第伍頁 陶興房………息子の代にまさかの裏切り

名前陶興房(すえおきふさ)
生没年文明七(1475)年〜天文八(1539)年四月一八日
地位中務少輔、尾張守
興昌、隆房(晴賢)、隆信
子孫への影響大内家臣団における筆頭重臣位の確立。周囲との亀裂。
略歴 文明七(1475)年に周防国守護・大内氏の重臣・陶弘護(すえひろもり)の子に生まれる。三男だが、おそらく正室腹では二人目の男の子だったので、幼名が次郎なのだろう(←適当)。

 文明一四(1482)年、大内山口事件で父が暗殺された。家督は長兄・武護(たけもり)が継いだが、次兄・興明(おきあき)と対立した末に出奔してしまった。
 この兄弟対決は後に帰参した武護が興明を殺害したことで決着したが、武護も、内藤弘矩を讒言した咎で主君・大内義興によって誅殺された。
 二人の兄が落命したことで、残った興房が家督を継ぎ、陶氏第九代目当主となり、叔父の右田弘詮が後見した。

 家督継承後、義興に従って各地を転戦した。
 大内氏は百済の聖明王の第三王子の末裔が山口に土着し、多々良氏、大内氏と改姓をした家柄で、平安時代から周防守護を務め、義興の代には長門・石見・豊前・筑前に覇を唱え、影響力でいえば毛利氏を初めとする小大名はその勢力に怯えており、第一〇代将軍・足利義稙が将軍位を追われた際には、その返り咲きの後ろ盾として頼られた。

 一方で、陶氏は大内氏の支族で(松平氏と酒井氏の様なもの)、大内守護代の地位にあった。それゆえ代々大内氏重臣として活躍しており、興房は前述の足利義稙返り咲きの為に行われた船岡山の戦いにも従軍した。
 他方、大内氏の中国地方における最大のライバル・出雲の尼子経久とも戦い、軍功を重ねた。

 大永四(1524)年、大内義興・義隆父子に従って安芸に出陣。この戦いでは義興から、義興の嫡男・義隆の別働隊を支援する役割に任ぜられた。
 四年後の享禄元(1528)年一二月に大内義興が逝去するとそのまま義隆に仕えることとなった。代替わりにおいて、大内家ではその都度一族や家臣団による権力闘争が発生していたが、義隆の当主就任時には興房の尽力と、その人望によって平和裏に当主交代を行うのに成功した。

 後に文弱に耽溺し、御家を滅ぼすこととなった大内義隆だったが、初期は興房の支えもあって、北九州方面への勢力拡も積極的に行った。
 重臣・杉興運が享禄三(1530)年八月に田手畷の戦いで少弐氏に大敗したため、興房は天文元(1532)年一一月に大軍を率いて長門から九州に渡海し、大友義鑑・少弐資元等と対峙した。

 興房は率いる大内家重臣の杉興運・仁保隆重のみならず、秋月・菊池・千葉氏・原田といった北九州の国人衆も数多く名を連ねた。
 少弐資元の家臣・筑紫惟門、大友義鑑の抵抗頑強だったが、天文二(1533)年二月に義隆が陶隆康(興房の従兄弟)を援軍として派遣したのに力を得て大攻勢に転じ、肥前・筑前で勝利を重ね、大友方の本拠である豊後に侵攻。同年一二月には筑紫惟門を降伏せしめた。
 翌天文三(1534)年四月に大友方に大勝したが、同年七月に肥前にて龍造寺軍の逆襲にあって敗北した。
 だが、戦略的優位は揺るがず、半年後には少弐資元の隠居と少弐冬尚への東肥前半国安堵を条件とした和睦を成立させ、天文四(1535)年、山口に帰還した。
 そして翌天文五(1536)年、義隆の命を受けた義興は再度肥前に侵攻して多久城を包囲。九月に少弐資元を自刃に追いやり、これによって少弐氏は一時的に滅亡した。

 三年後の天文八(1539)年四月一八日に病で逝去。陶興房享年六五歳。陶家の家督は次男・隆房 (晴賢)が家督を継いだ。


活躍した子供 いの一番に挙げられるのは、次男で家督を継ぎ、「西国無双の侍大将」と賞された陶隆房だろう(←この表現ばっかやな…)。
 興房が主君・大内義興の偏諱・「興」の字を受けた様に、隆房も主君・大内義隆の偏諱・「」の字を受けた訳だが、彼の場合、晩年数年間に名乗っただけの「陶晴賢」の方が有名である。その理由は彼が「大内義隆に対する謀反人」として有名なのと、一般に彼の名が注目されるのが改名後の厳島の戦いにあるからだろう。

 隆房は最初から義隆に反旗を翻すつもりだった訳では決してなく、前述した様に、陶氏は大内氏の筆頭家老ともいえる家柄と立場にあったので、隆房も父同様に義隆に尽くし、興房の死後すぐに毛利元就への援軍総大将として尼子晴久を吉田郡山城の戦いにて打ち破っている。
 その後も興房譲りの武勇を発揮し、数々の活躍を為したが、主君・義隆は月山富田城での大敗を機に文弱に耽るようになり、隆房を筆頭とする武断派よりも、相良武任(さがらたけとう)等文治派が重んじられるようになり、相良に対する敵意を露骨にした隆房は次第に義隆にも疎んじられるようになった。
 最終的に、隆房は義隆を弑して、彼の嫡男・亀童丸を新君主に立てんとしたが、結果として奇童丸も死に追いやってしまったので、大友宗麟の弟・大内義長(←母が義隆の妹)を新当主に迎えた。
 義長が大内家入りする前の名前が「大友晴英」だったので、偏諱を受けた隆房以後、「晴賢」と名乗ることになった。
 これ以降は興房とは直接関係無いので割愛するが、事の是非はさておき、晴賢が陶家の重臣筆頭を自認して興房同様の尽力をしたことは疑いない。

興房の他の子供としてはまず嫡男として興昌 (おきまさ)がいたが、彼は若くして享禄二(1529)年に父に先立って世を去っていた。その夭折は、近い将来義隆の補佐を務める筈である興昌が義隆との関係が険悪であったために、先の相克を懸念した興房が殺害したという説もある。

 そして三男に隆信 (たかのぶ)がいたが、その経歴は薩摩守の研究不足で詳らかではない。


父たる影響 前述した様に、大内氏が周防守護なら、その傍系氏族である陶氏は周防守護代だった。とはいっても簡単に重臣筆頭の地位を射止めた訳ではなかった。
 代々の陶氏当主は応仁の乱を初めとする数々の戦乱で戦死を遂げた者も多く、他の重臣達との暗闘もあり、陶氏内部での内紛もあった。

 これまた前述した様に、陶興房自身、血に塗れた家督争いの果てに当主となっていた。  然る後に、まだ脆弱な面もあった大内氏家臣団における陶氏の立場を、武功を主とした数々の功績でもって一気に押し上げた手腕はかなりのものだった。
 家臣団の中で戦功随一とされただけでなく、和歌にも優れた教養人という一面もあり、公卿の飛鳥井雅俊らとも交流があった。
 早い話、武勇一辺倒の男という訳ではなかったのである。

 惜しむらくは興房自身が優れていたが故に、身内や家臣感や将軍家の醜い争いに駆り出され、様々な嫌な物を見過ぎてしまったこと、と薩摩守は捉えている。
 誰だって、地位や権力を巡る醜い争いは好ましく思わないだろう。めちゃくちゃ喧嘩の弱い薩摩守とて、人を陥れる嫌らしい戦いをしかも身内相手にするぐらいならプロレスラーに殴りかかる方がマシだと思っているぐらいなのだ。そんな争いを繰り広げて来た興房は自分の死後が案じられたのだろう。
 嫡男・興昌を殺したという説がついて纏うのも、興昌が義隆と肌が合わず、いつか対立することを懸念してのことと云われているし、死の直前、興房隆房に対しても彼の性格が将来に災いするのではないかと案じていたと云われている。
 ただ、薩摩守個人はこの説に懐疑的である。

 戦国時代の命・家族・忠義に関する価値観は、現代のそれとは勿論、江戸時代のそれと比べても差異が大きいが、興房ならずとも御家の将来を案じることは誰でもやっただろうけれど、だからと云って懸念だけで嫡男・興昌を殺したとは考え難い。
 恐らくは戦国きっての「裏切者」の代表選手になってしまった陶晴賢のイメージが強烈過ぎるから、後になって、「実は興房は懸念していた。」みたいな説が後出しジャンケン的に浮上したのだろう、と薩摩守は思っている。
 例えは悪いが、阪神大震災や東日本大震災が起きた後に、「実は予言していた。」なんて奴等が必ず現れる様に………。

 ともあれ、陶興房陶隆房ともに才気が走り過ぎた人物の様な気がする。それでなくても大内家の家督相続が代々もめまくるという悪しき環境の中にあって、義興から義隆への相続を潤滑ならしめた興房の手腕が後々の大内家にも、陶家にも活かされなかったのは惜しまれる所と云える。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新