助けを求めたもの)に対する勝訴を勝ち取っていた。
 かくして榎本清隆という車の両輪の如きコンビネーションは留まるところを知らず、日本史上初の内閣となる伊藤内閣が発足すると、「薩長出身者ばかりで固められている」と揶揄される顔ぶれの中に江戸出身の榎本が逓信大臣として顔を並べた(清隆は農商務大臣)。
 伊藤内閣に続いて黒田内閣が発足すると当然の様に榎本も入閣。しかもこの時榎本は文部大臣と(先の内閣で清隆が務めた)農商務大臣を兼任する程だった(後に井上馨と交代したが)。

 そして明治三三(1900)年八月二三日に清隆が死去した時、その葬儀委員長を務めたのは薩摩人ではなく、榎本だった。



不滅の友情 能力・任務・対人関係から榎本武揚黒田清隆が盟友となったのは歴史的必然でもあった。
 ただ、見落としてはいけないのは、清隆が箱館総攻撃前から榎本に一目を置いていたことである。清隆は総攻撃前に知人に当てた手紙で、榎本の事を「得難い人物」と記していた。幕末から明治初期にかけての日本が西洋列強に追いつき、追い越す為には例え「昨日の敵」でも、「今日の友」として迎える度量も時として必要だったが、これは口で云うほど簡単ではない。
 上述した様に、清隆は剃髪までして榎本の助命を訴えた訳で、もし清隆の人選眼に誤りがあれば、それは政治的に、場合によっても文字通り黒田清隆の命取りになることもあり得た(彼の先達に当たる西郷隆盛・大久保利通が天寿を全う出来なかったことを忘れてはならない。)。

 そして清隆にとっても、榎本にとっても、多くの日本人にとっても幸いだったように、清隆の人選眼は狂っていなかった。同時に両者の馬が合ったことも事実で、それが終生両者の協力体制を持続させることとなった。
 政治家として、軍人として大活躍した両者だが、決して人付き合いが上手い訳ではなかった。まず過去作「酒好きな奴等」で詳しく取り上げているが、清隆周囲がドン引きする程の酒乱だった
 また榎本の方も、彼の義弟・林董によると、「友達としては最高だが、仕事仲間としては困る人だ。」とのことで、これは榎本の「一度相手を信用するととことん信じてしまう性格。」に起因していた。つまり、人当たりは良いのだが、真っ直ぐすぎると云うことだろう。
 悪いことではないが、純粋過ぎるのが人付き合いに難を呼ぶことがあるのは世によくある話である。得てしてこういう人間は融通が利きにくく、殊に時として相手を敵視したり、疑ったりすることも必要な外交官としては欠点となり得るだろう。
 ただ、それでも榎本は申し分ない活躍を遂げた。勿論すべてが上手く云った訳ではないが、幕末以来の困難且つ手探りの多かった外交を思えば、賞賛にこそ値すれど、非難には値しない。
 一方の清隆は失敗も多々あり、後々は酒乱も祟って薩摩閥重鎮としての地位は失わなかったが、周囲からは敬遠された。そんな流れにあって海外に駐在した時を除けば榎本清隆は盟友であり続けたのだから、恩義が強かったことや、互いの能力が生かし合えたことも事実である一方で、相当馬も合ったのだろう。
 ここで物騒な例を挙げるが、令和四(2022)年に元総理大臣安倍晋三が射殺され、多くの政治家がお悔やみを述べ、生前の安部への想いを吐露していたが、「榎本武揚黒田清隆」に勝る友情を感じる例は無かった。
 念の為に述べておくが、現代の政治家同士の友情を否定したい訳ではない(そもそも薩摩守の知り得ない友情も多いことだろう)し、現役政治家を貶したい訳でもない。榎本清隆のそれが大き過ぎるのだろう。

 尚、榎本との息子は清隆の娘を娶っており、榎本清隆は文字通り身内になっていることも最後に付け加えておきたい。


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令和五(2023)年二月八日 最終更新