第漆頁 シャクシャインと松前藩……THE・騙まし討ち

反故にされた人物シャクシャイン
反故にした人物松前藩主
反故にされた瞬間寛文九(1669)年一〇月二三日)
反故にした背景異民族蔑視からくる騙しへの罪悪感のなさ
卑劣度
騙し度
止む無し度
反故のツケ幕末までアイヌ民族完全服従せず(日露国境問題にも関連)
不幸な対決 第壱頁で触れた阿弖流爲に続いて大和民族と北方民族=蝦夷の民との不幸な衝突がこの頁でもテーマとなる。
 もっとも、同じ「蝦夷」でも第壱頁が「蝦夷(えみし)」なのに対して、ここでは「蝦夷(えぞ)」が舞台で、アイヌ民族との対立は今現在、まさに消滅しかねない状態におかれた一民族の不幸の始まりだった。

 この頁の主人公・シャクシャインは慶長一一(1606)年生まれと推測されており、現在の日高を治めていたアイヌの一部族の首長であった。
 シャクシャインとは日本語で発音した際の仮名表記で、漢字表記では沙牟奢允、アイヌ語の発音ではサクサイヌ(saksaynu)またはサムクサイヌ(Samkusaynu)になるらしい(如何せん、薩摩守にはアイヌ語の知識が皆無なので……)。  一応、アイヌ関連をこのサイトで初めて取り上げることもあるので、本項の背景を把握する為にも、下表に日本とアイヌの交流(はっきり云って、「侵略」と同義語)の歴史をまとめてみた。

日本・アイヌ交流史略歴(シャクシャインの反乱まで)
時代年(西暦)出来事
鎌倉一三世紀 安藤太が蝦夷代官職になる。
1268年 津軽で蜂起があり、安藤氏が討たれる(蝦夷大乱)。
1295年 日持上人が樺太南西部(後の樺太本斗郡本斗町阿幸)にて日蓮宗の布教活動。
室町一五世紀 大和民族が蝦夷地南部一二箇所に勢力を張る(道南十二館(どうなんじゅうにたて))。和人土豪によるアイヌとの交易や漁場への進出が行われる。
1457年 コシャマインの戦い
1514年 蠣崎氏が他の渡党に優越する地位(上国・松前両守護職)に就く。
1550年 安東舜季、蝦夷地の国情視察を目的に蝦夷地に渡る。
戦国一六世紀末 蠣崎家、豊臣秀吉から所領安堵され「蝦夷島主」となることにより名実ともに安東氏から独立。
江戸一七世紀初期 蠣崎家、幕府からアイヌとの交易独占を認められ、松前氏と名乗り出す。
1669年 シャクシャインの戦い。


 ざっと表記してみたが、まず蝦夷地に渡海した豪族が時の権力に「進出」の許可を求め、幕府や豊臣秀吉がこれを「許可」しているが、現地の民であるアイヌ民族と公式に何らかの協定・条約の類を締結した形式は全く見られない。
 蝦夷(えみし)、俘囚(ふしゅう)と呼んだ安倍氏、清原氏、奥州藤原氏に官職や自治権を与えていたのと比べても権力というものが隣接する(自分より格下と見た)異民族をどう見ているか良く分かる。

 鎌倉時代の津軽での「蝦夷大乱」もそうだが、日本史は本頁に登場するシャクシャインとの戦いも「乱」としているが、そもそも「乱」とは「配下が上役に刃向った戦い」に付けられるものである。
 それを、同じ民族としていない、戸籍も与えていない人間達の侵略に対する報復を「乱」と呼んでいるのだから、これは立派な「中華思想」である(←勿論、皮肉で云っているのである)。

 一方で現在の青森・北海道・千島列島・サハリン(樺太)に分布していたアイヌ民族も樺太のニヴフ(ロシア語では「ギリヤーク」)・ウィルタ(アイヌ語では「オロッコ」)、遠くは元、明、清、ロシアとの交流・紛争を繰り返してい。
 たが、交易だけならまだしも、政治的権力まで及ぼそうとあっては当然衝突が起きるのは古今東西を問わぬ世の常である。
 利の絡んだ衝突は「日本対アイヌ」という単純な物ではなく、アイヌの内部でも氏族に分かれた勢力争いがあり、和人側でも安東氏・蠣崎氏が利権をめぐって暗闘を繰り返していた。


 詳細は割愛するが、本頁での事件の発端は、蠣崎氏が江戸幕府公認の下、交易独占権を勝ち取り、姓を松前と改めたことに端を発した。

 これはアイヌにとって、時には津軽にまで船を出して自由に行っていた交易が松前藩を通してのものに限られることを意味し、それは松前藩をしてアイヌを騙す交易を行わしめた。
 具体例を挙げると、交易レートはシャクシャインの戦い前夜の寛文五(1665)年には松前藩の財政難もあって、一方的に従来の「米二斗(一俵=三〇s)=干鮭一〇〇本」だったものを、「米七升(一俵=一〇.五s)=干鮭一〇〇本」と変更されアイヌ民族にとって極めて不利なものとなった。  また交易を一方的に強要する「押買」が横行し、内陸部に入っては鷹待や砂金掘りを行う和人が続出し、松前藩船は大網にて鮭の大量捕獲を行い、アイヌ民族間に生業基盤への脅威を感じさせ、和人にたいする大いなる不満を募らせた。


 交易独占と共にアイヌに対する支配権の拡大を目指す松前藩は、アイヌ人同士の勢力争いにも介入し出した。
 片方を手懐けて、もう片方を攻めさせ、漁夫の利を狙うやり方は、文字通り「夷を以て夷を制する」という古代中国のやり方と同じといえよう。

 シャクシャインが生まれたと推定される慶長一一(1606)年の松前藩はまだ正式な藩では無かった。
 シャクシャインがシベチャリ(現:新ひだか町)以南の日高地方及びそれ以東の集団であるメナシクルの首長として、現在の新冠町から白老町方面にかけての集団であるシュムクルとシベチャリ川(静内川)流域の領分及び漁業権を巡って対立した頃(遅くとも慶安元(1648)年と見られている)、松前藩主は四代目の松前高広(たかひろ)だった。
 そしてシャクシャイン松前藩が干戈を交えた寛文九(1669)年の藩主は、五代目の松前矩広(のりひろ)だったが、矩広は当時一〇歳の幼君で、実際に松前藩を動かしていたのは一族の松前泰広(やすひろ。先代・高広の弟)だった。


 シャクシャインは承応二(1653)年に先代首長であるカモクタインがシュムクル首長・オニビシとの抗争で殺害されたことにより、副首長から首長となっていた。
 オニビシはシベチャリ川上流西岸のハエ(現:日高町門別地区)を拠点としていて、松前藩はこの争いを仲裁して、両者は講和したが、寛文年間(1661〜73年)に対立が再燃し、寛文八(1668)年四月、シャクシャインがオニビシを殺害するに至った。
 報復の為、ハエは松前藩に武器の援助を申し出たが松前藩はこれを拒否した。
 ここまでは松前藩おかしな動きは見られない。


 ところが、死神の悪戯か、疫病神の気紛れか、この時ハエから松前藩に派遣された使者・ウタフが帰路に疱瘡(天然痘)に罹って急病死してしまい、後にウタフは松前藩によって毒殺されたという風説が広がった。  疱瘡の恐るべき感染力を考えれば毒殺説は些か説得力に欠ける気がするが、シャクシャインは結果としてこれを利用することとなった。

 かねてよりアイヌは和人の不当な交易、砂金採掘の圧迫を受け、高まっていた和人への不満が死者の急死を契機に爆発した。そして皮肉にも対立していたシベチャリとハエを一つにまとめたのであった。
 寛文九(一六六九)年六月、シャクシャインは蝦夷地全域のアイヌ民族へ松前藩への戦いを呼びかけ、東は白糠から西は増毛に至るまでのアイヌ民族がこれに呼応した。
 シャクシャイン松前藩との仲介で成った和睦を破った事実や、ウタフの病死を毒殺にでっち上げていたとしたら、彼は結構食わせ者と云えるのだが、それでも結果として広範囲にわたってアイヌ民族がシャクシャインの蜂起に加わった事実から、松前藩のアイヌに対するやり方はそれだけ悪辣だったのだろうと推測される。


 いずれにせよ、蜂起は各地で発生し、砂金掘り、交易船の船頭、水主、鷹待の和人が襲われ殺傷された。その数、二七七人とも、三五五人とも云われている。
 シャクシャインは松前を目指し進軍、七月末にはクンヌイ(現・山越郡長万部町)まで攻め進んだ。
 松前藩は家老・蠣崎蔵人が部隊を率いてクンヌイに急行し、急報を受けた幕府は東北諸藩(弘前、盛岡、久保田)へ松前藩に対する援軍や鉄砲・兵糧の供与を命じた。
 クンヌイでの戦闘は八月上旬頃まで続き、渡島半島のアイヌと分断されて協力が得られないことと、幕府・東北諸藩の支援を受けた松前藩の鉄砲装備充実の前に、飛び道具は弓矢しか持たないアイヌ軍は不利に転じた。

 不利を悟ったシャクシャイン松前藩との長期抗戦に備えてシブチャリ奥地に後退した。
 八月一〇日には松前泰広が松前に到着し、二一日にクンヌイの部隊と合流し、九月四日には松前藩軍を指揮して東蝦夷地へと進軍した。



理不尽な反故 松前泰広は松前藩と比較的友好関係にあったアイヌ民族を、幕府権力を背景に恫喝して恭順させ、「民族間の分断」と「シャクシャインの孤立」を謀った。
 相変わらずの「夷を以って夷を制す」である。

この戦いの結末は割と有名だが、東北諸藩の助力を得て尚、アイヌ軍を武力で鎮圧することを困難と見た松前藩シャクシャインを謀略でもって殺害した。
 つまり和睦を持ちかけ、その会談の席で彼を急襲して殺害したのであった。

 シベチャリの奥地で抗戦するシャクシャインとの戦いが長期化することを松前藩は恐れた。
 東北諸藩の力を得てさえ蜂起を鎮圧できないとなれば、幕府に「統治能力無し」と見做されて改易の口実を与えかねず、よしんば罰を免れても東北諸藩に頭が上がらなくなる可能性も出てくる。
 更にその間、交易は途絶し、経済的にも大きな打撃を受ける訳だから松前藩の焦りそのものはよく分かる。

 松前藩の胸中を知ってか知らずか、シャクシャインは和睦の申し出を一旦拒否したが、子のカンリリカの勧めもあり、結局これに応じた。
 そして寛文九(一六六九)年一〇月二三日にピポク(現:新冠町)の松前藩陣営に出向いたシャクシャインは、和睦の酒席に潜んでいた武士達によって殺害されてしまった。
 指導者を失ったアイヌ軍の抵抗は脆く、翌二四日には早くもシブチャリ砦は焼かれ、各地の蜂起も各個撃破され、戦いは一応の終息を見た。


 松前藩軍はシャクシャイン謀殺と同時にアツマ(現:厚真町)、サル(現:平取町)でも「和睦の為」として誘い出したアイヌの指導者を謀殺或いは捕縛していた。
 山川出版社の『日本史リブレット50 アイヌ民族の軌跡』(著者は浪川健治氏)によると、シャクシャイン謀殺について、「偽って和睦し誘殺するという松前藩の常套手段」としていた。
 武力で屈服せしめられなかったシャクシャインを偽って呼び寄せて不意打ちで殺すという汚いやり方に松前藩が罪悪感や卑劣さに対する後ろめたさを感じている形跡は全く見られない。
 それどころか、そのことを記した記録は、謀略を成功させたと云う「誇らしさ」に満ちてさえいた。罪悪感が無いどころではなかった………。
 アテルイに対する平安貴族の反故振りもそうだが、異民族を夷狄=「自分達と同じ人間ではない」と見做した相手に、「どんな汚い手を使っても構わない」と考える愚かさを、果たして現在の地球人も笑うことが出来るだろうか?
 残念ながら薩摩守の口から洩れるのは苦笑である。



忌まわしき余波 早い話、汚いやり方で同胞を謀殺し、暴力で服従を強要する相手に誰が心服するもんか、という話である。

 卑劣な手段でシャクシャイン達を謀殺したことへの報復を恐れたのか、それとも蜂起鎮圧に成功したことでつけ上がったのか、単に懲りていないのか、松前藩は更なる圧政でアイヌ民族に臨んだ。
 各首長達に

 一、子々孫々までの無条件の忠誠、
 二、謀反人の密告、
 三、交易船への乱暴禁止、
 四、他藩との交易禁止

 を約する起請文を提出させたが、面従腹背に近かった。
 内浦のアイコウインはシャクシャインのクンナイ突破の暁に松前に攻め込むつもりでいた曲者で、イシカリ(現:石狩)のハウカセは弘前藩との交易再開を図っていた。


 普段シャクシャインと対立状態にあった各地の首長達が共闘したのは、松前藩の政治的・経済的支配に対する抵抗があればこそで、乱獲で生活圏の資源を脅かし、自由交易禁止を禁ずる高飛車な嘘つきに喜んで従う人がいればお目にかかりたいものである。
 松前藩が反省していたとすれば、米と皮の交換比率を多少改善したぐらいであった(恐らく、人としての心からの反省ではあるまい)。

 勿論、こんな状態では治まるものも治まらず、シャクシャインの妻も、彼が率いた部族も報復を囁き続け、松前藩は戦後処理の為の出兵を余儀なくされ、それは寛文一二(1672)年まで続いた。


 図に乗った搾取を続ける松前藩だったが、その本質は侵略に他ならず、最大のアイヌ民族蜂起と見られたシャクシャインの戦いから一二〇年後の寛政元(1789)年には請負商人によるアイヌ首長毒殺からクナシリ・メナシの戦いが起こった。
 一方で一八世紀半ばには、ロシア人がカムチャッカ半島から千島列島を南下してきたがこれを幕府に秘した松前藩は、国防の必要性から寛政一一(1799)年に、九代藩主・松前章廣は蝦夷地の大半を取り上げられるという憂き目を見た(後に復位)。
 実際、この八年後にロシア軍による択捉島襲撃事件(文化露寇)が起きている。択捉島は日本列島において、北海道、本州、九州、四国に次ぐ広さを誇り、暴動の起きた国後島は現在北方四島を実効支配しているロシアが軍事基地を置いているほど、現代においても要衝と云える島である。
 歴史に「if」は禁物だが、一七世紀初頭より歴代松前藩主達が正当な交易と軍事的保護でもってアイヌ民族と良好な関係を築いていれば、ロシア正教への改宗を強要するロシアに対抗する日本・アイヌ(を含むその他の民族)との連携は今の日本領土を確固たるものとしていた可能性が高いのでは?と薩摩守は考える。


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和三(2021)年五月二〇日 最終更新