第肆頁 長島一向一揆と織田信長……本当にそうするしかなかったのか?

反故にされた人物長嶋一向宗徒
反故にした人物織田信長
反故にされた瞬間天正二(1574)年九月二九日
反故にした背景信長の切羽詰り方と石山本願寺への脅威
卑劣度
騙し度
止む無し度
反故のツケ信長親族を初め、織田勢大量戦死
不幸な対決 一向一揆−それは浄土真宗の門徒達が結束して立ち上がった一揆で、「進むは極楽浄土、退くは無間地獄」と唱えながら死を恐れず突き進んでくる百姓兵・僧兵達の前に自害に追いやられた富樫政親(とがしまさちか)のみならず、上杉謙信・徳川家康・朝倉義景といった大名達も数々の苦戦を余儀なくされた。
 そんな一向一揆に手を焼き、最も凄惨な死闘を繰り返した戦国大名の一人に織田信長がいた。

 長島一向一揆織田信長との凄絶な戦いについてはかつて『戦国ジェノサイドと因果応報』に詳しく記しており、実のところ、この頁は前作とかなりの部分が重なる。
 それでも敢えて本作でも取り上げたのは、それだけこの戦いにおける信長の在り様への許せなさと、「本当に反故にするしかなかったのか?」との疑問の尽きなさが薩摩守の思考の片隅を占め続けているからに他ならない。

 ともあれ、戦の詳細は旧作に譲るとして、まずは長島一向一揆信長が対立した背景に触れておきたい。


 そもそも長島一向一揆信長は敵対関係になかった。
 信長の治める尾張と、彼の次子・信雄が治める伊勢の堺に流れる木曽川、揖斐川、長良川の河口付近の輪中地帯である「長島」に根拠を持つ一向門徒達の集まりは、確かに信長にとって獅子身中の虫とも云える厄介な存在だったが、それでも当初両者は各々の統治勢力圏に対して相互不介入の関係にあった。

 大坂石山本願寺蓮如(れんにょ)の六男である蓮淳(れんじゅん)を住職として、杉江の地に創建された願証寺を中心に数十にもおよぶ寺院や道場を統括し、尾張国西南部、美濃国南部、伊勢国北部に自治勢力を築いていた一向宗勢力に対し、尾張の織田氏・美濃の斎藤氏・伊勢の北畠氏はその自治を黙認して介入せず、一向宗勢力にしても好んで信長と戦う必然性はなく、彼の尾張統一・美濃攻略・北伊勢の侵攻・足利義昭を奉じての上洛戦に反抗も介入も行わなかった。
 しかし元亀元(1570)年九月に、信長に蔑ろにされていた征夷大将軍・足利義昭の密書檄文を受け、願証寺の親分格とも云える大坂の石山本願寺が反信長連合に加わって武装蜂起したために、必然長島一向一揆は織田勢と武力衝突を繰り返すこととなった。
 そして長島一向一揆の中には信長によって美濃を追われた斎藤龍興や、門徒ならずとも国人として土地鑑と地力を持つ石橋義忠・下間頼旦(しもつまらいたん)といったれっきとした武士も加わっていた。


 信仰で結束し、死をも恐れぬ数万の一揆勢は長島唯一の信長派である長島城主・伊藤重晴を討って城を奪い、挙兵二ヶ月後の同年一一月には信長の弟、織田信興(のぶおき)を尾張小木江城にて自害せしめ、伊勢桑名城の滝川一益をも敗走させた。
 翌元亀二(1571)年には戦況は更に激化し、鉄砲撃ちの集団・雑賀衆、本願寺から援軍としてやってきた傭兵集団(銃撃に優れた野武士が主体)、伊勢湾水軍衆の奮戦の前に柴田勝家が負傷、殿軍を務めた氏家卜全が討ち死にする有り様だった。
 だが、最強の敵・武田信玄の病死に助けられて反撃に転じた信長は浅井・朝倉を滅亡させ、将軍・義昭を追放した余勢をかって天正元(1573)年九月に北伊勢の諸城を落とし、一揆勢の弱体化に成功した。
 しかし、奇襲を受けた林通政が討ち取られたりる等、まだまだ苦戦が続いていた。


 だが遂に四年に及んだ長い合戦にも終焉の時が来た。
 天正二(1574)年六月、大動員令を発した信長は海を九鬼嘉隆・佐治信方等の水軍衆に、陸を嫡男・織田信忠を筆頭とする織田一門衆、滝川一益、柴田勝家、佐久間信盛、羽柴秀長、森長可、蜂屋頼隆等の歴戦の勇将達に率いさせ、総勢八万もの大軍勢で長島を包囲した。
 長島一向一揆勢は各輪中に篭って頑強に抵抗したが各個撃破され、長島、屋長島、中江、篠橋、大鳥居の五個所の砦は河川を兵船で埋められ、補給路を断たれた。
 兵糧攻めにあって飢餓地獄に陥り、八月に篠橋・大鳥居が陥落し、織田方の降伏勧告に対して遂に九月二九日に降伏開城の運びとなった。



理不尽な反故 戦は終わったかに思われた。飢えと戦闘に疲れ果てた長島一向一揆勢は幽鬼の様な有り様で長島を退去すべく、川舟に乗り込んだ。
 だが弟・信興を初め、多くの部下を討たれた恨みによるものか、退去後に石山本願寺や各地の門徒に合流することを恐れたためか、織田信長一揆衆を生かしておく気は更々なかった。

 一向衆門徒の老若男女が川舟に乗り込むや、一条の狼煙が上がり、それを合図に川岸から織田鉄砲隊の一斉射撃が開始された。

 長島城開城において、信長は一刻(二時間)の間、落ち延びる門徒達を攻撃しない事を約束し、一向宗徒もこれを了承して長島城を明け渡すことに同意していた。
 つまり二時間経った上での追撃なら、信長には何の非もなかったのである。


 薩摩守は織田信長が嫌いであることを隠していないが、信長の魅力と能力は認めているつもりである。
 合理主義者の信長は残忍な手段を辞さない男だが、意味もなく残忍な振る舞いを行って新たな敵や無駄な抵抗を増やすような馬鹿では決してない事は拙サイトにて何度か述べてきた。
 故に信長が城を出た一向一揆勢に攻撃を加えたのも、彼等が大坂・石山本願寺や、三河一向一揆・加賀一向一揆等に合流することを懸念したであろうことを考えれば全く分からない話という訳ではない。
 将軍家を追放し、浅井・朝倉を滅ぼしたとはいえ、武田勝頼、上杉謙信、石山本願寺は健在で、新たに毛利輝元という敵まで抱えていた信長にとって潜在的な敵を殲滅しておきたかった気持ちも分からないでもない。
 各勢力のチームワークが取れていれば信長と云えども、いつ一戦に滅びていてもおかしくなかった、と云うのが当時信長の置かれていた状況だったのだから。

 だが、薩摩守には疑問は思い切り残る。
 本当に信長はそうするしかなかったのだろうか?


 天正二(1574)年九月二九日開城直後の信長の反故によって始まったジェノサイド戦闘で殲滅され、命を奪われた一揆方の犠牲者は五万を数えた、と云われているが、全員が戦闘要員だったわけではない。
 そもそも、伊勢長島は前述した様に、伊勢湾に注ぎこむ木曽川、揖斐川、長良川の河口付近の輪中地帯で、そこは信長・信雄父子の領国の楔とも云える場で、信長にとって厄介な土地に存在する勢力ではあったが、当初相互不介入の関係にあった。
 つまりは当時の宗教勢力の常として、自前の武力を持ち、一種の自治勢力で、世俗の権力に従わずとも逆らわず、数十にもおよぶ寺院や道場をもってその地を統治していた訳で、尾張国西南部、美濃国南部、伊勢国北部の住人はなし崩し的に領主である一向宗門徒一万に、約四万人の領民が従っていたのである。
 一向宗徒による篭城戦と信長による殲滅攻撃は容赦なくこの領民達を巻き込んだ。ある意味、反故以前のひどい話である。

 そこで思うのが、長島城を出た領民全員が石山本願寺、加賀に向かうとは限らず、地元での生業に戻すように計らえば多くの命を奪う為の弾薬や兵を消耗することも、何より後述する様な多くの身内の死という苦杯を信長は味わうこともなかったと思われる。
 まして前述した様に一向衆門徒殲滅を徹底するにしても、開城に当たっての約定を反故にせずとも、一刻の辛抱さえあれば、必要以上の抵抗も、後世の悪名も信長は被らずに済んだのでは?との疑問は今後も薩摩守の胸中に残るだろう。理不尽な反故への怒りとともに。



忌まわしき余波 理不尽な反故への報復は即座に始まった。
 飢餓に苦しみ、精も根も尽き果てた筈の、鉄砲も持たない門徒城民達が丸腰に近い身で大逆襲を敢行した。
 門徒城民達には既に死への覚悟があったのか、或いはそれ以上に反故に対する怒りが大きかったのか、「どの道殺されるならせめて一太刀織田勢に浴びせん!」との念か、鬼気迫る形相の死兵達は次々と織田勢に襲い掛った。
 思わぬ逆襲に織田勢は大混乱に陥り、乱戦の中で、織田信広(織田信長庶兄)、津田秀成(信長弟)、織田信次(信長叔父)、織田信直(信長遠縁)、織田信成(信長従兄弟)、佐治信方(信長義弟)、平手久秀(信長守役で有名な平手政秀嫡男)、といった信長の身内や股肱の重臣が次々と討死した。

 勿論石山本願寺を初めとする各地の一向宗徒達はこの反故に始まる大虐殺をもって信長の非を唱え、門徒達は互いに徹底好戦を呼びかけ合った。
 降伏しても反故にされて殺されるとなったら、最後の最後まで戦い抜き、一人でも多くの法敵を道連れにして死のう、と考えるのは宗教の為に戦う人間の多くが考えるところだろう。
 事実、石山本願寺の抵抗は天正八(1580)年、とその後六年に及び、その最後も朝廷を介した和睦・開城と云う形になり、さすがの信長も武力による完全な屈服はならなかった。
 仲介してくれたのが朝廷ということもあるのだろうけれど、このときは信長も反故や追撃は行わなかった。
 だが、門主・顕如は退去後も和睦を拒否して篭城した教如(顕如嫡男)が勅命によって退去するや信長は即座に石山本願寺を炎上させた。
 この信長をして天下統一を一〇年遅らしめた、と云われる一向宗徒最後の抵抗本拠地に後年豊臣秀吉が難攻不落の大坂城を築いたのは余りにも有名である。

 織田信長長島一向一揆達に対する反故は人材損失、兵器消耗、残存勢力の抵抗激化、後世の悪名といった悪因悪果を残したのである。
 二時間ぐらい待てば良かったのに、信長よぉ!!

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令和三(2021)年五月二〇日 最終更新