第肆頁 宇喜多秀家(宇喜多直家嫡男)



宇喜多秀家(うきたひでいえ)
生没年天正元(1573)年〜明暦元(1655)年一一月二〇日
実父宇喜多直家
縁組前の秀吉との関係降将の甥 側室の連れ子
略歴 幼名は八郎。父は宇喜多直家、母はお福(剃髪後は円融院)。
 実父の直家は実弟・忠家が鎖帷子を服の下に着込まないと安心して会えない程心許せない戦国の梟雄である一方で、城下町・岡山を発展させた名政治家でもあった。
 そんな父・直家が天正九(1581)年、八郎が僅か八歳の時に没し、叔父の浮田忠家が織田信長に降伏してその助力を得て、遺領安堵を勝ち取ったことから若干九歳にして八郎は領主となった。
 そしてこのとき、信長への仲介の労を取ったのが後の猶父・羽柴秀吉であった。


 天正一〇(1582)年四月、備中高松城攻めを控えた秀吉に忠家は八郎の後見を依頼し、秀吉はこれを快諾した。
 直後に岡山勢一万をもって合流した八郎秀吉は、本能寺の変後に実父・直家の旧領に毛利から割譲された領土を加え、五七万四〇〇〇石を八郎に与えた。

 天正一三(1585)年に朝廷から「豊臣」の姓を贈られ、関白となっていた秀吉から公式に猶子(相続権を持たない養子)となった八郎は猶父・秀吉の「」と実父・直家の「」の偏諱を受けて、宇喜多秀家となった(宇喜多家は代々「家」の字を受け継いでいる。曾祖父は興家、祖父は能家)。
 また公式の場では「豊臣秀家」、領内発給文書上は「羽柴秀家」と称した。

 以後も政治・軍事に秀吉の寵愛を得て、官位は1587(天正一五)年に一五歳で従三位左近衛中将・参議、文禄三(1592)年に二一歳で権中納言に昇進。そして文禄六(1595)年には若干二四歳にして豊臣政権に筆頭である五大老の第三位に叙せられた。
 軍事面では朝鮮出兵文禄の役では元帥(渡海司令官)に任じられ、首都・漢城(ハンソン・現ソウル)陥落後に軍中で交わされた八道国割では王都のある京畿道(キョンギド)が統治担当地となった。

 天正一七(1589)年に同じく秀吉を養父としていた前田利家四女・豪姫(ごうひめ)を正室に迎え、二人の男子にも恵まれた(嫡男・孫九郎秀高、次男・小平次秀継)。
 だが慶長三(1598)年八月一八日に猶父秀吉が没すると、慶長の役で財政難となった自国の政治対応を誤り、家臣の離反を招く等、若き栄光に翳りが差し出した。

 しかし秀家秀吉の恩を忘れず、新たな主君にして義弟でもある秀頼のため、難題の矢面に立つことを厭わなかった。
 秀吉遺命(大名間の私婚禁止等)に背く徳川家康を他の三大老(前田利家・毛利輝元・上杉景勝)とともに詰問したり、関ケ原の戦いでは総大将として大坂城に篭もった毛利輝元の代わりに副将として陣内の総大将を務めたりした。
 特に関ヶ原の戦いでは、多くの西軍大名が日和見的な態度を決め込む中、東軍方の福島正則・井伊直政と云った猛将達相手に遜色なく、激しく奮戦した。

 だが善戦空しく西軍は敗れた。
 戦場にて名誉の討死を遂げんとした秀家だったが、重臣・明石全登(あかしてるずみ)の勧めで戦場を離脱し、近江、堺(母・円融院のもと)、果ては薩摩まで六年の長きに渡って逃亡・潜伏の日々を送った。
 しかし徳川方の忍びに嗅ぎ付けられ、もはや匿い切れないと判断した島津忠恒の勧めを受けて、自首し、忠恒と義兄・前田利長の助命嘆願が効を奏して辛うじて死を一等減じられ、八丈島への島流しとなった。

 二人の息子とともに流された八丈島では筵・菅笠を折りつつ、罪人として貧苦の日々を送ったが、妻の実家・前田家からの隔年の援助もあってそれなりにマイペースで健康的な日々を送った。
 大坂の陣の直後には徳川家への忠誠を誓う事で大名に戻る道もあったと云われているが、猶父・秀吉、義弟・秀頼への想いもあってか、単純に武士の意地か秀家はこれを断り、流人のまま明暦元(1655)年一一月二〇日、享年八三歳と云う長寿の果てに、関ケ原の戦いに参戦したどの武将よりも長い戦後を生きた末に世を去った。
 法名は樹松院明室寿光または尊光院伝秀月久福大居士


歴史的存在感 小大名の遺児・天下人の猶子・義弟の重臣・流浪の逃亡者・流刑の罪人と宇喜多秀家の生涯はそれが戦国時代ならではの物であることをこれでもかと云うぐらいに後世に教えてくれる。

 また様々な末路を辿った秀吉の養子達の中にあって帰るべき実家−それも太閤秀吉の子が行くのに相応しい家柄である事を要する−がある身とそうでない身の境遇の相違と云うものも秀家の生涯は端的に表している。

 更に注目すべきが、豊臣家滅亡後の秀吉の子で存命していたのが、本作で取り上げた秀吉の一一人の子供の中で秀家を含めた三人しかいなかったことである(後の二人は豪姫と智仁親王)。
 それゆえに秀吉の子である事に拘り続けて僻地に長くも静かな生涯を送った秀家の生き様は秀吉と云う一大傑物の影響が後世にあっても如何に大きなものであったかがうかがえる。


秀吉の溺愛 いきなり余談だが、薩摩守が本作を作ろうと思い立ったのは拙作・『隠棲の楽しみ方』の制作中のことであった。
 豊臣秀吉宇喜多秀家と云う父子を調べれば調べるほど、血の繋がった者同士が殺し合う事も珍しくなかったこの時代に血の繋がらない親子にこれほどの愛情が育まれたことに驚きを覚えたからに他ならない。

 勿論秀吉の養子の中にも哀れな末路を辿った者も見当たるが、秀家は秀頼誕生後も秀吉の寵愛が揺らぐ事もなく、秀家もそれによく応えた。
 一般に秀頼を猫可愛がりして、お坊ちゃん育ちにした秀吉のイメージが強いが(昨今改まりつつあるが)、秀家に対しては一人の父親として文武両道に立派な教育を施していた。
 そもそも気に入った相手には外様や小者でも高い官位や羽柴姓や金銀を気前よく与えた人たらし男・秀吉のこと、養子に対する溺愛は秀吉にとって冷静さを失うほどのものでなかったのかも知れない。

 尚、秀吉秀家に対する溺愛には秀家の実母にして、後に秀吉側室となった円融院お福の存在も真に大きい。
 女好きで有名な秀吉だが、好みはうるさく、高い身分の女性を好む「上淫好み」で、淀殿や松の丸を始め、かなり若い女性を好んだが、お福はその秀吉の趣味にあっては例外的とも云えた。
 お福の正確な年齢は不明だが秀家が九歳の時に秀吉を頼ったことから側室に迎えた際の推定年齢は、文献上からは三三歳と見られるが、若く見て二〇代後半、下手をすれば四〇代だったと推測される。
 宇喜多直家未亡人で備前南部の土豪の妻という身分を考えると、普段は道場主と正反対の趣味を持つ秀吉がこの時ばかりは道場主と同じ趣味を……ぎぃいええええええええ!!(←道場主のチキンウィング・フェイス・ロックが炸裂中)……ゲホッ、ゲホッ…まあ…その、秀吉が普段の好みとは丸で正反対の女性を寵愛したのだから、美人と伝えられるお福は相当な美女であったのだろう。
 そして容姿云々以前の事実として、秀吉お福を妻として、秀家を我が子として相当可愛がったのは紛れもない事実である。
 道場主に関する余計な一言は別にして、男の本能として一度は見てみたい存在である。

 ともあれ秀吉秀家に対する愛情は、時代・政治上の立場・個人の性格を越えて見事で、冒頭でも書いたが、結婚した相手の連れ子を虐待する冷血度腐れ男、実子を再婚相手に虐待されても男に逆らえないボケ女や、子供の養育に大切な費用を酒・麻薬・ギャンブルですってしまう糞たわけ親は大いに恥じよと云いたい。
 秀吉秀家に対する寵愛が、お福に愛されたいという秀吉助平心から出たものだとしても、薩摩守は秀吉秀家への愛を尊敬こそすれ、決して軽蔑したりなどしない
 女の気を引かんとの目論みもそこまで行けば立派だ(笑)!!!

 ここまで考察すれば、秀吉の寵愛に秀家が子として応えなかったとしたら彼は冷血漢と呼ぶしかなくなる。勿論そんな事はなかったわけだが。
 そしてその心意気が秀家にしっかり植わわっていたからこそ秀家は関ケ原に奮戦し、近江・堺・薩摩に流浪と潜伏に耐え、大名への復帰の道を断って流人生活甘んじて「秀吉の子」・「秀頼の兄」であり続けたのだろう。
 単純な比較は禁物である事を承知の上で、薩摩守は秀吉が実子を別にすれば最も可愛がった養子はこの宇喜多秀家ではないかと考える。

 普通「溺愛」と云えば余りいいイメージはしないのだが、秀吉秀家に対するそれは余計な批評を控えて「見事である!」と断じたいので、尻切れ蜻蛉を承知の上でここで筆を置きたい。



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令和三(2021)年五月一九日 最終更新