第捌頁 八条宮智仁親王(誠仁親王第六皇子)



八条宮智仁親王(はちじょうのみやとしひとしんのう)
生没年天正七(1579)年一月八日〜寛永六(1629)年四月七日
実父誠仁親王(正親町天皇の第一皇子)
縁組前の秀吉との関係皇太子の六男
略歴 本能寺の変の三年前に、正親町天皇の第一皇子(つまり皇太子)であった誠仁親王 (さねひとしんのう)の第六皇子に生まれた。母は勧修寺晴右の娘・新上東門院(藤原晴子)。幼名は六宮胡佐麿

 父が皇太子とはいえ、その六男の立場では皇位は望むべくもなく、天正一四(1586)年に菊亭晴季(きくていはるすえ:羽柴秀吉が政権を握る為に一時養父となった人物)の斡旋で胡佐麿は関白太政大臣・豊臣秀吉の猶子となった。
 ちなみに同年、実父の誠仁親王が三四歳の若さで病没し、長兄・和仁親王が正親町天皇より譲位され、後陽成天皇となった。

 しかし天正一七(1589)年五月二七日に秀吉に実子の鶴松が生まれると同年一二月に八条宮家を新設し、初代当主となった。
 二年後の天正一九年(1591)年一月親王宣下を受け、智仁親王となった。

 慶長三(1598)年八月一八日に養父・豊臣秀吉が薨去。
 だがこの時点で皇族に戻っていた形の智仁親王には武家との関わりは殆ど見られない(和歌の古今伝授などで細川幽斎等とは親交があった)。
 慶長五(1600)年に細川幽斎から受けた古今伝授を甥の政仁親王(ことひとしんのう:後の後水尾天皇)に相伝し、御所伝授の先駆けとなった。

 その後は特に豊臣家と関わる事無く、豊家滅亡から一四年の時を経た寛永六(1629)年四月七日に逝去。享年五一歳。


歴史的存在感 八条宮智仁親王ははっきり云って、豊臣秀吉の養子の中では最も影が薄い。それは取りも直さず、武家との関わりが僅少だったからだろう。
 だが秀吉の猶子であったという事実は彼の人生に皇位継承を逃すというダメージを与えた。

 慶長五(1600)年の関ヶ原の戦いの直後に、時の帝・後陽成天皇は弟である智仁親王への譲位を検討し、その是非を家康に打診したが、家康は智仁親王秀吉の元・猶子であることを理由にこれに反対し、皇位継承の道を断たれた。
 後陽成天皇は豊臣秀吉の関白・太閤としての権威と大義名文作りに大きく貢献した存在で、それに対して後水尾天皇は徳川秀忠の五女・和子を正室に迎え、その皇女が明正天皇となったように(本人の意図は別に)徳川政権の権威強化に貢献した存在であった。
 そもそも、関ヶ原の戦いを制した天下の実力者とはいえ、この時点では公的には内大臣に過ぎなかった家康に後陽成天皇が譲位問題の是非を問い合わせたのもおかしな話と云えば、おかしな話である。
 それを考えると智仁親王の存在は、朝廷の権威と豊臣政権・徳川政権の権力の実態を浮き掘りにさせる歴史的見地上の貴重な存在と云える。

 政治を別にすれば文化上の存在として智仁親王桂離宮の基を作った事が挙げられる。
 智仁親王もその嫡男にして八条宮家第二代当主の智忠親王も和歌・書道に秀で、家領の下桂村に造営された御別業の離宮が、後に八条宮家が桂宮と呼ばれるに及んで桂離宮となった。

 天下人・豊臣秀吉の猶子にしては知名度が低いとはいえ、唯一の皇族出身であるところに智仁親王にしかない歴史的立場と意義と影響を見逃してはならないだろう。


秀吉の溺愛 正直、何を書けばいいか困っている(苦笑)。歴史の表舞台に殆ど現れないため、智仁親王の人格・秀吉との父子としての交流のすべてが、薩摩守には調べ得ていない。

 養子入りその物が秀吉にとって猶父である菊亭晴季の口利きもあり、時期的にも関白就任・豊臣姓下賜と時を同じくしており、他の養子縁組に比べて政治的打算が極めて色濃い。
 何と云っても朝廷が相手なのだから天下の事が丸で絡んでいないと云えば嘘になるだろう。

 前述した様に、御陽成天皇の譲位を巡って、「秀吉の猶子」の経歴を持つ智仁親王への譲位が徳川の反対を生んだ。
 この反対が、秀吉を父とする智仁親王が即位後に秀吉への恩義から徳川に不利な朝廷対応をしかねないと見られてのものだとしたら、秀吉智仁親王の父子関係に秀吉の溺愛を見出せなくもない。
 まあ、単純に「秀吉猶子」が天皇となれば豊臣恩顧の大名が朝廷権威をもって徳川に歯向かいかねないとして譲位に反対されたと見る方が妥当なので決め付けは避けたい所である。



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令和三(2021)年五月一九日 最終更新