第玖頁 徳川綱重………父・兄・弟・息子が皆、将軍

名前徳川綱重(とくがわつなしげ)
生没年正保元(1644)年五月二四日〜延宝六(1678)年九月一四日
地位甲斐甲府藩主、従四位下左近衛権中将兼左馬頭、正三位参議
徳川綱豊(家宣)、松平清武
子孫への影響六代将軍選定の複雑化
略歴 正保元(1644)年五月二四日、時の将軍・徳川家光を父に、その側室お夏の方を母に三男に生まれた。幼名は長松 (祖父にして、二代将軍である秀忠の幼名に因んだ)。
 母・お夏の方が長松を懐妊したとき、父・家光が厄年にあたっていたので、、災厄を避けるために伯母・天樹院(千姫。豊臣秀頼未亡人)が養母となった。

 慶安四(1651)年四月三日、甲斐国府中藩一五万石に封じられ、二年後の承応二(1653)年八月一二日に一〇歳で元服した。
 元服に際し、兄にして四代目将軍である徳川家綱の偏諱を一字賜わり、徳川綱重と名乗った。また同日、従四位下・左近衛権中将兼左馬頭に任ぜられた。弟・綱吉も同じ日に八歳で従四位下右近衛権中将右馬頭に叙任されたと云うから、親ならぬ兄の七光りも随分露骨である(笑)

 立場は甲府を本拠とする親藩大名だったが、所領は甲斐、武蔵、信濃、駿河、近江に散在していた。ただ、将軍家の一員として江戸の屋敷で生活し、甲斐に入ることは一度もなかった。
 寛文元(1661)年閏八月九日、一〇万石を加封され、 同年一二月二八日に参議に補任されたことで、以後、唐名から「甲府宰相」と称されるようになった(余談だが、弟綱吉も同日参議に補任)。

 綱重の統治は、関孝和を抱えるなど学問に理解があり、甲府に湯島聖堂と同様の聖堂を作ろうとした。前述した様に綱重自身は甲斐入りしていないが、在国の家臣団が主導し、釜無川の治水における徳島堰の開削などが行われた。
 またその人望はきわめて高かったとされている。

 だが延宝六(1678)年九月一四日、逝去。徳川綱重享年三五歳。死因は酒害説(息子の綱豊 (家宣)が酒好きだった)と、大老・酒井忠清と対立した果てのあて付け自害説等があるというが、詳細は不明である。
 兄・家綱の死はその二年後で、今少し存命なら綱重が五代将軍になっていた可能性は充分にあった。


活躍した子供 徳川綱重の子には、六代将軍となった徳川家宣と、上州館林藩主となった松平清武がいた。
 ちなみに征夷大将軍の地位も、館林藩主の地位も、兄弟の叔父である徳川綱吉の後を継いだことになる。

 二人とも綱重が正室を迎える前に側室・お保良の方を母として生まれたため、幼少時は世間を憚って家臣の子として育ち、徳川姓でも松平姓でもなかったが、正室に子供が生まれなかったために綱重の子として認知され、綱重存命中は家宣 (←この時点では「綱豊」)は甲府藩主跡取りで、清武(←この時点ではまだ未元服)は越智家跡取りに過ぎなかったが、綱重逝去後、家宣は甲府藩主に就任。その後、叔父の綱吉が将軍に就任したことで清武が綱吉の任地だった館林藩を継承することとなった。

 甲府藩主並びに征夷大将軍としての家宣の評判はすこぶる良く、賄賂を嫌い、学問に熱心で、家臣に慈悲深かったことに対しては綱吉も認めざるを得なかった。
 将軍就任後は生類憐みの令を廃止し、元禄金銀の再改鋳、文治政治の継承を推進。人事面では前将軍側用人の柳沢吉保を罷免し、新井白石・間部詮房を重用し、その政治は「正徳の治」と呼ばれ、四年に満たなかったことを惜しむ声は多い。

 館林藩主となった清武は、歴代館林藩主の記録を編纂する学者肌な藩主となり、財政再建にも意欲的だったが、結果として重税を課し、藩内に一揆を、江戸藩邸にも強訴集団を招いてしまった。
 清武は首謀者を死罪にしたが、年貢減免は認めた。失態ではあるが、然程有名ではないので大失態と云う程ではなかったのだろう。


父たる影響 「父たる影響」云々以前の問題として、徳川家光の息子達の中で、ただ一人徳川綱重だけが父親になったと云うのが歴史的影響と云える。
 勿論、厳密には綱吉も鶴姫・徳松という二児の父になったのだが、不幸にして二人とも夭折してしまった。兄の家綱は生涯子を為しておらず、他の兄弟は成人前に夭折していた。
 それゆえ、綱重の子供達には消去法的に将軍候補者としてクローズアップされる立場に立ったのだった。

 また、「家綱公より長生きしていたら、綱重公が五代将軍に就任していた筈。」との認識が周囲にあったことも大きい。
 というのも、家綱に子が無く、将軍後継問題が危ぶまれていた頃、大老の酒井は鎌倉幕府の故事に習って宮将軍を迎えようとしていたが、水戸光圀と老中の堀田正俊は「家綱公の弟君が継ぐべし。」と早くから主張していた。
 つまりこの二人は血縁と長幼の序を重んじた者で、この正論が通る形で五代将軍には綱吉が就任した。綱吉自身、綱重との仲は良好で、儒学と仏教の熱心な信者として「長幼の序」を重んじる人物だった。
 ただ、「長幼の序」を重んじることは綱吉以後を少々複雑にした。綱吉も人の子、就任前はともかく、自らが征夷大将軍となると六代目には徳松を考えた。そしてその徳松が夭折すると、娘婿の紀州綱教を将軍後継に考える様になった。まあ、自分の血統を残したい人情だろうか。

 それに対して、徳松存命時から「長幼の序から、綱重公の遺児・綱豊 (家宣)公こそ次期将軍に相応しい!」と主張していたのが前述の光圀と堀田だった。
 綱吉も両名に恩義を感じつつも、次第に疎んじる様になったのにはこの後継者問題があった。殊に徳松亡き後は以前にも増して「綱豊推挙」の声を両者は声高に挙げ出し、この正論には、鶴姫の岳父に当たる紀州光貞も表面上は同意していた(勿論、腹の内では綱教将軍就任を望んでいたのだが)。
 ただ、徳松死の翌年、堀田正俊は暗殺され、光圀も御三家当主で最初に隠居を強要されるも、鶴姫・綱教ともに早世し、綱吉も事ここに至っては綱豊を養嗣子とすることを決めざるを得なくなった。

 綱吉が綱豊をなかなか養子としなかったのには、「親」の問題もあった。「親」と云うのは綱重と綱吉それぞれの母である。
綱重・綱吉兄弟の仲は良好だったが、綱重の母・順性院(お夏の方)と綱吉の母・桂昌院の仲は険悪だった。
 というのも、両者とも身分の低い生まれながら家光のお手付きとなり、その子を産んだことで「お部屋様」の身分が与えられたということで共通しており、その分、家光の寵愛や大奥での待遇を巡って対立があったらしい。
 一説によれば順性院は桂昌院を折檻までしており、その恨みもあって、桂昌院は順性院の孫に当たる綱豊継承だけは断固として反対していた。それに対して綱吉は内心母の執念深さに閉口しつつも、親孝行な息子ゆえに正面切って反対が出来なかったらしい。
 まあ、この問題に関して綱重の責任は皆無だが、「親の影響」として少々触れさせて貰った(苦笑)。

 さて、ここから先は薩摩守の独断と偏見によるのだが、どうも徳川綱重と云う人間、高貴な人間の地位を巡る醜い争いに辟易していたようで、その想いは二人の息子にも受け継がれていたようである。
 綱重は将軍家の例に習い、関白家から正室を迎え、正室死後も関白家から継室を迎えたが、それ以前に身分の低い女性に手を付けて子供を産ませていた。その女性が家宣清武を産んだお保良の方である。
 綱重はいずれ正室の腹から男児が生まれればその子が嫡男となることを慮ったのか、それとも兄・家綱に子供がいないことを慮ったのか、二人の子を最初は家臣の子として育てさせた(それゆえ当初、家宣は「新見」姓、清武は「越智」姓だった)。
 同時にそれは妙な権力争いに巻き込ませたくない親心だったのかも知れない。結局は正室・継室に子が生まれなかったため、家宣は徳川姓に、清武は松平姓になったが、この慎重姿勢が綱重父子に継承された様に薩摩守には思われる。

 それゆえ、「六代目将軍を誰にするか?」と云う問題に対し、家宣は色気を見せなかった。
 また、家宣が逝去し、家宣の子で七代将軍となった家継が夭折し、「八代目将軍を誰にするか?」と云う問題が浮上した際、天英院(家宣正室)が最初に推したのは清武だったが、清武が越智姓でいた期間が長かったこと、既に若くなかったことに加え、何より清武自身が色気を見せなかったことで天英院は紀州吉宗を推すことになった。

 家宣の子・家継が夭折し、清武の子・清方も夭折したので、ここに綱重並びに家光の血統は断絶した。家宣系将軍が続くか、または清武系将軍が生まれていたとしたら綱重の存在がどのように後世に映っていたかの興味は尽きない。


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平成二七(2015)年五月二〇日 最終更新