第伍頁 豊臣秀勝(秀吉の姉とも・次男)



豊臣秀勝(とよとみひでかつ)
生没年永禄一二(1569)年〜文禄元(1592)年九月九日
実父三好吉房
縁組前の秀吉との関係甥(姉の次男)
略歴 豊臣秀吉の姉・ともの子で、実父は三好吉房。後に秀吉の関白位を継いだ豊臣秀次の実弟で、幼名は小吉
 養子になった詳細は不明だが、子の無い叔父・秀吉のために、恐らくは兄・秀次と同時に養子となったと思われ、そういう例は珍しくない(例えば、徳川光圀は兄・松平頼重の子を養子に迎える際に綱方・綱條の二人を同時に迎え、若死にした綱方に代わって弟の綱條が水戸家を継いでいる)。
 つまりは秀次に万が一があった場合の保険なのだろう(例えは悪いが)。

 兄・秀次が長久手の戦いで徳川軍に翻弄されたのに対して、秀勝九州征伐小田原征伐に従軍して軍功を挙げた。
 朝鮮出兵において、それまでの軍功を買われたためか、兄・秀次が現役関白として内政の筆頭の置かれたためか、秀勝は総大将として文禄の役に参戦した。
 しかしながら開戦から五ヶ月も経ない文禄元(1592)年九月九日に巨済島にて陣没。享年二四歳。


歴史的存在感 豊臣秀勝の歴史的存在感は極めて薄い。その原因が夭折と同名の「秀勝」が存在する故の影の薄さであると想像するのは容易である。
 夭折した者が歴史上における存在感が軽くなるのはある意味必然だが、よくよく調べるとこの秀勝と云う男、かなり歴史の裏面で重要な事象に関わっている、或いはその後において関わり得た可能性が高いのである。

 まず文禄の役における総大将としてのポストだが、加藤清正や小早川隆景に比肩するだけの軍功を為せなかった事や、殆ど半島内に踏み入っていない事からも秀勝がそのポストに相応しい活躍をしたと云う気は無いが、この文禄の役に続く慶長の役にて、総大将に小早川秀秋が任命されている事に注目して欲しい。
 勿論秀勝も秀秋も殆ど名目上の総大将で、(状況に違いがあるにせよ)名将振りを発揮した訳ではないが、二人とも秀吉の養子であることを見逃してはならない。

 悪意的に見れば義父の七光りと贔屓で形ばかりの総大将に就任している訳だが、秀吉は親の見栄で息子を名ばかりの地位に就けて悦に入るような底の浅い男ではない。
 この時の朝鮮出兵において、秀吉は首都・京都(居城は大坂でも政権中枢は聚楽第のある京にあった)に秀次を、戦場の総大将に秀勝・秀秋を据え、自身は肥前名護屋にあって国内と国外の統括を行っていたのである。
 つまりは京−肥前名護屋−戦場の外征内政ラインをしっかりと親子で固め、遺漏の無い様に努めているのである。事実上の軍事は諸大名を動かすにしても、統治を行う名において秀次・秀勝・秀秋に与えた命題が如何に大きかったがうかがえる。

 詳細は秀次・秀秋の項目で触れるが、朝鮮出兵時に落ち度があった二人に秀吉は激しい怒りを示している。
 夭折故に史実が残らなかったが、秀勝とてこの文禄の役において功が大きければ関白の位が転がり込んできた可能性もあり、落ち度があれば過酷なる処罰が待っていた可能性は極めて大きかっただろう。


 軍事とは別個に縁戚上の問題として、秀勝が浅井長政とお市の方の三女・お江の方を娶っていた史実を見逃してはならない。
 お江の方は云わずと知れた江戸幕府第二代将軍・徳川秀忠の御台所(将軍正室)にして、三代将軍徳川家光の生母となった女性だが、彼女の二度目の夫はこの豊臣秀勝であった。
 二人の間には二人の娘が生まれており、娘達は秀勝亡き後、お江の姉・淀殿とお初の方(京極高次夫人)にそれぞれ引き取られ、育てられた。
 淀殿に預けられた完子は後に九条家に嫁ぎ、女系ながらも豊臣の血を現在に残している。

 そう考えると、(傍系とは云え) 秀吉の血縁がその後も続いている基となった秀勝の存在は案外重要である(秀吉の実子・養子の大半は子を為さず、血縁ではこの秀勝の娘のみである)。

 秀勝がお江を娶ったと云うことは、お江の姉・淀殿を娶った秀吉とは実の叔父甥であり、養父子であり、義兄弟でもある、という誠に奇妙な関係となったと云うことである(もっとも、現代の感覚で見てだが)。
 関白となった兄・秀次と一歳しか違わず、後々の政局上からも重要な血縁を担ったお江と娶わせられた豊臣秀勝の存在は、寿命と周囲の流れでは極めて大きな可能性を持っていた事がうかがえるのである。


秀吉の溺愛 まずは何と云っても「秀勝」の名を秀吉より与えられていることがいの一番に注目される。
 第壱頁、第弐頁でも触れているように、「秀勝」の名は秀吉が我が子の名として、我が子と供に相当執着した名前であった。
 この名が与えられているだけでも相当な愛情を秀吉から受けていたと云っても過言ではない。

 そしてこの豊臣秀勝を最後に秀吉はその後の子供達に「秀勝」の名を与えていない。同名の三人が三人とも夭折して縁起の悪さを感じたとも、最後の秀勝の死が相当堪えたとも取れる。

 前項で触れた様に、秀吉秀勝に対して、旧主・信長の姪にして自らがかつて想いを寄せていたお市の娘を娶わせたり、秀勝亡き後の娘の処遇を淀殿と供に図ったのも甥にして養子である秀勝への愛情とは無縁ではないだろう。
 養子だけではなく弟・秀長も大切にしていた秀吉が姉の子を大切にしない道理がない。秀頼に対する盲目的な愛情が目立つ一方で、秀吉は数多い養子に対して血縁者を養子、それ以外を猶子(相続権のない養子)に定めると云う布石も欠かしはしない。
 夭折故に史料に残らずとも、秀勝が如何に秀吉に愛されたかは状況証拠だけでも充分だろう。


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令和三(2021)年五月一九日 最終更新