第陸頁 小早川秀秋(秀吉の正室おね(高台院)の甥)



小早川秀秋(こばやかわひであき)
生没年天正一〇(1582)年〜慶長七(1602)年一〇月一八日
実父木下家定
縁組前の秀吉との関係妻(正室おね)の甥(兄の五男)
略歴 既に『菜根版名誉挽回してみませんか』『「殺された」人達』『戦国ジェノサイドと因果応報』でも取り上げているので、略歴は本当に略歴にしたい(苦笑)。

 織田信長が横死した本能寺の変が起きた天正一〇(1582)年に木下家定の五男に生まれた。幼名は辰之助
 家定は羽柴秀吉の正室・おねの兄で、つまりおねの実の甥で、秀吉にとって血の繋がらない養子達の中にあって系図上はかなり近い存在だった。

 羽柴秀吉の出世に伴ない、義兄・家定も播磨姫路に二万五〇〇〇石を拝領し、辰之助は天正一三(1585)年に四歳で秀吉の養子となったが、この年、秀吉は養子の一人・羽柴秀勝(織田信長四男の方)を失い、前年に徳川家康の次男・於義丸(後の結城秀康)を養子に迎えた。
 そんな中、辰之助改め羽柴秀俊は秀次・秀勝(秀次の弟)に継ぐ後継者候補とも云えた。

 天正一七(1589)年に秀吉念願の実子・鶴松が生まれるも天正一九(1591)年に夭折し、秀次が関白になった。
 その一方で、秀秋羽柴秀俊から秀秋秀詮と改名するが、以後は「秀秋」で統一)は弱冠一〇歳でありながら参議兼右衛門督(うえもんのかみ)に任官され、丹波亀山一〇万石の領主になった。
 翌文禄元年(1592)には従三位・権中納言に昇進し、丹波中納言または金吾中納言(「金吾」は秀秋元服時の官職・「左衛門督」の唐名)と呼ばれた。

 文禄二(1593)年にお拾い(秀頼)が生まれるに及ぶと関白位にあった秀次さえ切腹に追い込まれ、他の養子達も実家に戻ったり、更に他家に養子に出されたりし、秀秋は毛利家への養子縁組が画策された。

 だが小早川隆景が秀吉による毛利家乗っ取りを懸念し、自分の方から秀吉に願い出て秀秋を自らの養子に向かい入れた。
 小早川秀秋と名を改めた秀秋は翌文禄三(1594)年に毛利輝元の養女と結婚し、更に翌文禄四(1595)年には隠居した養父・隆景の家督を継いで、筑前名島城主として筑前及び筑後の一部三五万石を領有し、一四歳の大大名となった。

 二年後に養父・小早川隆景が没したが、流石に五大老には抜擢されなかったものの、慶長二(1597)年に名目上とはいえ総大将として慶長の役に初陣を飾った。
 蔚山では勇躍して、自ら抜刀して十数人を斬殺するも、「大将らしからぬ振る舞い」とされ、秀吉の怒りを買い、越前北ノ庄一五万石への左遷を云い渡された。
 だが、処分が正式に履行されないまま慶長三(1598)年八月一八日に太閤豊臣秀吉は伏見城に薨去。秀秋の処分は徳川家康を初めとする五大老達の協議の末、処分無しとされた。

 慶長五(1600)年に徳川家康と石田三成の対立が激化すると心情的には朝鮮での手柄をフイにした三成を憎み、処分から救ってくれた家康に好意を寄せるも、周囲の秀秋への進言は彼をかなり悩ませるものだった。
 実の叔母にして養母でもある高台院 (秀吉没後におねが剃髪・出家した名前)からは豊臣家安泰の為にも家康に味方するよう諭され、三成からは秀頼への忠義からも家康打倒に与するよう詰め寄られた。
 毛利家内部でも吉川広家は密かに家康に通じる一方で、毛利輝元は西軍総大将に担がれ、安国寺恵瓊・毛利秀元も家康への戦意は充分だった。

 結局秀秋はなし崩し的に西軍に参加し、伏見城攻めでは家康の股肱の臣・鳥居元忠を自害に追いやったことで西軍メンバーたる事が決定的となった。
 更に、関ヶ原の決戦に際して、西軍勝利に貢献すれば三成から大谷吉継との連名で「秀頼公が一五歳になるまでの関白位を約定する。」と云われた。
 だが、徳川方からは黒田長政を通じて「鳥居元忠自害を水に流し、上方二ヶ国を加増」を約束され、悪名高い優柔不断ゆえの日和見を松尾山の陣中で延々と続けた。
 最後は周知の通り、裏切りを促す一斉射撃を受け、ついに大谷吉継隊に突撃を敢行し、他の四将(脇坂安治・赤座直保・朽木元網・小川祐忠)の連鎖裏切りもあって東軍大勝利を決定付けた。

 伏見城攻めの後ろめたさもあってか、石田三成の居城・佐和山城攻めを率先して行う羽目になり、戦後秀秋は宇喜多秀家の旧領を与えられて備前岡山城主として備前・美作五一万石の領主となった。

 しかし関ヶ原の戦いでの裏切りはかなり評判が悪く、鬱々とした日々の中で秀秋は以前にもまして酒色に耽り、一説には関ヶ原で秀秋への呪詛を残して自害した大谷吉継の霊に怯えて発狂したとも云われ、慶長七(1602)年一〇月一八日に享年二一歳の若さで没した。
 嗣子なきが故に小早川家は御家断絶となったが、その悪しきイメージもあってか、公式記録による死因は「天然痘による病死」だが、「吉継の怨霊に怯えた狂死」、「無礼討ちにしようとした農民の逆襲股間蹴りを食らっての即死」、「鬱による自害」、「宇喜多家浪人に報復されての暗殺」等と諸説紛紛が語られ、総じてそれらの説は不名誉なものが多い。

 やっと終った・・・これのどこが「略歴」なのやら(苦笑)。


歴史的存在感 関白と五大老を養父に持ち、歴史の流れでは関白になっていたかも知れないその歴史的存在感は結果や才能ばかりを見ては分からないほど大きい。

 まずかなりの若年にして三〇万石を超える大身、中納言、外征軍総大将の肩書きを持ったことには豊臣秀吉の権勢が如何に大きなものであった事かをうかがうのに小早川秀秋は格好の存在である。

 勿論若年故に秀秋自身が実質的に為したことはその地位に比して決して大きなものではない。
 また、若輩者にすべてを任せるほど秀吉は馬鹿ではなく、大名や官僚としての秀秋には稲葉正成を、慶長の役に出陣したときの秀秋には黒田如水(官兵衛)を、と必ずと云って良い程、然るべき補佐役を付けていた。

 小早川秀秋はお世辞にも聡明とは云い難い。
 しかし彼も彼なりに必死で、偉大過ぎる二人の養父や百戦錬磨の策士達に翻弄される中に、若年と非才の身で責任や立場を求められるときだけ散々重きを課せられたことが如何に大変かも見て取れる。

 そして歴史的には小早川秀秋の存在は豊臣秀吉の対毛利家対策とそれに対抗する毛利家の面々にも見所がある。
 秀頼誕生を得て養子達をどうするか模索した秀吉は西国の雄・毛利輝元に当時実子がいなかった(秀秋養子入後に秀就が生まれた)ことに目を着け、輝元に秀秋を養子に勧めた。
 だが輝元の叔父にして毛利両川体制の一翼・小早川隆景はこれが秀秋を尖兵とした毛利家乗っ取り計画である事を見抜いた。
 実際に、秀吉の旧主である信長が似たようなことを北畠家・神戸家に対してやっていたし、毛利家自体、乗っ取り謀略のエキスパートだった(笑)ので、これは読まれない方が不思議だっただろう。

 ともあれ、隆景は秀吉の先手を打って、逆に自ら申し出て、秀吉の子を小早川家に頂ければ「末代までの誉れ」であると云って秀吉のプライドをくすぐり、秀秋の毛利家行きを阻止した。
 それでも秀吉秀秋を毛利家操縦の手段にせんとしていた様で、秀秋と輝元の娘とを結婚させた。
 が、この輝元の娘は養女(実父は宍戸元秀で、宍戸家は輝元の叔母の嫁ぎ先)で、ここにも秀吉と毛利家の思惑の応酬が見て取れる(笑)。

 いずれにしても、権力と地位に翻弄された少年がその渦中で何を思ったか?それも歴史を見る上で大切なテーマと薩摩守は考えるが、如何なものだろうか?
 

秀吉の溺愛 何度も書いているが、秀吉は子煩悩な男であった。
 実子・養子のみならず、自らの下に人質として差し出された大名の子でも幼児は可愛がり(例:真田幸村・伊達秀宗・吉川広家)、加藤清正・福島正則と云った子飼の武将は若き日に秀吉を「親父様」と呼んでいたのだから、根っからの子供好きだったと見ても過言ではないと思われる。
 勿論そんな男である秀吉が血が繋がらずとも妻の甥である秀秋を養子にせずとも可愛がったであろうことは想像に難くなく、養子とした秀秋を他の養子達の中でも相当可愛がったであろうと想像するのも容易である。

 他の養子達同様、若年の身で大身や高位を与えられたのは今更云うに及ばずで、通り一辺倒の溺愛より、ここでは寧ろ秀頼誕生後に姓は違えど、尚も続いたに等しい親子関係に注目したい。


 関白位を譲られながら秀頼誕生後にその地位と命を奪われた秀次同様に、秀秋もまた「秀頼の対抗馬になりかねない存在」と見られて、厄介払い的に再度の養子に出されたとの見解が通例だが、薩摩守はあくまで秀吉は秀頼の対抗馬となり得ない分においては秀秋を引き続き可愛がり続けたと見ている。

 一つには先にも触れた小早川家への養子行きである。
 前述した様に、当初秀吉秀秋を毛利家へ送り込む予定だった。これが、織田信長が次男信雄に、毛利元就が次男・元春、三男・隆景にやらせた様に他家を乗っ取りを担わせたものだったとしたら、秀秋に極めて重い任務を課したことになる。
 逆にただの厄介払いで小早川家に送り込んだとしたら、秀秋が利用されることで豊臣政権における二人の大老の発言権を大きくし、豊臣家に対抗する力を持つ毛利家を生みかねない愚行とも取れる。

 輝元はお人好しだが、小早川隆景は切れ者で、安国寺恵瓊は曲者であった。
 少なくとも秀吉秀秋をいい加減に考えていたとしたら、毛利のような大身の元には養子に出さなかったと思われる。
 単に「一度は我が子として可愛がった身だから、大身か、名家を継がせたい…。」と考えた方が秀吉的には自然だった…………………かなあ?(苦笑)


 もう一つ注目しておきたいのは慶長の役の総大将としての秀秋への接し方である。
 蔚山城に篭もって苦戦する加藤清正勢を助ける為に自ら抜刀して十数人を斬殺して、一将を生け捕った秀秋の戦働きを聞いた秀吉秀秋を一瞬見直した。
 しかしながら、三成が十数人を斬り殺した暴れ振りが色々な意味で尋常ならざることから、婦女子や降伏兵を斬った可能性に触れ、「総大将らしからぬ振る舞い。」と奏上したため(秀頼の為、他の養子は馬鹿殿である方が都合がいいとの論もあった)、秀秋の奮闘は処罰対象となった。
 だが、これにしても豊臣家内部の問題ではなく、朝鮮出兵の成否について考察するなら、総大将としての秀秋秀吉の期する所が大きかったから、とも見れる。
 人間、いい加減に思っている相手には怒りも愛情もいい加減になり勝ちである。「子を溺愛する親」=「子を叱れない親」とは限らない。

 秀次にも云えることだが、「可愛さ余って憎さ百倍」とはうまく云ったものである。良くも悪くも。

 

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令和三(2021)年五月一九日 最終更新