第弐頁 藤原兼家………兄弟喧嘩の歴史は繰り返すのか?

名前藤原兼家(ふじわらのかねいえ)
生没年延長七(929)年〜永祚二(990)年七月二日
地位摂政、関白、太政大臣
道隆、道綱、道兼、道長、超子、詮子
子孫への影響摂関独占体制の確立
略歴 延長七(929)年、藤原北家の家系である藤原師輔(ふじわらのもろすけ)の三男に生まれた。

 少し藤原氏の流れについて触れると、藤原北家は奈良時代に一時政権を独占した藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の一人で最も政治的手腕に優れていた房前(ふささき)の子孫で、藤原兼家の高祖父・良房(よしふさ)の代に外祖父として臣下で初めて摂政となった。
 曾祖父・基経(もとつね)は阿衡事件(あこうじけん)で宇多天皇を困らせる程の権勢を持ち、祖父・忠平(ただひら)は菅原道真を庇ったために祟りを免れ、平将門の乱藤原純友の変にも対処、と云う風に、既に平安史上に名立たる者達を輩出していた(上記家系図も参照されたし)。

 当然、父・師輔も強い権力を保持しており、その威光もあって、兼家は天暦二(948)年に二〇歳で従五位下に叙され、翌天暦三(949)年には昇殿を許される程だった。
 康保四(967)年、冷泉天皇の即位時に、次兄・兼通(かねみち)に代わって蔵人頭兼左近衛中将に、そして翌安和元(968)年には、兼通を飛び越して従三位に叙された。

 兼家は兼道とは仲が悪かったが、長兄・伊尹(これただ)とは仲が良かった。伊尹が政権基盤を確立する際に、彼の為に兼家が宮中掌握に動き、安和の変(左大臣源高明が謀反の嫌疑で大宰府に流された事件。これによって藤原氏以外の対抗勢力は消滅した)を策謀してくれたから、と見られている。
 その伊尹が摂政になると兼家も重んじられ、長女・超子 (ちょうし)を冷泉天皇に入内させるのを伊尹は黙認した。

 天禄三(972)年、正三位大納言・右近衛大将・按察使に就任。
 官位は兼通のそれを上回り、兼通は益々兼家を憎むようになった。そしてその年、伊尹が早世すると兼通の報復が始まった。
 兼通は円融天皇に対して、皇太后・安子の遺言をたてに「関白は兄弟順に」との法則を重んじさせ、兼家が就く筈だった関白の地位を奪い、その後の兼通による報復人事で兼家は不遇の時代を過ごすこととなった。

 兼通の報復人事は露骨で、円融天皇に讒言して、兼家の次女・詮子 (せんし)が女御に入るのも妨害。兼家自身も全く出世出来なかった。
 兼通は兼家を大宰府にでも飛ばしたいほど憎んでいたが、兼家が落ち度を見せなかったので、朝廷には留まれた。
 そして貞元二(977)年、兼通は病に倒れ、重態に陥った。兼通はそんな重病の身をおして参内し、最後の除目(じもく。朝廷人事)を行った。それは、関白位を従兄である藤原頼忠に譲り、兼家の右大将・按察使の職まで奪い、治部卿に格下げするというものだった。
 従兄に関白の位を譲ってまで弟の出世を妨害したのだから、兼通の兼家嫌いは筋金入りである(←兼家が兼通の見舞いにも行かなかったことを憤っての事でもあるのだが)。

 幸い、新関白となった頼忠は、兼家を嫌ってはおらず、天元元(979)年に兼家を右大臣に就任、七年振りに出世した。
 その後、兼家は次女・詮子 を円融天皇の妃として入内させることに成功し、詮子は懐仁親王(後の一条天皇)を出産。これが後の藤原家全盛期の礎となった。
 ただ、すぐに上手く行った訳ではなく、詮子の待遇を巡って兼家は円融天皇と不和となり、詮子、孫・懐仁親王ともども東三條殿の邸宅に引きこもった。

 永観二(984)年七月、兼家の頑固さに円融天皇が譲歩する形で和解が成立。円融天皇は翌月、甥である花山天皇(兄にして、先帝であった冷泉天皇の子)に位を譲り、皇太子には円融天皇の皇子で、兼家の孫にあたる懐仁親王が就任した。
 その花山天皇は寵愛していた女御の急死を受け、絶望してことで、在位二年も経たないのに出家を考える様になった。
 これを好機と捉えた兼家は三男・道兼 (みちかね)をして花山天皇に出家をしきりと勧め、寛和二(986)年六月二二日夜、天皇は道兼とともに禁裏を抜け出し、山科・元慶寺に入り、出家した。本当は道兼もこれに付き合って出家すると云っていたのだが、道兼は「出家する前の姿を最後に父に見せたい」と云い出して、逃げ去った。
 早い話、花山天皇を欺いたのだが、一度剃髪した以上は手遅れで、花山天皇の出家・退位は成立した(寛和の変)。

 これにより、懐仁親王が即位(一条天皇)。兼家は一条天皇の外祖父として念願の摂政・氏長者となった。後々には常識化した外祖父の摂政就任だったが、兼家の就任は高祖父・良房以来の快挙だった。

 更に兼家はその年の内に従一位・准三宮の待遇を受け、右大臣を辞することで前関白・太政大臣藤原頼忠、左大臣・源雅信の下僚という地位を脱却し、准三宮としてすべての人臣よりも上位の地位を保障される立場に就いた。
 また、一条天皇を春日社(←藤原氏の氏神)へ行幸させ、嫡男・道隆 (みちたか)や五男・道長 (みちなが)等を公卿に抜擢し、弁官を全員自派に差し替えるといった強引な手腕を振るい、一方で有能な人材登用、新制発布、官僚機構の再生、官祭を定めて二十二社制度の基礎をつくるなど、積極的な政治を展開した。

 永祚元(989)年、道隆を内大臣に任命。同年従兄・頼忠が薨去すると、後任として太政大臣にも就任。翌永祚二(990)年に一条天皇の元服に際して加冠役を務め、関白にも任じられたが、僅か三日で病気を理由に道隆にその地位を譲って出家した。
 二ヶ月後の七月二日に病没。藤原兼家享年六二歳。


活躍した子供 藤原兼家は息子・娘達を総動員して藤原氏全盛期の一歩手前までを形成した。息子達は公卿・参議として自らの周囲を固めさせ、娘達は次々と天皇の妃として送り込まれた。

 最も有名なのは後に一家立三后を成し、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思えば」と詠う程の権勢を誇った藤原道長だろう(五男)。
 本来、五男である彼が摂政となるのは至難だったが、彼自身の度胸・教養・人付き合いの上手さに加えて政敵の早世、自滅的失脚と云った幸運に助けられ、位人臣を極めた訳だが、当然、兼家を初めとする父祖の付けた先鞭の寄るところも小さくはない。

 その道長の陰に隠れがちだが、道長の兄に当たる道隆道綱 (みちつな)・道兼もつとに有名である。
 嫡男・道隆は大酒飲みと糖尿病が祟って兼家の死後、僅か五年で病死したため影は薄いが、花山天皇出家時には弟・道綱とともに三種の神器を東宮御所へ運び込み、一条天皇即位の段取りを整えた。
 また道隆の長女・定子(ていし)は一条天皇の中宮となって、寵愛深く、その定子のために「優れた女房を。」として道隆が清少納言を付けたことは有名であろう。
 もし長生きしていれば相当な権勢を誇ったことに疑いは無く、道隆病死の直前、次男・隆家は僅か一七歳で権中納言に就任する程だった。隆家は後に大宰府で刀伊の入寇 (といのにゅうこう。女真族と思われる異民族による九州襲撃)を阻止するのに優れた手腕を発揮しており、道隆嫡男の伊周(これちか)ともども才能ある人物ではあったが、いくら何でも一七歳での権中納言任官は親の七光り以外の何物でもないだろう。

 次いで次男の道綱。彼の場合は『蜻蛉日記』を著した母親の方が有名だ(苦笑)。妾腹だった為に兄弟達ほどの出世は出来なかったし、父・兼家の政治的才能も、母の文学的才能も受け継がず、その両面では無能とする当時の記述もあるが、それでも人と争わない性格が幸いして、異母弟・道長とも仲良くすることでそこそこの地位(従二位・右大将・大納言)に登り、弓の腕はかなりのものがあったと云うから、全くの無能ではなかったのだろう。
 ちなみに、彼の母は一般に「右大将道綱母」として知られる。

 そして最後は道兼である。
 花山天皇出家時のやり手ぶりは前述した通りで、政治家・謀略家としての手腕は明らかに兄・道隆を上回り、弟・道長と比べても遜色なかった。寛和の変における自らの功績から、父・兼家の関白位を継げるのは自分だ、との自負を持っていたが、兼家死後に道隆がこれを継ぐと、これを恨むこと露骨だったと云う(兼家喪中に昼間から酒盛りをしていた)。
 道兼は容貌醜く、長幼の序も守らず、部下に冷酷で、謀略にも長けていたから決して人に好かれる人物ではなかったが、そんな彼を「老成している」と認める向きもあった。
 何より、道隆が死に臨んで息子・伊周に関白を譲位することを申し出ても許されずに、その位が道兼に回って来たのはそれだけ彼の能力が優れていればこそだろう。ある意味、長屋王を嵌めた藤原北家始祖房前、兄と露骨に争って謀略を繰り返した父・兼家に一番似ているのはこの道兼かも知れない。
 だが、兄・道隆の死後、一七日目に関白に就任した道兼は疱瘡(天然痘)の為にその一〇日後に世を去った。世に云う「七日関白」であった。

 一方で、娘だが、有名なのは詮子だろう。
 一条天皇の母となった彼女が、道隆道兼死後に、一条天皇の中宮定子の兄である甥・伊周と、一条天皇の伯父となった弟・道長のどちらを取り立てるかの問題に際して、母の力で一条天皇をして道長を内覧に就任せしめたのは有名である(道長もこれに恩義を感じていたのか、後に「伊周・隆家兄弟が詮子様の病が重くなるように呪っている。」との噂を聞いた際は激怒して、彼等を大宰府に流した)。
 強権発動、仏教への篤い信仰心を見ると、彼女もまたかなり兼家のDNAを受け継いでいると云えよう。


父たる影響 藤原家が皇室の外戚として、天皇に近侍し、高位高官にて政権を掌握する体制そのものは飛鳥時代後半には既に確立していた。奈良・平安時代を通じて、皇族・橘氏・菅原氏・醍醐源氏・伴氏といった政権争いのライバルとなり得る他の氏族も数々の政変で失脚し、まだ藤原兼家が政権を握る前の安和二(969)年の安和の変での源高明失脚を最後にすべての他氏族政敵排除に成功していた。

 藤原家とは、鎌倉幕府の執権を務めた北条家とどこか似ていて、身内同士でも政権を巡って露骨に醜争を繰り広げる割には、他氏族との政争においては一致団結して排除に当たった(恵美押勝の乱では一族で割れても、弓削道鏡の即位を阻止した宇佐八幡宮神託事件では一致団結したのが好例だろう)。
 だが、前述した様に安和の変で藤原氏の対抗勢力は失せており、当時兼家は四一歳の働き盛りで、従三位・中納言の地位に在った。そんな兼家にとっては、他氏族や皇室よりも同じ藤原氏−特に兄の兼通が最大の政敵だったのは前述通りである。

 ここで父親としての兼家を見てみたいが、薩摩守の平安史研究・知識量は戦国時代のそれに比べて著しく少ないので推測に頼るところが大きいのだが、恐らく兼家は、正室腹の道隆道兼道長の個性を重んじつつ、それぞれの役割を当て、娘達には徹底して天皇の母となり、孫をコントロール出来る立場に就くことを命じたのだろう。

 そんな教育があってか、道隆道長は強引にでも娘を入内させ、身内を次々と出世させる兼家の流儀をしっかり受け継いでいた。
 嫡男・道隆は豪放な性格で大酒を好み、軽口を叩く悪い癖がありつつも、気配りが出来る人物でもあった。どこか、「自分は父・兼家の地位を継ぐに決まっている。」との思い込みの強さが、長所にも短所にも表れた気がする。

 三男・道兼は謀略家としての資質を受け継いだとともに、政権獲得に意欲的なあまり、兄にも露骨な敵意を向ける面まで受け継いでしまったようである。「兼家VS兼通」の図式は「道兼VS道隆」の図式にもある程度当てはまる。

 そして五男・道長は有名なだけにエピソードが多いのだが、そこに父としての兼家の姿も垣間見える。
 幼少の頃、道長は玩具を巡って兄と喧嘩することも多く、喧嘩に負け、玩具を強奪された兄達が道長を訴えると、兼家は「兄のくせに弟に負けるとは何事か!」と訴えた側の兄達を叱り、道長を叱ることは無かった。
 そんな育ちを経た道長は兄弟の中でも肝の据わった性格となり、道隆道兼死後に兼家のやり方を踏襲する形で藤原氏の全盛期を築いた訳だが、惜しむらくは極端過ぎた。
 一家立三后を成功させる辣腕家・幸運児に思い上がるな、という方が無茶なのか、甥にして、娘婿でもある三条天皇を退位させた際の強引さは眉を顰めたくなるものがあるし、その三条天皇に嫁いでいた妹・綏子 (すいし)が不義密通事件を起こした際には、いきなり綏子の元を訪れ、その衣服を剥ぎ取り、乳房を捻り上げて母乳が出たのを確認するということを仕出かしたのだから、並の神経ではない人物になっていた。

 惜しむらくは兼家は自身がそうだったように、父の死後に息子達が協力し合う体制を残せなかったことだろう。
 兼家自身が父・師輔、長兄・伊尹死後に次兄・兼通と露骨な政争を繰り広げた程ではなかったが、兼家死後の道隆道兼道長の仲は良かったとは云い難く、道長の家系が政権独占期を築いたものの、他の藤原氏族を排除したことで、後に後三条天皇と云う藤原家の流れを汲まない天皇が誕生し、時代の白河上皇院政の前に摂関政治はかつてほどの力を持てず、保元の乱においても藤原忠通・藤原頼長兄弟が相争ったことで以後武士に逆らえない藤原家となってしまった………。

 まあ、そこまでの責任を兼家の兄弟喧嘩に求めるのは酷だな(苦笑)。


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令和三(2021)年六月二日 最終更新