第漆頁 結城秀康(徳川家康の次男)
略歴 徳川家康が三方ヶ原の戦いで武田信玄に生涯最大級の惨敗を喫した翌年である天正二(1574)年二月八日に生まれたのが家康次男の於義丸である。
徳川家康 生没年 天正二(1574)年二月八日〜慶長一二(1607)年閏四月八日 実父 縁組前の秀吉との関係 盟友の次男
家康の手がついた母・お万の方が、主人である築山殿(家康正室)をはばかって本多作左衛門重次(←通称「鬼の作左」のことよん)に庇われる形で三河富士見村で出産した。
長じて羽柴秀康→結城秀康→松平秀康と改名を重ねた。
その出生が正室を憚ったこともあって、於義丸が兄・信康の計らいで父子対面を果たしたのは於義丸二歳の時だった。だが、このときの対面も決して温かいものではなかったと伝わっている。
一般に、一五最年上の兄信康、そしてその信康が切腹を命じられた天正七(1579)年に生まれた弟の長松丸(秀忠)・その翌年に長松丸と同じ母から生まれた忠吉に比べて、於義丸は家康に愛されなかったと云われている。
家康の心底はともかく、正室・築山殿を母に持つ信康や、この頃の家康の寵愛を欲しいままにしたお愛の方を母に持つ秀忠・忠吉と比較すると、ただ一度の御手付きの相手であるお万の方が母である於義丸が家康と(様々な意味で)最も遠い距離に在ったことは間違いない。
天正一二(1584)年、家康と羽柴秀吉の間で小牧・長久手の戦いが勃発したが、家康に長久手で戦略的敗北を喫した秀吉は、政治力で織田信雄を懐柔した。
家康との間に講和が成立すると、秀吉から於義丸を「和睦の証」として、養子にと請われた。
家康が大坂に出向いて秀吉と完全講和するにはその後も若干の紆余曲折がったが、それに先立ってその年の一二月、於義丸は一一歳にして秀吉の養子となった。
程なく、元服して養父・秀吉から「秀」の字と、実父・家康から「康」の字を貰って羽柴秀康と名乗り、従五位下侍従され、河内一万石の大名となった。
翌天正一三(1585)年七月には従四位下左近衛少将に叙任され、更に翌年の天正一四(1586)年には秀吉の九州征伐に従軍して、日向攻めに武勇を発揮して功を立てた。
しかし秀吉に実子・鶴松が誕生すると家康の血を引くことと、武勇を恐れられたのか、天正一八(1590)年八月に下野の名家ではあったが、五万石の小大名であった結城晴朝の養子となり(同時に結城晴朝の娘・鶴子と婚姻)、結城秀康となった(つまりは婿入りの態である)。
皮肉にもこれをきっかけにその五日前に江戸城入りした実父・家康との距離が縮まることとなった。
文禄元(1592)年、朝鮮出兵を指揮する為に肥前名護屋に在陣した秀吉・家康の二人の父と秀康は行動を共にした(故に渡海しなかった)。
慶長三(1598)年八月一八日に養父・豊臣秀吉が薨去。これにより実父・徳川家康の力が増した。
養父薨去の二年後、慶長五(1600)年に会津にて城砦を整えて上洛命令に応じない上杉景勝を征伐するため家康がその征伐に向かい、秀康もこれに従軍した。
これが景勝と石田三成が示し合わせて家康を出陣させ、挟撃せんとの作戦であったのは有名(否定的な学者もいる)だが、下野小山にて三成挙兵を知った家康は軍議を開き、福島正則を利用して「君側の奸」(と決めてかかった)三成を討つ為に秀吉恩顧の大名達が西進させた。
だが、家康は江戸に篭もり、秀康は上杉景勝の追撃に対する押さえとして下野宇都宮の守備を命ぜられた。
最初は不服を唱えた秀康も、二人の弟・秀忠、忠吉が初陣であったことから、家康に「謙信以来の戦上手の上杉家を抑えられるのは戦歴も豊富なそなたしかいない。」とのおだてに近い説得に応じて押さえの任に就いた。
周知の通り、程なく家康は関ヶ原の戦いに宇喜多秀家・石田三成・大谷吉継率いる西軍を撃破。
戦後の論功行賞で秀康は越前国六七万石を与えられ、翌慶長六(1601)年五月に北ノ庄(後に福井に改めた) に入城し、北陸と畿内を抑える要衝の地の大大名となった。
慶長八(1603)年二月一二日に父・家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開いた同月に秀康は従三位に昇進し、武勇と長幼の序から次期将軍候補として本多正信・本多忠勝等の支持を得た。
だが、二度の養子行きと、豊臣家との親密さから結局は秀忠が次期将軍に選ばれ、慶長一〇(1605)年四月一六日に徳川秀忠の将軍宣下が行われた(前年に結城秀康は松平姓に復した)。
が、その一方で同年の七月二六日に秀康は権中納言に、九月一〇日には秀康の嫡男・長吉丸が元服して松平忠直と名乗るとともに従四位下侍従となる等、越前松平家は将軍の兄の家=「制外の家」として律義者・徳川秀忠から何かと気を遣われた。
結城秀康改め松平秀康は慶長一二(1607)年閏四月八日に享年三四歳で没した。
僅か二ヶ月前の三月五日に秀康の弟にして、秀忠には両親を同じくする愛弟・松平忠吉が二八歳の若さで病没しており、タイミングや長幼の序を逆行するような背景から家康や秀忠による暗殺説も囁かれるが、実際には梅毒による病死と見られている(そのため、死期が近付いた秀康は幕府の使いと会おうとはしなかった)。
秀康の生母・お万の方は悲嘆に暮れ、家康の許可も得ずに剃髪し、秀康の菩提を弔い続ける余生を送った。
歴史的存在感 何と云っても戦国末期の二大巨頭・豊臣秀吉と徳川家康の二人を「父」持つ結城秀康の立場はそれだけで尋常なものではなかった。
しかも実父と養父の双方から愛と冷遇を受けたのだから、小中学校の日本史の歴史に登場せずとも、歴史の要所要所で秀康の名は重きを為している。
出生の背景から、家康を主人公としない様々な伝記小説では家康に愛されずに育ったように書かれることが多い。
小牧・長久手の戦いの講和条件における養子兼人質行きに、三男・長松丸(秀忠)、四男・於次丸(忠吉)、五男・万千代(信吉)がいながら、この時点での最年長であった於義丸が選ばれたことを「厄介払い」と見る向きは根強いが、逆にこれが複雑極める豊臣・徳川両家の掛け橋的存在の基となった。
秀吉に愛され、長じて武勇に優れた姿に亡兄・信康の姿を家康に見出された秀康だったが、秀吉の天下統一によって戦はなくなり、結城家に養子入りしたことで天下の表舞台から退いた様にも見られた。
だが、養父秀吉薨去後に秀康は早くも豊臣−徳川間の微妙な立場に立たされた。
慶長四(1599)年の前田利家病没直後に七将(加藤清正・福島正則・加藤嘉明・浅野幸長・黒田長政・細川忠興・池田輝政)による石田三成襲撃が起き、三成に庇護を求められて彼を匿った家康は七将を諭した上で、双方の譲歩を得る為に三成に隠居を勧た。
家康の狸親父振りが見え見えながらも(一応は)命を救われた手前、切歯扼腕しながら佐和山に退去する三成。そんな三成を七将が再襲撃するのを防ぐ為、家康は秀康に佐和山への同行と三成の警護を命じた。
三成は家康を豊臣家を乗っ取りかねない人物として執拗にその命を狙いつつも、このときは家康を利用した様に、両者は表面上穏やかに豊臣家家臣として接しつつも、互いにその心中は穏やかではなかった。
それを承知の上で三成には、故秀吉の覚えも目出度く、いざというときに若君・秀頼の義弟として頼りになりそうな秀康には期するところがあった様で、名刀・正宗を警備の御礼に譲っており、秀康もこれを終生愛用したという(経理の上ではケチでも、個人的には気前良かったのね、三成…)。
そう見れば、三成の警護に秀康が選ばれたのはある意味必然で、七将は「秀吉の子」であり、「家康の子」でもある秀康に手を出す訳にいかないことから、このときの警護は警護以上の大きな意味を持っていたことに気付かされる。
そんな経緯もあって、関ヶ原の戦い後は北陸と上方を結ぶ要衝である福井を抑える秀康は、豊臣家存続を図る一派からも、豊臣家を警戒して睨みを効かすことを期待する一派からも重要視された。
故に「結城秀康暗殺説」には将軍徳川秀忠さえもが憚る「制外の家」が将軍家の目の上の瘤とされたという根拠を唱える説と、秀吉を父とし、秀頼を義弟とする秀康が豊臣家を滅ぼす際の邪魔者になるので排除したという説の二つがまことしやかに囁かれる。
真偽はさておき、それだけ徳川家・豊臣家双方にとって秀康の存在は重かったと云える。
薩摩守は以前、拙作『「殺された」人達』で結城秀康暗殺説に否定的な論を展開したが、その根拠として徳川秀忠の「律儀さ」を挙げた。
実際秀康没後も、秀忠は兄との生前の約束を守って、三女・勝姫を秀康嫡男・忠直に嫁がせ、秀康長女の喜佐(きさ)を自らの養女として西国の雄・毛利秀就に嫁がせた。
更には、忠直処罰後もその弟達に新たな松平家を創始させ、大名に取り立て、甥や姪にあたる秀康の遺児達にも何かと心を砕いた。
秀康暗殺説支持派の方々は「秀忠が兄を暗殺した事に対する後ろめたさの払拭」と見るかも知れないが、秀康病死の二年前に既に将軍に就任していた秀忠に秀康の子供達を敵に回す恐れのある暗殺を行う必然性も見当たらず、秀康の遺児達を取り立てるよりは幼い内に取り潰した方が楽だったことは明らかであり、その点からも暗殺説に否定的である(第一、意図的な暗殺なら松平忠吉の病死の二ヶ月後に殺しては何ぼ何でも怪し過ぎる)。
同時に改めて「制外の家」として将軍家にも何かと気を遣わせた結城秀康の歴史的存在には大きなものがあるとも見ている。
秀吉の溺愛 「猿」、「ハゲネズミ」等の異名で呼ばれた豊臣秀吉の体格は痩身短躯で、供に信長に仕えていた時の同僚である柴田勝家、佐々成政、前田利家等に比べると御世辞にも「猛将」・「豪傑」とは呼ぶ者は皆無に近い。
ひどいときには秀吉を智恵と要領だけで成り上がったと見る向きさえある(勿論秀吉とて何度も戦場で窮地に陥ったり、自ら刀や槍でもって敵兵と打ち合ったりしたこともあった)。
そんな秀吉の子供達には、実子を別にすればこの結城秀康を筆頭に、宇喜多秀家、豊臣秀次、小早川秀秋等血の気の多いタイプが多かった。
これは一般論に即すなら、父が子に対して自分の持つ長所を持たなければ叱り、自分の持たない長所を持てば特に溺愛するという傾向だろう。
秀吉と養子達の場合、勇猛さは特に愛でられ、秀頼誕生後は逆にその勇猛さが警戒されて他家に再度の養子に出されたパターンが少なくなかった。
秀康の場合はモロにこの傾向が当てはまり、九州征伐等での勇猛さを秀吉に褒められ、その褒め振りは実父に疎んじられていた秀康が実父・家康以上に秀吉を慕うこととなり、後に関ヶ原の戦いの際に家康が上杉への抑えを秀康に命じる根拠ともなった(勿論、後継者問題から秀康に必要以上の手柄を立てさせたくなかったという計算もあったが、初陣の秀忠・忠吉に対上杉景勝迎撃を任せる訳にはいかなかったのも事実である)。
またこんなエピソードもある。
養子とはいえ、態のいい人質とも取れる形で羽柴家に来た秀康を当初、謂わば「敵の子」として露骨な蔑視を向ける者も秀吉の直臣達の中にはいた。
そして天正一七(1589)年のある日、伏見の馬場で馬を走らせていた秀康をからかう目的で秀吉のお気に入りであった馬丁が秀康に馬を並走させたところ、秀康は「無礼者!!」と一喝して馬丁を即座に斬り殺した。
驚いて集まった御家人達に、
「たとえ殿下の御家人と雖も、馬を並べて秀康に無礼を致す法やある!?(「否、ありはしない」:反語)」
と云い切り、これを聞いた秀吉はその剛胆さを褒めながら、一方で恐れたと云う。
鶴松の誕生はこの年の初めで、結城晴朝に嗣子なきを相談され、秀康をその養子としたのは上記の事件の翌年、天正一八(1590)年の事であるのは果たして上記のエピソードとは無関係だろうか?
ともあれ秀康はその武勇故に二人の父に愛され、一面では疎まれもした。
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」とはよく云ったものだが、かと云って秀康の武勇が歴史上抜きん出て凄まじい物であるとまでする論拠はない。
偏に豊臣秀吉・徳川家康といった二人の偉大過ぎる父親同士の狭間におかれたゆえの不遇と云えるだろう。
だからこそ余計に一一歳から一七歳までの多感な少年期に最大の敵である筈の家康の次男を手放しで愛で、その愛を受けた秀康が実父以上に養父を慕わしめた点に秀吉の世の父親を越えた我が子への溺愛を薩摩守は見出すのである。
それが生涯秀康の境遇を翻弄し続けたのは誠に残念な歴史の皮肉ではあるのだが。
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令和三(20212)年五月一九日 最終更新