第陸頁 織田信秀………身内でただ一人嫡男を認めた下剋上

名前織田信秀(おだのぶひで)
生没年永正七(1510)年〜天文二〇(1551)年三月三日
地位従五位下、弾正忠、備後守
信広、信長、信行、長益(有楽斎)、お市、他多数
子孫への影響奉行職から守護代への家格アップ。周囲の反対を押し切って信長の家督確立。
略歴 永正七(1510)年、尾張国下四郡(南西部)を支配する守護代・尾張大和守の傍流で、同家三奉行の一人である勝幡城主・織田信定の長男として生まれた(生年には異説有り)。

 大永七(1527)年、父・信定から家督を譲られて当主となり、天文元(1532)年頃、主君・織田達勝と争った(後に和解)。その後、今川氏豊から那古野城を奪い、ここに居城として勢力拡大に努め、それに伴って天文八(1539)年に古渡城、天文一七(1548)年に末森城。と居城を移していった。

 室町幕府体制で見れば、尾張守護の代理である守護代の、更に部下である三奉行の一人に過ぎない信秀が成り上がってった訳だから、当然内外に敵が増えた。だが信秀は領内を治め、京都に上洛して朝廷にも献金することで勤皇の志を示し、従五位下・備後守に任官された。
 同時に幕府にても第一三代将軍・足利義輝に拝謁した。

 その間も、織田大和守家とは臣従関係は保ちつつも、その勢力は織田大和守家はおろか、その主君である斯波氏(尾張守護)をも上回るようになっていった(余談だが、斯波氏は越前守護も兼ねていたが、こちらも朝倉家に取って代わられた)。所謂、下剋上である。
 そのやり方は一門・家臣を尾張の要所に配置し、国内の他勢力を圧倒する方法で、信秀の立場こそ「守護代の家臣」で、尾張一国支配も息子・信長の代で完成したことだったが、実質上は尾張の支配者として美濃の斎藤、三河の松平、駿河の今川といった守護大名・守護代大名等ともタメを張った。

 美濃では新鋭の斎藤道三に苦戦を強いられたが、対三河では天文四(1535)年の森山崩れ(徳川家康の祖父・松平清康が不慮の死を遂げた)に付け込んで侵攻し、天文九(1540)年には安祥城を支配下に置いた。
 これが契機となって松平広忠は今川義元への臣従を選び、義元と宿命的な敵対関係を続けることとなった。

 天文一一(1542)年、第一次小豆坂の戦いで今川軍に大勝し、勢力範囲を西三河に広げた。しかし天文一三(1544)年に美濃・斎藤道三と越前・朝倉宗滴の連合軍に信秀は敗れ、その後も連敗が続いた。
 追い打ちを掛ける様に天文一七(1548)年に犬山城主・織田信清(弟・信康の子)が謀反。これを鎮圧するも、同年、主家である織田大和守家当主・織田信友が古渡城を攻めた。
 主家とは翌年和解したが、同年、第二次小豆坂の戦いで今川氏に敗れ、安祥城を奪い返され、城を守っていた庶長子・信広が今川方に降伏した(信広は当時人質になっていた松平竹千代との人質交換で帰って来た)。

 さしもの信秀も今川・斎藤・国内の抵抗勢力を一度に相手出来ないと見て、天文一八(1549)年、嫡男・信長と斎藤道三の娘・濃姫を政略結婚させた。だが対今川戦に本腰を入れようとしていた矢先の天文二〇(1551)年三月三日、急な病で逝去した。織田信秀享年四二歳。
 勿論、信長が後を継いだ訳だが、信秀葬儀における信長の蛮行はつとに有名である。


活躍した子供 わざわざ触れるまでもない気がするが、やはり触れざるを得ないのが織田信長である。まあ、織田信秀自体が、「織田信長の父」として見られることの多い人物だから無理もない。
 信長が如何なる人物であるかは、有名過ぎるし、信秀以上に時数を割きかねないので割愛する(苦笑)。

 次いで有名なのは十一男の長益 (ながます)だろう。名前よりも、茶人としての号である「有楽斎」の方が有名な人物である。
本能寺の変での逃げっぷりを京童達からまで揶揄されつつも、その後の豊臣→徳川の世を、変なプライドを引き摺らなかったことで上手く生き伸び、織田家の血筋を江戸幕藩体制下に残し、そして東京山手線の駅にその名前を残した。

 他に名前を良く知られているのは勘十郎信行 (かんじゅうろうのぶゆき)である。同母兄の信長とは正反対に、品行方正で一時は「信長様を廃嫡して、勘十郎様を跡取りにしては…。」という声が家臣団内部で囁かれ、本人のその気になっていたが、信秀信行の優しさ・真面目さを軟弱と同義と見て、彼を買っていなかった。
 もっとも、その信行も、兄・信長を差し置いて代々の家格である「弾正忠」を勝手に自称したり、信長に二度も反旗を翻したり、弟・秀孝が叔父の家臣に誤って射殺されたときは報復に叔父の城下を焼き払う等、結構信秀信長に似た気性の激しさを持っていたが(ちなみに秀孝の死に対して、信長は「油断していた秀孝の方が悪い。」としている)。

 余りカッコ良くない形で名前を知られているのが庶長子の信広だろう。
 妾腹の生まれの為、最初から後継者選抜は外され、一時は信長とも争ったが、和解後は、一応はあの「信長の兄」として家中で遇され、幼い信長の子供達に代わって、一族のまとめ役を担った。
 つまりは信長=当主代理で、信長が足利義昭と不和になった際に、最初両者は和解したのだが、その時にも信長代理を務めたのは信広である。
 後に長島一向一揆との戦いにおいて、一揆勢開城・退去に際して攻撃しない約束を信長が反故にしたため、一揆勢最後の自棄糞突撃に遭って戦死した。竹千代との人質交換や、長島での戦死等で名前がクローズアップされることが多いのでカッコいいイメージは聞かれないが、それなりに信長から顔を立てられていたようではあった。

 他にも艶福家・織田信秀には二〇人以上の息子・娘がいて、生年や兄弟順が不詳な者が多いのだが、娘の中で最も有名なのはお市の方だろう。信秀逝去時、まだ五歳だったお市信秀と父娘で語られることは殆どなく、浅井長政・柴田勝家に嫁ぎ、その都度信長・羽柴秀吉によって落城の憂き目を味あわさせられた悲劇は今更云うまでの無い所だろう。
 そのお市の方が産んだ娘達、中でもお江の生んだ娘達は豊臣家、前田家、越前松平家、京極家、皇室に嫁ぎ、信秀の血を今上天皇一家にも残している。


父たる影響 息子・信長が少年の頃、異装・奇行を好み、破天荒な行動を繰り返したために「うつけ者」と呼ばれ、織田信秀後継者としての尾張家中や領民から懸念されまくったのは余りにも有名である。同時に信秀が家中の信長廃嫡論に一切耳を貸さず、早くから信長の立場を確定させていたのも有名であろう。

 信長が何故「うつけ者」と揶揄される奇行を重ねたか?に対する真の理由は諸説あって明らかではない。恐らく真の理由は信長にしか分からず、理屈だけでは割り切れない所も多いのだろう。
 ただはっきり云えるのは、常人達にとってついて行き難かった信長の奇行に、信秀は頭を痛めつつも、それを頼もしく思い、才能的にも、そして「嫡男」と云う立場的にも、「自分の後継者は信長以外にあり得ない。」と確信し、家中にもはっきり宣言していたことである。
 繰り返すが、信長の奇行は常人にはついて行き難いものがあり、当然信長を嫌う者、後継者として不安を抱く者はとても多かった。その反対勢力を一掃して尾張一国どころか、天下の覇者になる器量が信長には有ったが、その過程は困難を極めた。もし信秀信長後継に僅かでも躊躇いを見せていたら、後の覇王・信長は誕生しなかったか、もっと時間が掛っていたかも知れなかった。

 後継者問題を含め、織田信秀の事績には、信長の行動に先鞭をつけていた節もある。
 大河ドラマやシミュレーションゲームの影響もあって、昨今まで戦国大名と云えば誰もが天下取りの野望を持っていたように思われていた傾向があったが、実際に「天下」を意識していた者はそれほど多くなく、信秀の時代には守護代が守護の地位を奪う下剋上的な野心の方が主流だった。
 だが、織田信秀と云う人物、結果としては尾張一国の統一も存命中には叶わなかったが、少なくとももっと先を見ていたことが彼の政策に現れおり、信長によって継承されていることが分かる。

信秀は尾張国内での勢力争い中も、津島や熱田の支配を重視し、経済政策を重視していたことと、後に信長が敷いた楽市楽座政策は無縁ではなかろう。この先見性は信秀の代にはかなり稀有だったと云える。
 勿論、文武両道に優れ、「尾張の虎」と称されて恐れられ強さと、那古野城の奪取においては城主で尾張守護の斯波義統の妹婿にあたる今川氏豊に連歌を通じて接近して油断させた知略、内裏修理料献上を通じて朝廷・幕府との友好を保持する政治力、それらを可能にする財力まで持っていた。

 信長も、表面上の言動はともかく、信秀の事を敬愛していた言動はいくつか知られている。「人間五十年」と云う古歌を好んだ信長は、それより八年早く急死した信秀の死に涙した際、「もはや涙は流さない!」と誓ったと云う(実際には傅役・平手政秀の切腹に際しては大泣きした)。
 有名な、信秀葬儀の際に位牌に抹香の灰を投げ付けた愚行も、早死にした信秀に対して、「それで良かったのか?!」と云いたかった信長の気持ちの現れ、と見る向きもある。

 結論、織田信秀織田信長は似た者親子だったのだろう。それが周囲には奇異に映る奇行を無視した愛情と、遺業後継に繋がっていったのだろう。


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和三(2021)年六月三日 最終更新