第拾頁 豊臣秀次(秀吉の姉とも次男)
略歴 豊臣秀吉の養子にあって最も有名な人物と云って良いだろう。何と云っても関白という地位に就いたのだから。
豊臣秀次(とよとみひでつぐ) 生没年 永禄一一(1568)年〜文禄四(1595)年七月一五日 実父 三好吉房 縁組前の秀吉との関係 甥(姉の嫡男)
元は秀吉の姉が嫁いだ三好吉房の嫡男で、初名は三好信吉(のぶよし)と云った。
叔父の羽柴秀吉が立身出世する一方で子が無かったことから養子となり、小牧・長久手の戦いでは三好秀次の名で徳川家康を誘き出す為の岡崎城攻めの総大将を務めるも、長久手にて徳川勢の待ち伏せに遭い、森長可(もりながよし。織田信長の小姓森蘭丸の兄)・池田恒興(池田輝政の父)等を戦死させ、自身もほうほうの態で小牧に逃げ帰った。
だが丸っきりの凡将だった訳ではなく、秀吉からは近江に四〇万石の大身を任されて、近江八幡を良く治めた(この善政に対する地元の評判は今でも高い)。
戦働きも四国征伐、小田原征伐にそれなりの功を立て、天正一八(1590)年に秀吉が小田原北条氏を滅ぼして天下を統一すると、尾張・北伊勢を与えられれ、清洲城主として母と叔父の故郷にして、豊臣家発祥の地を治めることとなった。
翌天正一九(1591)年に愛児・鶴松を失って悲嘆に暮れながら「もはや実子は望めない…。」と考えた秀吉より、内大臣になったばかりの秀次に関白の地位が譲られ、豊臣家の正式な跡取りとして聚楽第に住み、政務を執る事となった。
関白に就任した秀次は主に内政を担当し、秀吉は外征に専念し、関白譲位から二週間後の文禄元(1592)年一月には朝鮮出兵の意を公表した。
明国征服後は天皇を北京に招いて統治させ、秀次に引き続き日本を統治させ、自らは寧波にてルソン・琉球・シャム・天竺への侵攻に専念する意図でいた訳だが、実際にそう至らなかったとはいえ、秀吉が秀次に任せようとしたものが決して小さくはないことは明白である。
しかし、弟・秀長、愛児・鶴松、寵臣・千利休、最愛の生母・大政所を次々と失った悲運続きの秀吉に翌文禄二(1593)年八月に望外にして最後の愛息・お拾(おひろい。勿論後の豊臣秀頼)が生まれたが、これにより(結果論として) 秀次の運命は急転直下した。
文禄三(1594)年までは家康も誘って遊園したり、様々な誓紙を取り交わし合ったりもしたが、文禄四(1595)年に至って秀吉は秀次の数々の不行状(詳細後述)を責め、七月八日に秀次の関白職を剥奪して高野山に追放した。
一週間後の同月一五日、秀吉は福島正則を高野山に遣わして秀次を無理矢理切腹させた。時に豊臣秀次享年二八歳。
秀次の死から約半月後の八月二日、京都三条河原にて梟首された秀次の首の前で秀次の妻子・愛妾三四人が石田三成の手で打ち首に処された。
秀次の嫡男・仙千代丸五歳、次男・百丸四歳、三男・於十丸(おとまる)三歳、四男・土丸一歳、一ノ姫(享年不明)も処刑された。助命されたのは生後一ヶ月の菊姫と、既に他家に嫁いでいた二人の娘のみだった……。
正室・菊亭晴季娘、側室小督局(淡輪隆重娘)、その他多数も処刑された。特に悲惨だったのは側室の一人、駒姫(最上義光息女)で、彼女は嫁したばかりで、夫婦の契りどころか生前の対面すらなかった(初対面時に秀次は既に生首)のに、側室という地位のために処刑された。
戦国時代の京都三条河原は処刑場の代表地とも云える場所だったが、死刑執行や処刑見物が日常茶飯事のこの時代にありながら、この時の秀次妻子に対する処刑は見物人の中から卒倒・嘔吐する者が相次いだと伝えられている。
豊臣秀次とその妻子の死後も連座は続き、秀次の実父・三吉吉房は讃岐に流罪、秀次の岳父・菊亭晴季(秀吉にとっても関白就任時の養父であった)も越後に流罪(翌年赦免)、その他大勢の大名も改易・流罪となり、関白の居館である聚楽第も破却された。
歴史的存在感 まずは皇族・五摂家以外の生まれで関白に就任したので否が応でも豊臣秀次の歴史的存在感は大きい。また彼の最期は豊臣秀吉の晩年暴走の象徴の一つにも数えられる。
だが秀次は叔父にして養父・秀吉に抗し得なかったとはいえ、彼は彼なりに結構強かで、独自に伊達政宗、最上義光、蒲生氏郷、徳川秀忠、山内一豊等と親交を持ち、朝鮮出兵で財政が火の車となった大名相手に金銭の貸付を行ってもいた。
この金銭貸付は結果として秀吉に謀反の根拠の一つとされたが、単純に財政難の大名達を救おうとしたものなのか?恩義を売っての人望獲得行為なのか?はてまたその両方なのか?
秀次が直後に死んだ状態では確かめようもないが、金を借りた相手が死んだことで全国の大名達が喜んだとしたら秀次の存在は救世主でありながら妙に惨めなものである。
尚、関白と最期の凋落振りが目立つ秀次だが、一方で一個人として古筆を愛し、多くの公家とも交流を持つ当代一流の教養人でもあった。
中には、藤原惺窩(ふじわらせいがん)等の様に「殺生関白」とも揶揄された秀次の粗野を嫌い、「学問が穢れる」と云って相手にしなかった者達もいたりはしたのだが。
総じて見てみるに、秀次は可も不可も多く、多趣味で様々な物事に取り組む人物だった。
こと政治面ではそれは概ね良い方に活きたみたいで、近江八幡の善政や、関白として秀吉の太閤検地を受け継いだ政治的な流れは今後もっと注目されて欲しい、注目すべき価値のあるものである、と薩摩守は考える。
秀吉の溺愛 晩年の「高野山追放」、「切腹」、「妻妾族滅処刑」が余りにも強いインパクトを持つため、秀次は秀吉に「子供が無かった故に仕方なく近い身内から」という理由で養子にされたと見られがちである。
また、秀頼誕生後は「用済み」と見られた傾向から秀次は秀吉に愛されていたと見られることは少ない様にも思われる。
だが薩摩守は子煩悩男・秀吉は秀次も他の養子同様、或いはそれ以上に可愛がっていたと見ている。
秀頼誕生後、只一人の実子である秀頼への溺愛から愛情が減退したのは秀次に限ったことではなく、他の養子達も同様だった。
豊臣家から他家に養子に出された小早川秀秋や結城秀康も以前よりは冷遇されたものの愛情を無くしたとまでは云えない。
そして秀次に対してだが、実子・秀頼を関白にしたい親心を滲ませつつも秀吉は秀次の顔も立てるように考え、秀頼と秀次の娘の婚姻を打診し、秀次もそれを了承している。秀頼生後二ヶ月のことである。
逆の視点で見れば身内の和を重んじた秀吉だからこそ、身内の和を蔑ろにした秀次に激怒したとの捉え方もある。
秀次が秀吉に処罰された罪状は最終的には「謀反」とされた(そうでもなければ妻子は連座しない)
だが、それ以前からも秀頼の誕生で関白の地位を奪われることに疑心暗鬼に陥り、自暴自棄になった秀次が殺生禁断の比叡山にて正親町上皇の喪中(秀頼の生まれた文禄二年正月に崩御)に狩りをしたり、些細な落ち度で側近・腰元を手討ちにしたり、妊婦の腹を裂いて胎児の性別を確認したり、肥前名護屋から帰京した秀吉への出迎えがなかった等の不行状があり、それが処罰への主要な要因とされている。
もっとも癇癪による手討ちは真偽の程が不明で、妊婦の腹を裂いた話は武田信虎同様の中国古典に習った暴君伝説の可能性が濃厚である。
そして秀吉もそれだけで即関白職剥奪、追放、切腹までは考えていなかったらしく、処罰の三日前に秀次に秀吉の命に従い、関白としての職分に尽くす事を誓った誓紙を提出させているから、秀次の行跡次第では地位はともかく、秀吉の身内として権力は無くとも権威は保てる立場に留まれたのではないか?という気もする。
最後に秀吉の秀次への情として、秀次切腹後の後日譚に触れたい。
秀次を切腹させ、その血筋を悉く絶った秀吉はその後五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)達に、翌年正月には五奉行(浅野長政・増田長盛・長束正家・石田三成・前田玄以)達に、秀頼に対して異心がない旨の誓書を出させ、家康の三男・秀忠に淀殿の妹・お江を娶わせ、実力者徳川家との結び付きの強化も計り、それが一段落した途端、病床に伏した(秀次切腹の四ヶ月後)。
偶然と云えば偶然かも知れないが、根が家族想いの秀吉は秀長、鶴松、大政所の死後も政治的な処理を終えた直後に体調を崩していた(秀長達の死が相次いで、しばらく経ってから朝鮮出兵が行われているが、その間にも秀吉は眼病を病んだ)。
甥として、養父として、自らの職分を継ぐものとして可愛がった秀次の死が、秀頼の安泰の為の手段を尽くしてほっとした途端に、自責や後悔となって秀吉を苛んだと見るのは穿った物の見方だろうか?
平成二三(2011)年のNHK大河ドラマ『江〜姫たちの戦国〜』では秀吉を岸谷五朗氏が、秀次を北村有起哉氏が演じていたが、長久手で徳川家康に大敗した秀次を秀吉が大地にもんどり打つほど叩きのめしていたり、秀次処刑後の罪悪感に苦しむ秀吉が悪夢に出て来た秀次に対して必死に詫びていた描写などが薩摩守は人間臭くてリアリティが有って好きだった。
「可愛さ余って憎さ百倍」とはよく云ったものだが、太閤と関白と云う互いに大き過ぎる地位にあらねば跡目相続の諍いは族滅には至らず、養父と養子とのしての関係修復は困難にしても、叔父と甥としての愛情ある交流を続けられたであろうことを秀吉と秀次の基本性格に見る事はさして困難ではない。
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令和三(2021)年五月一九日 最終更新