第肆頁 北条氏綱………元祖・北条、関東百年の基

名前北条氏綱(ほうじょううじつな)
生没年長享元(1487)年〜天文一〇(1541)年七月一九日
地位従五位下・左京大夫
氏康、為昌、氏尭
子孫への影響北条姓への改姓、通字・「氏」のスタート、小田原守備体制の確立
略歴 長享元(1487)年、父・伊勢盛時(北条早雲。以下「早雲」と記載)と母・南陽院殿(幕府奉公衆小笠原政清の娘)の嫡男として生まれた。幼名は伊豆千代丸(いずちよまる)。

 早くから父・早雲の後継者として遇され、相模小田原城に在番。永正一五(1518)年、早雲が隠居し、家督を継ぎ、当主となった(早雲は翌年逝去)。
 伊豆千代丸改め北条氏綱は、家督相続とともに虎の印判状を用い出し、この印判が無い徴収命令は無効として、郡代・代官による百姓・職人への違法な搾取を抑止する体制を整えた。
 更に居城を伊豆韮山城から相模小田原城に移し、家督相続に伴う代替わり検地の実施と、安堵状の発給を行い、一方で寺社造営事業を積極的に行い、相模一国の実効支配を強めた。

 大永三(1523)年六月から九月の間に「伊勢」から「北条」へと改姓。
 一般に「北条早雲」として知られる父だったが、当の本人は生涯「北条」を名乗ったことは無かった。ただ領国支配正当化の為に、鎌倉幕府執権家として相模でも名高い北条姓を名乗って関東支配の後継者としての印象付けを周囲に行わんとの発想自体は早雲の代に既にあったらしい。
 いずれにせよ、氏綱の代に改姓が行われ、数年後には朝廷から執権北条氏の古例に倣った左京大夫に任じられ、家格的にも隣国守護の今川・武田・上杉等と同等になったが、当然周囲は容易には容認しなかった。
 血縁的にも執権北条家とは全くの別氏族であり、それと区別するために氏綱一族及び子孫は「後北条氏」とも呼ばれるが、氏綱一族を西国からの侵略者と見る土着勢力は相変わらず、「伊勢」と呼んだりもした。

 殊に早雲の代から領土争いを繰り返した山内上杉氏・扇谷両上杉氏は反発を強めた。
 氏綱は家督相続当初こそ房総半島に出兵して小弓公方・足利義明と真里谷武田氏を支援したが、その後の数年間は軍事行動を控えていた。

 だが、早雲・氏綱の勢力拡大に危機感を持った関東管領家の扇谷上杉朝興(うえすぎともおき)は政敵で遠縁だった山内上杉憲房(うえすぎのりふさ)と和睦をして氏綱に対抗。氏綱は機先を制して、大永四(1524)年正月に武蔵にて扇谷勢を撃破し、太田資高(←有名な太田道灌の孫)を寝返らせて江戸城を攻略した。
 これを皮切りに氏綱の人生は両上杉氏との戦いに明け暮れた。

 扇谷・上杉朝興は、山内・上杉憲房は古河公方足利高基・甲斐の武田信虎とも組んで氏綱に反撃開始。氏綱は彼等と戦っては和睦し、和睦しては戦ったが、敵もさる者で、早雲時代からの友好関係にあった真里谷武田氏(上総国守護)、小弓足利氏(小弓公方)、里見氏(安房国守護)まで味方に加えて反北条包囲網を形成した。
 四面楚歌の状況下、氏綱は享禄三(1530)年(1530年)に嫡男・氏康とともに朝興方と多摩川河原の小沢原で戦い、戦術的には大勝を繰り返しながらも、数々の支城を落とされ、戦略的には苦戦を強いられた。

 だが、やがて反北条包囲網は内紛を始めた。
 里見氏、真里谷武田氏でも一族内紛が起き、追い打ちを掛ける様に天文六(1537)年に上杉朝興が死去。氏綱は里見氏の内紛を裏で糸引き、朝興の後を継いだ若年当主・上杉朝定を攻め、河越(←扇谷上杉家の本拠)、葛西を攻略して房総へ勢力を伸ばした。

 一方で氏綱は西方にても奮戦していた。
 父・早雲は形式上、一応は駿河今川氏と主従関係に在ったので、今川氏輝の要請で甲斐の武田信虎と争い、武田信虎の弟・信友を討ち取ったりもしていたが、翌天文五(1536)年には氏輝の急死を受けて、今川家の家督相続争い(花倉の乱)に介入し、梅岳承芳を支持して、彼を今川義元として家督を相続せしめた。
 しかし、家督を相続したその義元が翌年には武田信虎の娘を娶って甲駿同盟を成立させたので北条と今川の(表面上の)友好関係は瓦解。北条と今川は戦い、氏綱は河東地方(富士川以東)に占領してこれに勝利したことで、今川氏との主従関係を完全に解消し、駿河における勢力まで拡大した(河東の乱)。

 その後、氏綱は房総にて小弓公方と古河公方の対立を利して、古河公方足利晴氏(あしかがはるうじ)に味方して天文七(1538)年一〇月七日、小弓公方・足利義明と安房の里見義堯の連合軍と戦った(第一次国府台合戦)。
 氏綱氏康父子はこれに大勝し、義明を討ち取って小弓公方を滅ぼし、武蔵南部から下総にかけて勢力を拡大することに成功した。
 足利晴氏は氏綱を賞して関東管領に補任。関東管領として山内上杉氏の上杉憲政(←後に上杉謙信の養父になったことで有名な人ですね)が存在したので決して正式なものではなかったが、関東の土着勢力に対抗する政治的地位を得たことになった(翌天文八(1539)年、氏綱は娘・芳春院を晴氏に嫁がせ、足利氏の「御一家」の身分を与えられた)。

 かくして小田原城を本拠地として、伊豆の韮山城、相模国の玉縄城・三崎城、武蔵の小机城・江戸城・河越城に覇を唱え、伝馬制度を復活させて領内における物資の流通・輸送を整備し、検地を行い、築城や寺社造営のために職人集団を集め、鎌倉鶴岡八幡宮を再建し、内政・外交・軍事に活躍した氏綱だったが、天文一〇(1541)年七月一九日に病のため、逝去した。北条氏綱享年五五歳。
 死に際し、「勝って兜の緒を締めよ」という辞書にも載る有名な諺となった遺言を残した。また、氏綱は嫡男・氏康の器量を心配して、死の前年に五ヶ条の訓戒状を伝えたが、その氏康が北条五代百年切っての名君となって、武田信玄・上杉謙信にも引けを取らない活躍をし、嫡孫・氏政の代に最大版図が築かれたのは周知の通りである。


活躍した子供 筆頭は云うまでもなく後北条氏三代目となった嫡男の北条氏康である。
 説明の必要のない有名人だが、家督相続後、氏綱も苦戦した両上杉氏を関東から駆逐し、武田信玄・上杉謙信にも屈せず、北条・今川・武田の相駿甲三国同盟成立後は更なる関東立国を強めた。
 同盟者や好敵手と比べて派手さは少ないが、難攻不落の名城・小田原城を利して、守りに強い戦い方で生涯一度の負け戦もなかったことで名高い。

 三男・為昌 (ためまさ)は叔父方の養子となって相模甘縄の統治に貢献。歴史上における存在感は薄いが、氏綱が関東に覇を唱える過程にあって氏綱が占拠した諸城の城代を務めたり、寺社の造営を担当したりして最後には甘縄北条家の祖となった。
 氏綱晩年には領国経営に置いて氏康に匹敵する程の大任を担っていたと云われている。

 四男・氏尭 (うじたか)は、叔父・幻庵(げんあん)とともに河越にて長尾景虎(上杉謙信)の侵攻を抑えたり、伊達家との外交交渉を行ったりした重要人物とみられているが、残念ながらそれ以外の事績は詳らかではない。

 娘には大頂院(北条綱成室)、高源院(堀越貞基室)、浄心院(太田資高室)、芳春院(足利晴氏継室)、ちよ(葛山氏元室)、その他(吉良頼康室)がいたが、彼女等の詳細は不詳である(←勿論薩摩守の研究不足)。
 ちなみに大頂院といっても、真空殲風衝を得意とした「男塾の帝王」と呼ばれた巨人一族とは何の関係もない(←道場主「それは『大豪院』。男塾マニアにしか分からないボケをかまさないように。」)


父たる影響 父親としての北条氏綱は、彼の父である早雲の事業をよくよく氏康を初めとする息子達に引き継いだと云える。

 俗に「北条五代(早雲・氏綱氏康・氏政・氏直)百年」と呼ばれた後北条氏は、くどいが早雲ではなく、氏綱が正式な始祖である。だが、前述した様に北条姓を名乗って、関東に君臨する正統性の主張にせんとの発想は早雲の代にあり、それを具現化し、子孫に残したのが氏綱の役割だった。

 そこでいつもながら話が脇道にそれて申し訳ないが、戦国大名・北条家の特徴についてここで触れておきたい。というのも、その礎の端緒を成したのが、早雲で、それを大成して子孫に引き継いだのが氏綱だからである。
 過去作品でも触れているが、薩摩守は北条一族には二つの大きな特徴があると見ている。

 一つは、一族間で骨肉の争いが殆どない、と云うこと。
 一つは、守りの戦いに強い、と云うことである。

 俗に「親子で殺し合った。」、「身内でも油断ならなかった。」と云われる戦国時代、実際に「親子」で殺し合ったケースは少なかった(と云うか親が一方的に殺したケースの方が多い)が、兄弟や叔父・甥の関係では望む望まざるにかかわらず互いに合戦したケースは多かった。
 それは織田信長、武田信玄、徳川家康、豊臣秀吉、毛利元就、伊達政宗、今川義元といった有名所でも例外ではなく、殺さなかったものの、上杉謙信も兄と争ったことがあった。
 だが、北条家にはそれが無かった。

 同時に「守る」ということの大切さを早雲から引き継いだ氏綱は、早雲以上に小田原城を重視し、これが「守りに強い北条」を作ったと云える。
 偽勢子を利用した奇襲で早雲が小田原城を奪取したのは有名だが、早雲自身は居城を韮山城とし、小田原城が居城となったのは氏綱の代である。
 また小田原城が堅城としての真価を発揮したのは氏康の代だが、その準備及び、小田原城を拠り所とした北条家一枚岩体制も氏綱が基礎作りをしたと云える。
 その一例として月二回の定例で行われた「小田原評定」がある。

 悪名が先行してしまっている「小田原評定」だが、実際には一族結束に大いに生かされていた有益な会議だったのは昨今有名になりつつあるが、この会議は身内のみならず、重臣や国人の裏切りも大いに抑えた(←秀吉に攻められたときの事は「相手が悪かった」という例外として下さい)。
 それは取りも直さず、会議自体では激論が交わされても、「決まったことには全員が一致団結して従う。」ということが早雲・氏綱の代にがっちり決められていたからである。
 月二回の定例で行われたことも、「論争に敗れてもまた挑める。」、「認められた意見はしっかり実践して欲しいから、自分も決まった意見には従う。」という意識を北条一族・北条家中に植え付けていたのだろう。
 豊臣秀吉に抗し得なかったとはいえ、氏綱の為した基礎が極めて有効だったから、末代まで小田原評定は機能したと云っても過言ではあるまい。

 最後に触れておきたいのは、氏綱が父として、舅として、血縁として、様々な立場で向かい合った対今川氏外交である。
 成り行きから今川義元とも争った氏綱だったが、叔母・北川殿は今川氏忠の正室で、その嫡男・氏親(つまり氏綱にとっては従兄弟)の娘を嫡男・氏康の正室に迎えており、本来は切っても切れない関係にあった今川との義理も重んじており、後の世、氏康の娘も今川氏真に嫁いでいる。
 氏真は母は武田氏だが、祖父・氏親が氏綱の従兄なので、氏真も北条の血を引いており、今川との血縁重視は早雲・氏綱氏康と引き継がれたと云えるし、心情はどうあれ、北条家は今川との縁は様々な局面で重んじた。

 人間にとって必要不可欠な水や空気が満たされているときは有難味が忘れられがちになる様に、早雲と氏康の間で氏綱の名・功績が目立たないのは、余計な派手さを排した堅実さの表れとは云えないだろうか?


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令和三(2016)年六月三日 最終更新