第拾頁 野口シカ………偉大な医学者を産み、育てられた母

名前徳川綱重(とくがわつなしげ)
生没年嘉永六(1853)年九月一六日〜大正七(1918)年一一月一〇日
地位助産婦
イヌ、英世、清三
子孫への影響息子を高名な医学博士に育て上げた
略歴 ペリーが浦賀にやって来た三ヶ月後の嘉永六(1853)年九月一六日、陸奥国耶麻郡三城潟村(現:福島県耶麻郡猪苗代町)に父・野口善之助、母ミサの一人娘として誕生。
 この時代に姓があったことからも野口家が農家ながら家格のある家だったことが分かるが、シカが生まれた当時は野口家は衰退の一途を辿っていた。
 誕生時、両親、曾祖父・清太郎、祖父・岩吉、祖母・ミツの六人家族だったが、シカが二歳の時、母が家出し、曾祖父が亡くなった。祖父と父はともに奉公勤めに出たので、家ではシカと祖母二人の生活になった。

 そんな状況だったので、シカも家計を助ける為に五歳頃から近所の家の子守をした。
 七歳の頃には同村の家に子守奉公に入ることになった。同じ年頃の裕福な者達は寺子屋に読み書きなどを習いに行っていたが、シカの家にそんな余裕はなかった。
 そこでシカは寺子屋の先生に頼んで手本を書いてもらい、子守の合間を見てはお盆に灰を載せて、そこに何度も字を書いて練習したと云う二宮金次郎と似た逸話が伝わっている。
 ともあれ、この家での奉公の日々が後々の野口シカの人格形成に大きく寄与したと云える。

 一四歳で新たに奉公に出で、一九歳の時に明治五(1872)年、その奉公先の紹介で小桧山佐代助を婿養子に迎えて結婚。イヌ清作(後の英世)・清三を産んだ。
 夫・佐代助は、シカ曰く、「酒さえ飲まなければ良い人。」だったが、その酒を手放さない人物だった(苦笑)。そんな佐代助を支え、実質一家の大黒柱として賢明に働いていたある日、清作が囲炉裏に落ちて手に大火傷を負う事件が起きた。

 貧しい野口家には医者に診せる金も、薬を買う金もなく、必死に冷やすしかなく、このやけどが元で清作の左手が不自由になっとことや、それが元でイジメに遭ったことを生涯悔み続けたと云われている。シカの無念さは、周りの人が「シカさんは人が変わったようだ」と云っていた程だった。
 だが、それを元に清作が不貞腐れることは許さなかった。

 清作は最初から勉学に優れていた訳ではなかった。やけどのために五指がくっついてしまった手を「てんぼう」と呼んで蔑まれることに耐えられず、学校に行った振りをしてさぼることもあったが、そんな清作に対して、シカは「皆が不自由な手を馬鹿にするなら勉強に励んでみ返せ!」と諭した。
 その後、清作は一念発起して勉学に励み、その秀才振りを発揮するようになり、小学校で生長(生徒の身ながら、臨時教員として教壇に立つ立場にあった)に選ばれた。

 清作以上にこれを喜んだシカは苦しい家計の仲、村の子どもでは誰もが着たことのない洋服を清作に買い与え激励した。
 生徒の中には「生長になったり、洋服を着たり、てんぼうのくせに生意気だぞ。」(←ジャイ●ンかよ)、「てんぼうから勉強を教えて貰いたくない」と囃したてるガキどももいた(←いつの時代にも心無い奴等はいるものである)が、それに対し、清作は、

 「そうだ、俺はてんぼうだ!しかしそれの何処が悪い!てんぼうだからせめて勉強だけでもしっかりできるように頑張ったんじゃないか!それの何処が悪い!」

 と云い切るまでに、学力だけでなく精神的にも成長していた。シカが感涙にむせんだのは云うまでもない。

 その後、清作はその学力を惜しんだ人々の援助を受けて高等小学校に進学し、北里柴三郎の研究所の助手を経てやがては渡米するまでなったが、有名な上にこの頁の主役はシカさんなので割愛する(苦笑)。

 英世(この頃に清作から改名)が一人前になり、イヌも嫁ぎ、次男・清三が高等小学校を卒業して子育てに一段落したシカは、産婆の資格を取るため勉強した。

 かつて(と云っても江戸時代だが)は医者も産婆も免許を必要しなかったが、明治三二(1899)年に産婆の開業について政府による新しい免許制度が創設され、すべての産婆に免許の取得が義務付けられた。
 丁稚奉公時に多少読み書きの練習をしたとはいえ、仕事や家事の片手間では満足な習得は出来ていなかった。だが、当時四五歳のシカは近所の寺の住職に頼み込んで一から読み書きを教えてもらい、苦労の末に国家試験に合格、正式な産婆の免許を取得した。
 その後、生涯に渡ってシカが後見した出産は二〇〇〇件近くに達すると云う(しかも全件安産!年平均一〇〇件に及び、単純計算で三、四日に一回は子供を取り上げていたことになるから、本職の産婦人科医もびっくりかもしれない………)。

 字を学んだシカは明治三六(1903)年、明治四五(1912)年の二回に分けて手紙を送った。
 野口英世記念館に現存するこの手紙はつとに有名で、ネットで簡単に原文を見ることが出来るので、既にみたことある方々も多いと思うが、誤字脱字が多く、お世辞にも達筆とは云い難い文面でも、子を想う親の心、野口家の将来を案ずる内容、友人が同封してくれた老いたシカの写真にいたたまれなくなった英世は大正三(1914)年、生家の隣に家を購入。そして翌大正四(1915)年、一五年振りに帰国し、母子再会を果たした(←勿論、父・佐代助、姉シカ、弟清三も一緒ですよ)。

 一五年振りの帰国は、日本社会にとっても大ニュースで、英世の下には講演依頼が殺到。英世は東京・名古屋・伊勢・京都・大阪と各地を回る中、長年寂しい想いをさせてしまっていたシカを同道させた。
 更に英世は恩賜賞の賞金で、シカのために田畑を購入。「これで思い残すことがねぇ」とシカさんに想わせる生涯最大の至福を残して英世は再渡米し、これが母子の別れとなった(英世自身、最初で最後の帰国となった)。

 その三年後の大正七(1918)年一一月一〇日、世界的に流行したスペイン風邪(インフルエンザ)のために逝去。野口シカ享年六五歳。
 当時、南米エクアドルで黄熱病の研究に多忙を極めた英世は帰国後に妻からが母の死を知らされた。英世は道のど真ん中に突っ伏して子供の様に号泣したが、母の死から時間が経過していたことと、日米間の距離もあって帰国はしなかった。
 英世不在の葬儀ではあったが、二〇〇〇人近くの赤ん坊を取り上げた助産婦として、世界的に高名な野口英世の母として、近隣の人々から非常に慕われていたシカの葬儀は村始まって以来の盛大なものになったと云う。


活躍した子供 う〜ん野口英世の名前を挙げるだけで充分だな(苦笑)。というか、さすがに英世の姉イヌ、弟清三に関してまで歴史的な活躍を求めるのは酷だ(再度苦笑)。

 野口英世の医学博士としての業績を今更ここに披露するのも何なので、ここは戦前既に日本を代表する「偉人」の一人となっていた英世が、如何に「偉人」の代表選手になっているかを、敢えてギャグの例で紹介したい。

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 それはかつて週刊少年ジャンプで掲載されていた『ついでにとんちんかん』と云うギャグ漫画のワンシーンである。
 この漫画は中学校教師の間抜作(あいだぬけさく)先生とその三人の教え子が「怪盗とんちんかん」と称してアルセーヌ・ルパンや怪人二十面相の様に予告状を出しては富豪の家から(しょーもないものを)盗み出すその過程でのドタバタ喜劇となっていた。

 いつもとんちんかんに出し抜かれている大日本警察署の毒鬼悪憎警部は罠を張って待ち受けた。その罠の一部である電線に抜作先生がかかると、毒鬼警部は部下の天地無用(あまちむよう)に「今だ!電気を流せ!」と指示した。
 天地君がスイッチを押すと電流ではなく、一冊の本が流れて来た。天地君は本を読み上げた。

 「野口英世は幼い頃、囲炉裏で大火傷を負いました。しかしそれに負けず、一生懸命勉強し、とても偉い医学博士となりました……。」

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 つまり、「電気」と「伝記」を引っ掛けたしょーもない駄洒落で、それを絵にしたから当時そこそこ笑えたが、現代なら投石ものだろう(苦笑)。
 勿論、薩摩守とてこのシーンで受けを狙いたかった訳ではない(←勿論大嘘)。些細なギャグのワンシーンでも「伝記」とくればいの一番に「野口英世」の名が挙がることにも英世の知名度の高さ、偉大さがあることを薩摩守なりに伝えたかったのである。

 まあ、伝記の代表選手となり過ぎたゆえか、最近では子供向けの伝記漫画では比較的抑えられている英世の酒癖の悪さや、経済観念の無さもクローズアップされるようにはなったが(苦笑)、それだけ偉大であるから注目されると云うことと云える。

 シカの子供は英世の他には四人の子を生んでいる。最初の男の子は死産で、次に生まれたのがイヌと双子の男児、そして英世清三と続く。
 イヌと一緒に生まれた男児は一〇日程で死去(←近代以前双子の内、一人がすぐに死んでしまうことはままあったそうである)。
 イヌは一般ピープルとしての九〇年の生涯を全うし、彼女が産んだ男児の一人が叔父・英世の養子となり、英世の妻・メアリーは昭和二二(1947)年に逝去するまで生涯義姉であるイヌへの仕送りを欠かさなかったと云う。日米が相争った当時の世相を思えば真の情愛に国境など無いことが良く分かる

 末子の清三は…………………スンマセン、何も分かりません(苦笑)。「五万回斬られた男」…………とは勿論何の関係もありません(←道場主「そりゃ、福本清三さんや!同名なだけやんけ!」)


母たる影響 およそ、野口英世の生涯を語るにおいて、野口シカの名が無視・軽視されることなど皆無と云っていいだろう。もしシカさんの存在を無視して英世の生涯を語る者がいれば、「真面目に語る気あるのか?」と云われても反論出来ないだろう。それほどシカ英世に与えた影響は、親が子の成長過程で人格形成に与える影響を考慮して尚、大きなものがある。
 野口英世が偉人伝の代表選手的立場にいることにシカさんの影響が大きいのは、偉人伝の代表選手を世界史に向けた際に、エジソンがその立場にいることが好例である(エジソンもかなり教育熱心な母の影響を受けている)。

 シカ英世を如何に厳しく、温かく教育したかは既に前述しているので同じことは繰り返さないが、三点注目したいことがある。

 一つは上京後に英世が挫折しかけた時のことである。
 左手の手術を受け、医学の偉大さに開眼した英世(当時まだ清作)は医者への道を目指し、病院にて住み込みで働きながら勉強をしていた際、周囲の高学歴な医者達からいじめに遭い、たまりかねて実家に帰ろうとしたことがあったが、実家のシカは夕飯も食べさせずに清作を追い返したと云う。
 この心を鬼にした対応が清作に更なる一念発起を産み、「天才でも三回は落ちる」と云われた医師試験に一発合格せしめたと云う。
 その後北里柴三郎研究所入りした清作を待っていたのは研究の日々ならぬ雑用の日々で、研究所の研究員達(大卒ばかり)は高校も出ていない清作はあからさまに見下し、研究に加わることなど夢のまた夢だった。
 いたたまれなくなった清作は「飲む・打つ・買う」に溺れる様になった(←この辺り父・佐代助に似ている)。まあ現代でも企業において干され、雑用係状態にされたら居辛くなるのだから、他に行く宛てもなかった清作が荒れた気持ちも分からないでもない。
 だが、そんな清作だったが、さすがにこの時は実家に戻らず、やがて坪内逍遥の小説『当世書生気質』に出て来る野々口清作の堕落振りに愕然とした清作は「英世」と名を改めて立ち直ったのだが、シカさんの教育があればこそこの時は自力で立ち直れたのだろう。
 偉大なる医学博士となった野口英世が才能溢れ、且つ努力する人でもあったことに微塵の間違いもないが、それでも一歩間違えていれば堕落し切った人生を送っていてもおかしくなかった局面が度々あった。野口英世が本当に恵まれていたのは、才能でも環境でもなく、シカ・小林栄・血脇守之助といった彼を育ててくれた人にあったと云えよう。

 もう一つのエピソードは英世の生涯ただ一度の帰国の際のものある。
 医学博士としての立身を志した英世は、家を出る際に柱に「志を遂げなければここには帰らない」という意の言葉を彫った(←この柱は現存している)。一方で英世は不自由な左手で農作業がままならないことやいじめに遭ったことから農業を営む実家、農村である故郷を嫌い抜いていたという説もある。
 そんな英世だったが、帰国して故郷・猪苗代に入った際にまっすぐ実家に戻らなかった。これはシカの厳命によるもので、帰国の折には必ず自分が不在中に母が世話になった近所の人達に御礼の挨拶をした上で帰宅するよう云われていたのである。
 当然、村に入ってから家に辿り着くまでは時間の掛るものとなった。同時に帰国した英世の下には地元の人達もいっぱい集まっていた。ド田舎(←地元の方々、失礼!)にご当地出身の、世界的に高名な医学博士が帰って来たのだから無理もない。そんな多勢の衆人環視の中、一軒一軒挨拶を済ませ、ようやくにして果たされた母子再会は言葉もないものだった………。

 最後の一つは英世の銅像にまつわるあるエビソード。
野口英世の銅像・胸像は東京上野の国立博物館、猪苗代の野口英世博物館、殉職の地となったガーナ・アクラ市、その他各地に数え切れないほどある(はっきり分かっているだけで171!)。
 その一つに大阪府箕面市に立てられたものがある。そのきっかけとなったのは、シカ英世の旅行で、箕面の料亭でのことだった。
 料亭での歓迎会に招待されたシカ英世に関西でナンバーワンといわれる芸者が舞を舞って歓待しましたが、英世は彼女に目もくれず、傍らの母親に「お母さん、これは鰹という魚のお刺身ですよ」「お母さん、松茸のおつゆですよ」と箸を取って食べさせ、始終「お母さん、お母さん」と云っては労わり通しだった。
 普通であれば、職業柄、芸者は自分が無視された、と腹を立てるところだったが、芸者は英世の心情を理解し、並々では出来るものではない、と、そっと涙を流したと云う。
 そしてこの様子を見ていた女主人も、「今まで沢山のお客を見てきたが、あの時の野口博士のように「お母さん、お母さん」とお母さんを大切にする客は一人もいなかった…。」と深く感銘を受け、このことをいつまでも忘れないでおこう、また後の人にも伝えていこうと思い、近所の小学校の子供達から寄付を募って、試験管を持って見上げる英世の像が作られるに至ったと云う。

 まあ、野口シカさんは、彼女が主役となる映画が作られるぐらいの人だったから、上記以外にも母子を語るエピソードはまだいっぱい有るだろうし、今更薩摩守が語るまでもないかも知れない。

 ただ、薩摩守が個人的に素晴らしいと思うのは、シカさんが英世を育て上げただけではなく、彼女自身も英世から強い影響を受けていたことに世間一般の親子愛を遥かに凌駕する愛情の強さを感じるのである。
 それは既に紹介したエピソードにも表れていて、一つは助産婦の資格を取ったことである。うちの道場主の下手の横好きな趣味の一つに語学の習得があるから分かるのだが、四〇歳を過ぎてからハングル文字、キリル文字(ロシア語)を覚えるのは相当骨だった。
 読めるようになるのが容易な文字でも、書ける様になるのはその何倍も大変なのである。それだけに予備知識があったとはいえ、四六歳で字を学んだシカさんの苦労たるや並大抵ではなかったと思えるのだが、彼女が国家資格を取る決意をしたのも、「今や世界的に高名な医学博士となった野口英世の母たるものが僅かな医学の心得もないのは恥。」と考えて一念発起したと云われている。正に、「この母にしてこの子あり。」と云えよう。
 またそんな母の息子だったからだろうが、英世側にも少し似たエピソードがある。
 明治四四(1911)年に英世はスピロヘータの純粋培養に成功した功績で京都大学から医学博士の称号を送られた際、これに大喜び。アメリカの同僚達から、「既に世界で認められた君が何故に日本で認められたぐらいでそんなに喜ぶんだい?」と尋ねられると、「田舎の母が物凄く喜んでいると思う。」と答えたと云う。
 福島の農村からほとんど出ることもない母にとって、息子が世界で認められることよりも、身近な日本で認められることの方がより実感の湧く、嬉しい出来事であった訳で、英世は息子としてシカのそんな心根を察して喜んだのだから、この母子は功績・誇りの面でも互いを想い合っていたのである。

 シカ英世から影響を受けていたことについて最後に触れておきたいのがシカさんの外見上の変化である。
 まずは下の写真二枚を見て欲しい。

BeforeAfter

 「Before」はシカ英世に有名な手紙を出した際に友人が同封したシカさんの写真である。英世は老いて痩せ細って小さくなった母の「近影」を見て、愕然とし、帰国を決意したと云われている。
 「After」はその写真を見た五年後に、帰国・母子再会を果たし、最初で最後の親子旅行に行った際のものである。
 見比べてみると、五年も経ってから撮影された写真のシカさんの方が若く見える、と思うのは薩摩守だけだろうか?写真は古いし、当時の技術では撮影状況やカメラの性能から前者の方が老いて見えることも考えられるだろうけれど、それでも薩摩守は一五年振りに功成り、名を遂げて還って来た息子と共にした時間がシカさんを若返らせたように思えてならない。

 世間のすべての親子がシカさんと英世の様であれば…………と願われてならない。


補足 余りにも野口シカさんばかりを絶賛してしまったので、念の為、英世の父・野口佐代助についても簡単に触れておきたい。

 英世の伝記が有名なので、佐代助も知名度のある人物だが、多くは「飲兵衛」・「酒乱」と酷評されることの多い人物だが、前述した様に、良くも悪くも「酒さえ飲まなければ…。」の人だった。

 シカさんは字が書けなかったが、佐代助は出身集落に学問を尊ぶ風習が綿々と続いていたこともあって寺子屋に通っていたので読み書きが出来た。シカ英世の頭の良さは父親に、と云っていたと云う。
 ただ、一六歳の時に戊辰戦争に輸送隊として徴用され、最前線で戦場の惨さがトラウマとなったことで彼は酒に溺れ出したと云う(←簡単に彼を笑ってはいけない。現代でも戦争に出た後に殺し殺される世界がトラウマになって酒や薬物に溺れる人間は後を絶たないのだ)。

 戦後、野口清太郎の養子となり、野口家の一人娘シカと結婚した佐代助は、農業と奉公に励み、明治一〇年に駅逓局(郵便局)が開局されると逓送人として働くことになり、約二五年間に渡ってこれを務めた。
 それこそ酒さえ飲まなければ仕事熱心で、末子・清三が、北海道野付牛町(現:北見市)に住んでいたときは、同居して仕事を手伝い、英世が一五年振りに帰国した際はさすがに自身も帰郷したが、また北海道に戻って働いた。
 晩年は故郷で英世の恩師・小林栄のもとに住み込んで農事を手伝ったが、佐代助は桑・果樹・野菜の栽培、養蚕にも腕を発揮し、小林の家に出入りする子供達にも慕われていたと云う。

 少年の頃の英世が夜遅くに貴重な油を使った灯りで勉強するのを愚痴り、「油よりも酒の方が高い。」と反論されたときは英世を殴りつけるような面もあったが、やはり息子を想う気持ちは有った(←当たり前だ!)。
 農家の倅・清作が高等小学校に通ってまで勉強するのを、「シカさんも物好きな……。」と村人が呆れた際には、「清作はなぁ…親父の俺みたいにならねぇ様に頑張っているんだ!文句あるかっ!!」と酔っ払いながら怒鳴りつけた云う(←美談なんだろうけど、何か自慢になっていないような……)し、アメリカで出世した英世が古着・鞄・靴を送って来ると、洋装が似合った訳でもないのに佐代助は喜んで使用していたと云う。

 そんな佐代助を同居していた小林は著書『博士の父』で、「父上は決して悪い人ではない。まことにさっぱりとした良い人で、無邪気な人である。」と評し、手先の器用さ、農業の巧みさ、そして息子・英世の自慢話は少しもしなかったことを褒めている。
 そんな佐代助は月一度必ず自分の生まれた村にある小平潟天神に参拝して、英世の成功を祈っていたと云う。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新