第漆頁 松平広忠………果たして弱小当主だったのか?

名前松平広忠(まつだいらひろただ)
生没年大永六(1526)年六月九日〜天文一八(1549)年三月六日(※諸説あり)
地位岡崎城主
松平元康(徳川家康)
子孫への影響信義を重んじたことが三河武士団のみならず、今川義元・織田信長も動かした。
略歴 大永六(1526)年六月九日、三河岡崎城主にして松平家八代目当主・松平清康の嫡男として誕生。幼名は竹千代で、この「竹千代」は父・清康以前にも松平家嫡男御用達の幼名とされ、息子・徳川家康以降も徳川家・嫡男の幼名とされた名前である。

 父・清康は歴代松平家当主の中でも突出した人物で、一族内紛の影響で僅か一三歳で当主となった僅か六年後の享禄二(1529)年一一月四日、二〇歳にならぬ身で三河統一を成し遂げた。
 だが、勢いに乗った清康は尾張にまでその勢力を拡大せんとしたが、天文四(1535)年一二月五日、側近・阿部定吉の息子・正豊に背後から斬られて横死した。世に云う森山崩れである(勘違いで斬られたらしく、事後処理を含めこの事件には謎が多い)。

 殺された清康はまだ二五歳の若さで、竹千代も一〇歳に過ぎなかった。それゆえ、若い清康が突出した求心力を持っていた反動が竹千代を襲い、元々内紛の強かった松平一族は個々に勝手な行動に出て、清康が築いた統一三河は一夜にして分裂・崩壊した。
 大叔父・松平信定は竹千代が若年なのに付け込んで領主の如く振る舞い、一族最長老で竹千代の曾祖父だった松平長親がこれを追認した(孫の信定を溺愛していたらしい)。

 天文六(1537)年、信定は竹千代殺害を企てた。皮肉にも竹千代は、清康を斬殺した阿部正豊の父・定吉に救われて三河を脱出した。定吉が吉良持広の庇護を得たことで、竹千代は伊勢神戸(かんべ)まで逃れて匿われた。
 天文八(1539)年一月一一日に元服。その際、竹千代は恩人・持広の一字を拝領して次郎三郎広忠と名乗る様になった。
 だが、同年九月に持広が死去し、その養嗣子・吉良義安が織田氏に加担したことでその庇護を失い、定吉は広忠を伴って三河へ再逃亡。だが、岡崎には簡単に戻れぬと判断し、長篠に潜伏し、今川氏を頼ることとなった。

 先に定吉が駿河へ、そしてその後自らも駿河に渡った広忠は翌天文九(1540)年秋まで駿河に留め置かれた後、義元の計らいで三河へ戻ったが、戻った先は牟呂城だった。

 翌天文一〇(1540)年、刈谷城主・水野忠政の娘・於大を正室に迎えた広忠は、そのまた翌年の天文一一(1542)年五月三一日、望む譜代衆の働き掛けでようやくにして岡崎への帰城が叶うと、一週間もしない六月八日に大叔父・信定が降参した。
 天文一三(1543)年一二月二六日、一八歳にして待望の嫡男・竹千代が誕生。ようやくにして幾ばくかの幸せを得た。だがこの幸せは長くは続かなかった(←関●宏っぽく)。

 天文一二(1545)年、舅・水野忠政が逝去すると、水野家の家督を継いだ信元が織田家についたため、今川家との義理を重んじた広忠は泣く泣く於大を離縁し、水野家へ送り返した。後に継室として戸田康光の娘・真喜姫を迎えたが、これがある種の悲劇を産んだ。
 それというのも、天文一六(1547)年織田信秀による三河侵攻が活発化し、広忠は今川に加勢を乞うたのだが、義元は竹千代を人質として送ることを命じた。だが、その途中、舅・戸田康光が織田家と通じていたため、竹千代は尾張の織田信秀の元に送られてしまったのだった!
 当然、信秀は竹千代の命をたてに、広忠に対して今川から離れて自分に付くよう強要したが、広忠は毅然として今川家への義理立てを優先する旨を宣言した。

 天文一七(1548)年から天文一八(1549)年に掛けて約一年間、広忠は三河安城において今川の援軍と共に織田勢と連戦し、概ね勝利を収め続けた。
 そして今川義元の師傅にして、今川家の大軍師とも云える太源崇孚雪斎禅師の尽力もあって、織田信広を捕虜とし、人質交換で竹千代を奪還することに成功した。
 だが竹千代は即日、前約によって人質として駿府へ移送され、父子対面は叶わないまま一ヶ月も経たない内に広忠は天文一八(1549)年三月六日に死去した。松平広忠享年二四歳。
 死因は諸説あり、一般には岩松八弥によって暗殺されたとされるが、病死説・一揆に殺害された説もある。


活躍した子供 徳川家康がいる……………以上(笑)。
 冗談はさておき、松平広忠の名を歴史上有名ならしめているのは明らかに息子・家康が天下を取ったからである。仮に征夷大将軍の地位に昇り詰められてなかったとしても、家康が織田信長に味方して三河・遠江・駿河三国の太守になった時点で、広忠の名が歴史上ある程度有名になることが確定されていたと云ってもいいだろう。

 広忠には他にも家康以外にも数人の息子・娘がいたが、名前・生年月日・経歴・血縁関係まで不詳の者が多い。恐らくは広忠が若くして死んで記録が少ないことと、江戸幕府によって残された歴史で広忠が悪く書かれる筈はなく、これらの要因が広忠及びその子供達の記録を不鮮明にしている可能性は充分にあるだろう。

 ちなみに、広忠の息子の一人は家康と一緒に生まれた双生児だったが、当時、双子は「畜生腹」と呼ばれて忌み嫌われたことから、存在を伏せられ、僧になったとも云われているが、双生児伝説は結城秀康にも、松平忠輝にもあって、正直眉唾ものが多い。


父たる影響 松平広忠とは可哀想な人生を送った人である(←この際断言する)。
 一〇歳で父を殺され、一二歳で大叔父に国を奪われ、一四歳で他国に逃げざるを得ず、二〇歳で愛妻を離縁し、二二歳で息子を人質に取られ、二四歳で命を失ったという踏んだり蹴ったりのもので、贔屓目に見ても彼の生涯は幸せだったとは云い難い。

 また、若くして三河を統一した父・清康や、天下を取った息子・家康が余りにも高名ゆえに、彼等との比較もあって広忠は一般に凡庸、あるいは弱将であると評されているのも悲惨である。
 確かに清康・家康は能力的にも、実績的にも突出した人物だった。彼等に比べれば、今川氏の庇護によってようやく松平氏を存続させた広忠の人生が輝いて見える可能性は皆無に等しい。

 だが、父の死と共に勢力を失い、身内にも難敵を抱えまくったいう状況下に置かれては、清康・家康だってどこまで活躍出来たかは知れたものではなかったし、広忠だって長生きしてればどのような活躍が出来たか知れたものではない。
 まあ歴史に禁物である「if」を語ってもキリが無いが、それでも岡崎城主として、松平家と云う御家の存続を図る者として、今川との義理を重んじ、妻子を捨ててでも今川氏に忠誠を尽くした広忠の判断は正しかったと云える。

 今川家に送る筈だった竹千代が戸田康光の裏切りで織田方に送られた際、広忠竹千代の命をたてに随身を強要されてもこれをきっぱり拒絶し、「斬りたければ、斬れ!今川を裏切ることは断じて出来ない!」と云い放った。
 さすがにこの誠意に対して義元も動かざるを得ず、広忠の為に三河に加勢の兵を出し、竹千代を売った戸田康光をその年の内に攻め滅ぼし、織田信広を生け捕りにして人質交換で竹千代を奪還して広忠に報いている。
 何より義元の気持ちは松平家を潰さなかったことに表れている。今川家の力をもってすれば当主を失った松平家を潰すことぐらい造作もなかった筈である。だが義元は松平一族や三河一国に負担を強いたものの、これを保護し、命脈を保った。竹千代に対して姪を嫁がせ、雪斎禅師と云う最高の師を宛がったことから、義元はかなり松平家を重んじていたのではないか?との私見は過去に拙作『師弟が通る日本史』でも述べた。

 そしてそれもこれも広忠がどこまでも義理を重んじ、それが人を動かしたからだろう。
 広忠の頑固なまでの信念は意外な人物を動かした。それは織田吉法師(信長)である。広忠が織田への随身を拒否した際、織田信秀が竹千代を斬ろうとしたのを止めたのである。
 吉法師は広忠の拒絶に対して、「親父を恨まないのか?」と竹千代に尋ねた際、竹千代は、「父は一度交わした約束を決して破らない人ですから恨みません。」と云い切り、これを好んだ吉法師が信秀を止めたのであった(←ここで豊臣秀吉に遺児を託された家康が何をしたかを思い出してはいけない(笑))。

 松平広忠が松平家当主として、三河の地方領主として為した目に見える歴史的功績は決して大きくはない。だが、その信念の強さが家康を初めとする子孫の為に残したものは目に見えずとも大きなものがあったと薩摩守は考える。
 まあ単純に「家康の父」が凡人だったとは思い難いだけなのかも知れないが…………。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新