第参頁 長田忠致と源頼朝……駄洒落で締め括った酷刑

反故にされた人物長田忠致・長田景致
反故にした人物源頼朝
反故にされた瞬間建久元(1190)年某月某日
反故にした背景怨恨と猜疑心
卑劣度
騙し度
止む無し度
反故のツケ直接的には無し。但し、配下や投降者を大切にしないことが忠義を失い、その後二代で源氏直系滅亡
不幸な対決 道場主が「こいつ大嫌い!!」と広言して憚らない猜疑心の塊男・源頼朝三回目の登場である。
 ここで取り上げる長田忠致(おさだただむね)との因縁は、平治元(1159)年一二月の平治の乱に端を発していた。


 保元の乱に続くこの乱で平清盛に敗れた源義朝は源氏の勢力の強い東国を目指して落ち延びんとした。
 乱の当初は熊野参詣に出掛けた清盛の隙を上手く突いて後白河上皇・二条天皇を軟禁せしめ、信西を討つ事にも成功した義朝だったが、帰京した清盛は上皇と天皇を女装させて義朝の監視下から脱出させる事に成功し、「賊軍を討て!」との宣旨を得る事に成功した。
 自身勇猛な猛者であった義朝は、その資質を色濃く受け継いだ長男・悪源太義平(あくげんたよしひら:「悪」は「わるい」ではなく、「強い」という意味)、史上の影は薄いが身内への思い遣り深く、肝も座っていた次男・朝長、初陣で意気軒昂な三男・頼朝とともに決戦に挑んだが、朝敵となることを嫌った一族の源頼政が敵についたために敗戦に終った。

 平家方の落武者狩りは執拗を極め、落ちる途中で美濃で豪雪の中、義平・頼朝とはぐれ、落武者狩りの前に重傷を負った朝長は足手まといになる事より父の手にかかる事を願い、義朝は涙ながらにこれを斬った。
 難渋を極める中、尾張国野間(現:愛知県知多郡美浜町)に辿りついた義朝は乳兄弟であり、腹心でもあった鎌田政清(かまたまさきよ)の勧めで、鎌田の舅である長田忠致の居館を頼った。

 長田氏は桓武平氏の血を引く出自ではあったが、忠致の娘が鎌田に嫁いでいたように、この時は源氏に味方していた。
 忠致は義朝・鎌田主従一行を歓待し、年末年始を自邸で過ごし、戦場の疲れを取る事を勧めた。
 義朝は鎌田を深く信頼していた(保元の乱では打ち首を命じられた義朝の父・為義を義朝に代わって涙ながらに斬っている程である)ので鎌田の舅の忠致も信頼した。
 しかし落武者狩りを徹底する平家の手は尾張にも伸びていた。

 豪勇で鳴る義朝をそう簡単に討てないと見た忠致は永暦元(1560)年一月三日、義朝に風呂を勧め、丸腰になったところを配下に襲わせ、義朝を討ち取った。
 「せめて、木太刀(木刀)の一本も有れば……(抵抗出来たのに)。」というのが義朝の今際の言葉であった。
 時を同じくして鎌田政清も勧められた酒に酔っていたところを忠致の子・景致の手にかかった。
 完全な騙まし討ちで、義朝の遺児である頼朝長田父子を深く恨み、憎んだのも無理のないことだった(←これ自体は薩摩守も頼朝に同情する)。


 薩摩守から見て、長田忠致は「くだらない男」である。
 義朝の首を平家の元に届けて壱岐守に任じられたが、この行賞に対してあからさまな不満を示した。曰く、「左馬頭、そうでなくともせめて尾張か美濃の国司にはなって然るべきであるのに………。」などと広言したのである。
 左馬頭は源義朝の官職で、つまりは討ち取った源氏の頭領と同じ官職か、一国の国主が自分に相応しい、と思い上がったのである(←「ほな、左大臣・藤原頼長を討った奴は左大臣に叙せられなあかんのかい!?」とのツッコミを入れなくてはなるまい)。

 これを耳にした平清盛は呆れ、怒りを露わにし、処罰を恐れた忠致は慌てて引き下がった。
 只でさえ桓武平氏に繋がりながら源氏についたり、その源氏を娘婿共々裏切って騙まし討ちにした忠致の卑劣振りはそれを悲しんだ娘(鎌田政清の妻)が川に投身自殺したほどだった。
 そんな状況下で敵の総帥と同じ役職に就けるべし、と広言していたのだから身の程知らずも甚だしい男だった。
 とはいえ忠致は「全くの馬鹿」でもなかった。
 一応、大局的に源平いずれが有利かを見る目は持っていたし、豪勇に優れた義朝を討った手際や、鎌田を討った息子・景致との息の合いようもそれなりの手腕と見る事が出来る。
 その後平治の乱から二〇年を経て、奢り高ぶった平家の凋落を予見し、挙兵したてでまだまだ平家に抗し得るかどうかも断じ難い勢力に過ぎない源頼朝に一族郎党の生き残りを賭けて自身の死を覚悟の上で景致とともに投降した決断も全くの馬鹿とは云えない(「節操」は微塵もないが……)。


 いつの時代も「親の仇」に対する恨み骨髄の想いに変わりは無い。まして相手は朝命も忠義も兄弟愛も軽んじる源頼朝であった。
 忠致にしてみれば、まずは全国の源氏方の武将に目の仇にされ、騙まし討ちや嬲り殺しに合うぐらいなら潔い死を迎えられれば、と云う気持ちだっただろう。
 次いで期待するなら自分と景致は助からずとも、一族郎党の命が救われればと云う気持ちであろう。いずれにしても悲壮な決意無くして出来る投降ではなかった。

 だが頼朝からかけられた言葉は、「懸命に働いたならば美濃尾張をやる。」と云う寛大なものだった。
 打ち首覚悟の忠致に、自らが住まう尾張に加えて美濃を貰える、と云われたのである。しかもかつて尾張か美濃の国司就任の希望を口にした時は処罰されかかった記憶が忠致には色濃く残っていた。
 長田忠致景致父子の感激は如何ばかりだっただろう。
 長田父子は義経隊に従軍し、宇治川の戦い一ノ谷の戦い屋島の戦い壇ノ浦の戦いに周囲が驚くほどの勇猛振りで父子の息ぴったりに転戦し、武功を挙げ続けた。
 後世である平成の世にて源頼朝の人となりを知る薩摩守が長田父子の立場なら、屋島の戦い壇ノ浦の戦いで戦場を離脱して琉球辺りを目指しただろうけれど……。



理不尽な反故 元暦二(1185)年三月二四日、壇ノ浦の戦いにて平家一門は滅亡した(厳密には直系の滅亡は文治元(1185)年六月二一日の平宗盛斬首。また平頼盛一族が池乃禅尼の恩により存続した)。
 素で考えるなら源義経及びその配下に属していた長田忠致の軍務は終ったことになる。
 義経のその後、後白河法皇から兄・頼朝の許し無く官位を賜ったことを理由に鎌倉入りを許されず、腰越からの弁明も通らず、奥州平泉に旧知の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼り、秀衡没後に衣川にて秀衡の子・泰衡(やすひら)に責められて自害したのは有名だが、長田父子頼朝の帰還命令を受けて鎌倉に引き返した。
 義経自害の四ヶ月後には助命の約束を反故にされ、藤原泰衡もまた滅ぼされた。頼朝にとって軍事上のすべての邪魔者が消えた。後は征夷大将軍就任を認めない後白河法皇が世を去るまで三年ほど待つだけだった。

 否、頼朝にはまだ為すべきことがあった。
 平家滅亡に尽力した配下への論功行賞である。だが単純に論功行賞を期待出来るような主君では、頼朝は、決してない。
 「主震わしたる者身危く、功天下を蓋う者賞されず。」という言葉がある(by『史記』)。
 動乱の時代には敵軍を打ち破る猛将・謀将たる配下は頼もしい存在だが、平和が訪れると彼らは必要とされなくなるどころか、危険視されるのである。
 天下平定後に配下に対して猜疑心の塊となった主君としては漢の高祖・劉邦、初代モンゴル大ハーン・チンギス=ハーン、明の洪武帝・朱元璋の例が有名だが、源頼朝はその最たるものと薩摩守は見ている。
 弟・源範頼、叔父・行家、再起の功労者・上総広常、投降者・河田次郎(藤原泰衡を裏切って首を持ってきた)等は皆頼朝の猜疑心の為に功績があったにもかかわらず(否、「あったからこそ」と云うべきか…)命を落とし、降伏してた者でも一度は頼朝に刃を向けた者達はその命を救われなかった(例:大庭景親・伊東祐親)。
 もうここまで書けば、長田父子に延命の道が無かったのは明らかだろう


 長田父子の最期には諸説あるが、反故に関し、且つ信憑性の高いものを下記に記す。
 建久元(1190)年、尾張国野間にて源頼朝は、その地で謀殺された父・義朝の法要を行った。
 そして法要に際して、義朝の墓前で下手人である長田忠致景致父子の処刑を行なった。
 それも松の木に逆さ磔にし、白木の杭を打ち付けるという酷刑だった。

 処刑に際して長田父子が何を云ったかは伝えられていない(何故か辞世の句はが伝わっている)が、義朝殺しの罪を赦免して助命するとの約束に対する反故に抗議ぐらいはしたかもしれない。
 前述した様に頼朝は降伏してきた長田父子に源氏軍としての活躍を約束するなら父を殺した仇を忘れ、「美濃・尾張を与える」と約束していたのだから。
 長田父子に反論したものか、後世の非難をかわす為か、源頼朝長田父子の処刑に際して次の様にいった、と伝えられている。

 「約束通り、『身の終り(美濃尾張)』をくれてやったのだ。」と。

 薩摩守が『笑点』の司会者なら山田君に頼朝を突き飛ばさせた上で三枚は座布団を持って行かせるだろう。



忌まわしき余波 現代でも肉親を殺した殺人犯にはその死を求める人が多く、死刑廃止論者でもその気持ちまでも非とはしない。
 まして親の仇は子が討つのが当たり前の中世以前の話である。源頼朝長田忠致長田景致を討ったことには薩摩守も全く非を感じていない。
 問題は頼朝長田父子に対して罪を許し、恩賞を授ける条件で平家追討に従軍させながら、約束通りに手柄を立てたのを惨殺したことにある。


 つまり長田父子が降伏してきた時点で、(忠致が覚悟していた様に)長田父子は処刑してもその一族郎党を許すか、平家滅亡後に約束通り美濃・尾張を国丸ごとならずとも両国に跨る二、三郡でも宛がえば、このコーナーは存在しないか、タイトルが「藤原泰衡と源頼朝……首を受け取ってから発した『院宣違反』」に変わるかしていただろう(笑)。

 ともあれ、利用するだけ利用して用済みになれば抹殺するという、仮面ライダーシリーズに登場する悪の組織の首領のような頼朝の蛮行を薩摩守はこれからも非難し続けるだろう。

 「親の仇」への報復、との同情の余地もあってか、源頼朝長田父子を約束を反故にして殺したからといって何のしっぺ返しも食ってはいない。
 だが長田父子との約束を反故にする基となった頼朝の基本性格である猜疑心はその後の鎌倉幕府において息子である頼家、実朝の力となる筈の源氏一族と功臣の数を減じ、御家人達の結束も弱体化させた。
 頼朝の死後、彼の猜疑心的誅殺の尖兵だった梶原景時は御家人連合を追放・追討されて滅び、頼りにしていた和田義盛もまた由比ヶ浜合戦で北条氏に滅ぼされた。
 結果、頼家・実朝のために命を張る御家人は皆無に等しく、源氏直系は三代で滅びた。
 しかしながら、生前頼朝が坂東武者に約束した「御家人の土地と権益を守る。」という意思は深く信頼されていたため、承久の乱に際して御家人達は頼朝の恩を説く北条政子の演説に涙を流して奮戦を誓い、将軍家が滅びながら幕府は存続するという珍現象が続いた。
 厳守した約束には本人の人となりとは関係無しにその報いが返されるものなのである。反故なら尚更であろう。


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令和三(2021)年五月二〇日 最終更新