第玖頁 豊臣鶴松(秀吉嫡男)



豊臣鶴松
生没年天正一七(1589)年五月二七日〜天正一九(1591)八月五日
実父豊臣秀吉
縁組前の秀吉との関係最初から秀吉の子
略歴 云わずと知れた豊臣秀吉の嫡男である。
 秀吉が北条氏滅亡による天下統一を成し遂げる前年の、天正一七(1589)年五月二七日に浅井長政の長女・茶々を母に山城国淀城に生まれた(それに因んで母の茶々淀殿淀の方と呼ばれるようになったのは有名)。

 「捨て子は育つ」の格言に因んで幼名は (すて)と名付けられ、長く実子に恵まれなかった秀吉に当然過ぎるほど溺愛された。

 翌天正一八(1590)年五月七日、秀吉淀殿を北条攻めの陣に招いた(諸将にも妻を陣に招く事を許可した)。
 秀吉は余裕綽々の戦況の中で、の軍旅を労いながら、小田原開城と伊達政宗を始めとする陸奥諸大名の降伏が時間の問題であることを説明しながら鶴松が次の天下様となる事を夫婦で喜び合った。

 しかしながら鶴松は翌天正一九(1591)八月五日、僅か三歳で夭折。薩摩守がかつて見た死因の中で最も詳細なものには「西瓜に中ったため」とあった。


歴史的存在感 さすがに夭折した年齢から鶴松自身が何かを為したと云う記録はない。だが、その分父の秀吉を動かしまくった。

 まず、秀家・秀秋・秀康・智仁親王と云った養子達が次々と秀吉の元を去って実家・他家へ行かされた。
 秀吉は多くの養子達を持ちながらも誰を後継者とするかを決めていなかったが、 そこに望外の男児が産まれたのである、それも正真正銘自分の血を引く男児が五四歳の秀吉に!
 秀吉が狂喜して即座に鶴松を後継者としたのは勿論、他の養子達を鶴松への対抗馬と見做したものか、以前ほどの溺愛を為さなくなった。

 それ程期待を込め、愛情を注いだ鶴松が三歳にして夭折した時の秀吉の悲痛過ぎる嘆き振りは文面で見ても、大河ドラマ等で豊臣秀吉を演じた俳優達の演技を見ていても筆舌に尽くし難いほど痛々しいものがある。
 一般にはこの悲しみを紛らわす為に無謀な朝鮮出兵に走ったと云われる程である。
 もっとも、薩摩守は秀吉朝鮮出兵に向かわしめたのが鶴松の死だけとは思っていないが、一因にはなったと見ている。

 そして鶴松の死の時点で五六歳の秀吉はもはや実子は望めぬ、と見てその年の暮れ、甥の羽柴秀次に関白の位を譲った。
 同年正月に愛弟・秀長を亡くし、翌月に千利休を切腹させたていた秀吉鶴松の死の二日後に有馬温泉に湯治に行った後、肥前名護屋に城を築き、着々と朝鮮出兵を始めとする外征に専念するようになった。

 この文禄の役中に秀吉は母の大政所と養子・秀勝(小吉秀勝:秀次の弟)を亡くした。
 戦役の中、数々の悲嘆が鶴松の死の翌々年の文禄二(1593)年に次男・秀頼が生まれるまで秀吉の心に暗い影を落とし続けたのだった。
 鶴松の死後に始まった文禄の役が秀頼の誕生で和議に向かったのだから、鶴松の死が外征と内政に与えた影響は決して小さくない。


秀吉の溺愛 血の繋がらない養子達さえ溺愛した子煩悩男が豊臣秀吉であった。
 年齢的にも、数々の側室を迎えた経歴からも「まさか実子は得られまい……。」と思っていたところに五四歳にして我が子を授かった秀吉の狂喜振りは、書きながら「何を今更…。」と思う程である。

 只でさえ「年を取ってからの子は可愛い。」と云われる。それが子煩悩男に授かったのだからその溺愛振りは呆れる程で、鶴松だけではなく、その生母である淀殿が側室の中で寵愛第一となったのも必然と云えた。

 そんな鶴松が夭折した時の秀吉の嘆き振りは前述したように見てはおれない程であった。
 鶴松の為に法名・「祥雲院」に因んだ祥雲寺を建て、剃髪し、木像を彫り、細川幽斎とともに亡き愛児を偲ぶ歌を幾つも作った秀吉(因みに豊臣家滅亡後に、鶴松を弔った祥雲寺を追われ、涙ながら鶴松の木像を抱いて妙心寺の自坊に帰ったのが、道場主の一押し武将・塙団右衛門の師匠・大竜和尚である)の嘆き振りを伝える事柄は幾らでも出てくる。

 この時代より一〇〇年以上を経た江戸時代でも、生まれて来る赤ん坊は五人中三人が成人することなく命を落としたというから、鶴松の夭折は歴史上のほんの一コマで、当時頻繁に見られた(と書くのは心苦しいが、)幼児の死の一つに過ぎなかったのだろうけれど、そんな時代にここまで父に愛された事が鶴松の短い人生を幸福なものにしたとは考えられないものだろうか?



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令和三(2021)年五月一九日 最終更新