第参頁 足利義詮………影薄き二代目の意外な活躍
名前 足利義詮(あしかがよしあきら) 生没年 元徳二(1330)年六月一八日〜正平二二/貞治六(1367)年一二月七日 地位 征夷大将軍 子 義満・満詮 子孫への影響 南北朝統一の礎作り。嫡男以外の僧籍行き慣例
略歴 鎌倉幕府滅亡の三年前である元徳二(1330)年六月一八日に、父・足利高氏(尊氏)と母・赤橋登子(鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹)の間に嫡男として生まれた。幼名は千寿王(せんじゅおう)。
足利家は源氏の流れを汲む家系で、代々鎌倉幕府に忠実な御家人として仕えて来た。父・高氏も、執権の妹を正室としており、後醍醐天皇の倒幕運動に対しては幕府を守る重要な対象と目されていた。
そのため、高氏が元弘三(1333)年、伯耆国船上山にて挙兵した後醍醐天皇の討伐を命じられ、上洛した際、千寿王は母・登子とともに人質として鎌倉へ留め置かれた。
だが、高氏は後醍醐天皇方に付き、幕府に反旗を翻して京都・六波羅探題を攻略。足利家家臣達は千寿王を連れて鎌倉を脱出し、新田義貞の軍勢に合流した。
このとき、まだ四歳に過ぎなかった千寿王は、(家臣らの補佐を受けてではあったが)父の名代として、鎌倉攻め参加の武士に対し軍忠状を発付した。このことが後に足利氏が武家の棟梁として認知される端緒となったのはいうまでもない。
だが、新田義貞はこの千寿王の行為に怒り、高氏との関係を悪化させる元となった。
やがて高氏が六波羅探題を、義貞が鎌倉を陥落させ、鎌倉幕府は滅亡。武士から政権を取り戻した後醍醐天皇は親政を開始(建武の新政)。
新政時、千寿王は叔父・直義に支えられて鎌倉に留まり、やがて尊氏が後醍醐天皇から離反すると、父とともに南朝と戦いうに際して、鎌倉における関東統治に尽力した。
だが武士を憎み、すべての者が治天の君たる自分に従うのが当然、と考える後醍醐天皇は態度こそ、高氏に自分の御名・尊治(たかはる)の一字を与えて「尊氏」と名乗らせると云った親密さを見せるが、政治的には尊氏を軽視したため、やがて尊氏は後醍醐天皇と袂を分かち、暦応元(1338)年に光厳天皇を立てた北朝を作り、征夷大将軍となって、新幕府を開いた(室町幕府開府)。
その室町幕府内にて、貞和五(1349)年に足利家の執事である高師直と尊氏の弟の足利直義の対立が激化して観応の擾乱が勃発。直義が失脚したことにより、千寿王改め義詮は尊氏から京都へ呼び戻され幕政を任される身となった。時に足利義詮二〇歳。
観応二(1351)年八月、尊氏は直義派に対抗するために義詮と共に南朝に降伏(←一時的なものだったが)。一一月には南朝方の年号である「正平」に改めることにも応じた。
たが、南朝方は元々勤皇の気持ちが強かった高氏の気持ちを一顧だにせず、高氏を信用せず、翌年には北畠親房や楠木正儀等が京都へ侵攻してきた。
義詮は京を逃れて近江国へ避難。光厳、光明、崇光天皇の三上皇及び皇太子の直仁親王を奪われる有り様だったが、逆に腹を括り、「観応」の年号を復活させるとともに兵を募って京都を奪還。
三種の神器の無い状態で新たに後光厳天皇を即位させた。
文和二(1353)年、文和四(1355)年と、京都を奪ったり、奪い返したりする中、異母兄の直冬(ただふゆ。叔父・直義の養子になっていた)とも干戈を交えた。
そんな戦いが続く中、延文三(1358)年四月に三〇日、父・尊氏が病没。一二月に二九歳の義詮が第二代征夷大将軍に任命された。
将軍の地位と、南北朝統一の悲願を父から受け継いだ義詮は早速、河内や紀伊に出兵して南朝軍と交戦し堅城として名高い赤坂城などを落とす活躍を見せた。
だが、南朝は三種の神器を保持している強みがあり、幕府からも仁木義長、管領・細川起用時までもが南朝に降伏(←佐々木道誉の讒言があったらしい)。南朝方に一時的に京都を奪還されることもあった。
だが、義詮は康安二(1362)年7月、清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将を任命。貞治二(1363)年には大内氏・山名氏と云った有力大名が幕府に帰参して政権は安定し始め、南朝との講和も進んでいた。
だが、天運は義詮に寿命を与えなかった。死期を悟った義詮は貞治六(1367)年一一月にまだ一〇歳の嫡男・義満を彼の養育係であった細川頼之を管領に任じて託した。
翌一二月五日、大量の鼻血を噴出して倒れた義詮は二日後の一二月七日に逝去した。足利義詮享年三八歳。
奇しくもその日はちょうど一年前に息子・春王が後光厳天皇から「義満」の名を与えられ、足利幕府正統を位置づけられた日と同日だった。
遺言により、楠木正行の墓の隣に葬られた。
活躍した子供 筆頭は云うまでもなく足利義満である。
妾腹の生まれで厳密には嫡男ではなかったが、正室との間に生まれた真の嫡男・千寿王は僅か五歳で義満生誕前に亡くなっていたので、実質嫡男として育てられた。
前述した様に幼くして父・義詮を失い、北朝勢力の筆頭として雌伏を強いられたが、立派に成長し、将軍就任の二四年後に南北朝統一に成功したのを初め、北山文化大成・勘合貿易といった歴史的功績を挙げ、室町幕府全盛期を築き上げたのは有名である。
その権勢の強さは、天皇の妃にすら手を出し、一説には皇位簒奪(正確には息子・義嗣を天皇にしようとした)すら目論んでいたと云われている程である。
義満を「筆頭」と前述したが、逆を云えば、義満以外の義詮の子女は有名ではない。
それは権力争いを防ぐ為の足利将軍家の伝統で、将軍家の子女は将軍位を継ぐ嫡男以外は僧籍に入ったからに他ならず、それは義詮の代に始まった(詳細後述)。
だが、だからといって義詮の子供達が無能だった訳ではない。
義詮の子供達は、義満以外は僧籍に入ったが、政治的には目立たずとも個々に活躍した。
三男・柏庭清祖 (はくていせいそ)は義詮臨終に際して剃髪して禅僧となり、青山慈永の法を修めるのに務め、建仁寺にて両親の菩提を弔い続けた。
四男・満詮 (みつあきら)は兄・義満を良く助けて甥にして四代将軍であった義持が上杉禅秀の乱の平定に苦心した際にも尽くした。
五男・廷用宗器 (ていようそうき)は南禅寺や天竜寺の住持を務め、妙心寺が義満に逆らった際には鎮圧後に寺領を受け継いで戦後処理に尽力した。
一人娘・恵昭 (けいしょう)は宝鏡寺の住持となった。
う〜ん、やはり政史・戦史に名前を残していない人物を調べるのは骨が折れる……(苦笑)。
父たる影響 一般に足利義詮の名は有名でも、史上における影は薄い。
それは取りも直さず、『太平記』における彼の扱いによるところが大きい。別例を挙げれば『平家物語』における平清盛・重盛父子の扱いがある(←清盛の孫・維盛を辱めた摂政の子とその取り巻きを清盛が袋叩きにして、髻を切ると云う報復をし、重盛がこれを諌めるシーンがあるが、実際に暴力的報復を行ったのは重盛である)。
『太平記』における義詮は、「他者の口車に乗り易い酒色に溺れた愚鈍な人物」というえらい書かれ様だが、義詮が真に無能なら義満以下の有能な子孫は誕生していない、と考えて薩摩守はこの人物に注目した。
果せるかな、義満が為した南北朝統一も、室町幕府全盛期確立も、その礎は義詮の代にかなり固められていたことが分かった。
そのことを考察するのに、室町幕府の権力構造を顧みる必要がある。
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そもそも幕府は武家政権の事を指すが、武士が幕府を作った=必要としたのは、武士の権益を守るためである。つまり武士の権益(土地であったり、政治上の権利であったり)を守る義務が幕府にはあるのだが、元寇における恩賞問題を巡ってその守護者たる信頼を失った鎌倉幕府は、そこを後醍醐天皇率いる反幕府勢力に付け入られ、滅亡した。
ところが、今度はその後醍醐天皇が功労者である筈の武士の権益をとんでもなく軽視した。コテコテの朱子学徒で、それを自分に都合よく解釈しまくった後醍醐天皇は万人が自分に忠義を誓うのが当たり前みたいに思っていた節があり、鎌倉幕府倒幕に協力した武士を冷遇した為、足利尊氏は北朝を立て、北朝の天皇から任命される形で室町幕府を開き、武士の権益を守らんとした。
もともと足利尊氏と云う男は情に脆い武人で、人として優しく、政治的に冷酷になれない人間だった。だが冷酷になれない所を漬け込む敵が多く、皮肉にも身内とも、直臣とも、北朝と南朝の間で右往左往する武士とも戦うこととなった。
そんな経緯を経て生まれた室町幕府は足利家の独裁政権になり得なかった。勿論、鎌倉幕府や江戸幕府も将軍・執権・大老が全くの独裁者だった訳ではないが、有力大名の助けを必要とし、立場上その権益を重んじなければならない室町幕府の「王権」が鎌倉幕府・江戸幕府のそれに比べて著しく弱かったのは否めない。
有力大名とは、管領や地方探題を務めた細川・斯波・山名・赤松・大内・今川・畠山諸氏のことで、後に室町幕府最盛期を築いた足利義満でさえ、若き日には自らの師傅で側近でもあった細川頼之のリコール運動を抑え切れずに管領を解任し、将軍継承問題に便乗した有力大名の勢力争いが応仁の乱に繋がり、戦国時代が始まったのも、室町幕府が有力大名の力に依存し、それを御し切れなかった所に在ったと云っても過言ではない。
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武士の権益を守る為に戦いつつも、形式上は朝廷の臣下なのが征夷大将軍だったから、尊氏・義詮・義満は本当に苦労した。
鎌倉幕府倒幕の為に戦った仲間も、楠木正成の様に暴君・後醍醐天皇に何処までも忠義を尽くした者や、新田義貞の様に同じ源氏の血を引く足利家をライバルと見る者は敵として立ちはだかり、何度戦に勝っても、三種の神器を持つ南朝方の大義名分の前に離反者が相次いだ。
そんな渦中に在って、足利義詮は父・尊氏が現場指揮官として戦場を東奔西走する中、半済令を発して武家の経済力を確保したり、異母兄・直冬の侵攻を破ったりしており、内政にも軍略にもちゃんと活躍していた。
細川清氏や斯波氏が失脚した際も、それに乗じる守護勢力を抑制し、中央の将軍権力を高めると云った政治力も発揮した。
勿論将軍となってからも、短い在位中に有力守護大名の大内弘世・山名時氏を初め、仁木義長等を幕府に帰参させるのに成功している。
自らが動くだけでなく、奥州には石橋棟義を、九州には斯波氏経、渋川義行を派遣し、各地の平定にも努めた(九州平定は実現しなかったが)。
また、尊氏同様に文人でもあり、連歌や和歌が多く後世に残し、尾道に、天寧寺を建立したりもした。
父・尊氏が(戦に)強過ぎたゆえ、決して無能ではなく、むしろ有能であった筈の義詮の事績は目立たず、『太平記』にそっぽむかれたり、現職将軍時代が短かったりしたことが災いし、義詮は、歴史上の影が薄く、正当な評価を受けているとは云い難い。
だが、彼の事績や有力守護大名の動きをみると、息子・義満が為した南北朝統一の礎は既に義詮が築いていたことが分かる。
最後に、義詮を襲ったもう一つの苦悩が、彼が父として、息子達を初め、子々孫々に残した影響について触れておきたい。結論から云うと、「将軍を継ぐ者以外は僧籍に入れる。」と云う決まりを作ったことである。
ここからは薩摩守の推測になるのだが、恐らく、義詮は骨肉の争いに辟易していたことと思う。父・尊氏と叔父・直義は本来なら互いが互いの長所を活かし、短所を埋め合って助け合う理想的な兄弟だったのに、足利家直臣・有力大名・南朝との絡みで、最後には殺し合うことになった。
当然、尊氏にとっても、義詮にとっても、根が優しい人間だっただけに苦悩の日々だっただろう。
そして義詮もまた兄弟相克を強いられた。異母兄・直冬は養父となっていた叔父・直義の手先として尊氏・義詮に牙を剥いた。
また、同母弟・基氏(もとうじ)は、彼自身は義詮に良く協力し、初代鎌倉公方として東国の押さえに貢献してくれたが、その子孫達が地方政権拡大を図り、後々室町幕府に対しても反抗的な態度を取り、義満・義持・義教といった歴代将軍とも争った。
一族の頭領として、武家の棟梁として、義詮には耐え難い苦悩だったことだろう。このことが直接影響したかどうかは分からないが、義詮の子供達の代から、嫡男以外は僧籍に入るのが足利家のしきたりとなった(義教・義視・義昭等が元々は僧だったのは有名である)。
勿論、宗教勢力の強い京都において、これを手懐ける為に身内を宗教界に送り込んだと云う政治的目論見もあるのだろうけれど、薩摩守には一族での余計な争いを防ぐ為の策だったように思えてならない。
ちなみに八代将軍・義政は弟の義視に将軍職を譲ろうとして、義視が「兄上に男児が誕生したらどうされる?」と尋ねた時、「心配するな。もし男児が生まれたらすぐに僧籍に入れる。」と義政は答えた(←思いっきり反故にしたが。)
この会話からも義詮が作ったと思われるしきたりはかなり確固としたものだったと思われる。
有力守護大名の力を御し切れなかった足利家だったから、せめて一族内での争いだけでも義詮は抑えたかったのかも知れない。
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令和三(2021)年六月二日 最終更新