第捌頁 松岡洋右とスターリン……どっちもどっちの反故野郎ども

反故にされた人物松岡洋右(が締結した日ソ中立条約)
反故にした人物ヨシフ・スターリン
反故にされた瞬間昭和二〇(1945)年八月八日
反故にした背景極度且つ重度の猜疑心
卑劣度
騙し度
止む無し度
反故のツケ未だ締結されない日露平和条約と未だ解決されない領土問題


不幸な対決 昭和一四(1939)年五月〜九月上旬にかけて、満州国西北部・ハイラルから南西約二〇〇キロに位置する草原・ノモンハンにて国境付近一帯をめぐって大日本帝国陸軍関東軍とソ連・モンゴル連合軍との間で大規模な戦闘が行われ、ソ連軍の戦車部隊に翻弄された関東軍は大敗北を喫した(ノモンハン事件)。
 この時の戦闘が全面戦争に発展しなかったのは、日本側では参謀本部の停戦命令が、ソ連側では国境堅持を旨としていたためであった。
 この戦闘中、ソ連はナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を締結し、日独伊三国同盟締結を海軍に要請していた陸軍は面子丸潰れ状態にあった(大雑把な背景だが、明治維新以来、陸軍はドイツに習い、海軍はイギリスに習っていて、前者には親独、後者には親英の空気が存在していた)。

 ノモンハン停戦直前にドイツ軍はポーランドに侵入。時を同じくしてソ連軍もポーランドに攻め入った。第二次世界大戦の勃発である。
 当初、日本はヨーロッパでの戦いに関わらないつもりであったが、ドイツの快進撃を見て、欧州で強勢を誇るドイツと手を結ぶことで米英仏に対抗し、日中戦争への介入に対する牽制にせんとの構想が浮かんだ。
 これが日独伊三国同盟に繋がるのは周知だが、もっと大きな構想を持っていた男がいた。

 その男の名は松岡洋右 (まつおかようすけ)。時の外務大臣であり、昭和初期の歴史において薩摩守が最も毛嫌いする人物である。
 こいつに関しては非難したいことが腐るほどあるがその多くは割愛させて頂く。取り敢えずこの時点では「反故にした側」から外れるので。
 但し、後述するようにこいつにも約束を反故にする気は充分過ぎる程にあったことは記憶に留めておいて頂きたい。


 ここで本頁の、一方の主役である松岡洋右についてその略歴を示しておきたい。

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  • 明治一三(1880)年 山口県熊毛郡(現・光市)、廻船問屋の四男として生まれた。

  • 一一歳の時、父親の事業に失敗・破産から、渡米して成功を収めていたこと親戚を頼って一四歳で渡米し、オレゴン州ポートランド、カリフォルニア州オークランド等に学び、オレゴン大学法学部を卒業。

  • オレゴン大学での猛勉(勉強のみならず、様々の物を学び、その中にはコカインがあったとの説もある)、卒業後も滞米して様々の職種で働き、母親の健康状態悪化のために理由に、日英同盟締結と同年の明治三五(1902)年に九年振りに帰国すると、駿河台の明治法律学校(明治大学の前身)に学んだが、独学で外交官試験を目指すことを決意し、帰国の二年で外交官試験に首席で合格し、外務省に入省した(この辺り、留学・滞米経験は伊達ではない)。

  • 領事官補として中華民国上海、その後関東都督府などに赴任し、短期間ながらロシア、アメリカ勤務の後、寺内内閣(外務大臣は後藤新平)のとき総理大臣秘書官兼外務書記官として両大臣をサポート、特にシベリア出兵に深く関与した。

  • 大正八(1919)年に第一次世界大戦終結に伴うパリ講和会議に随員(報道係主任)として派遣された松岡は日本政府のスポークスマンとして英会話能力・弁論能力を発揮し、同時に彼と同じ随員であった近衛文麿とも出会った。

  • 帰国後は総領事として再び中華民国勤務となるが、大正一〇(1921)年、外務省を退官し、上海時代の友誼で南満州鉄道(満鉄)に理事として着任、昭和二(1927)年副総裁となった。

  • 昭和五年(1930)年に満鉄を退職して、同年二月の衆議院議員総選挙で山口二区から政友会所属で立候補し、当選。議会内では、外務大臣幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)の対米英協調・対中内政不干渉方針を厳しく批判し、国民から喝采を浴びていた。
     この頃、イタリアを訪問時に、独裁者・ムッソリーニと会見し、それを契機に親ファシズム論調をとり始め、「ローマ進軍ならぬ、東京進軍を」などと唱えた。

  • 昭和六(1931)年に満州事変が勃発し、翌昭和七(1932)年九月にリットン調査団によって国際連盟にもたらされた報告書(対日勧告案)に対して採択するか否かのジュネーブ特別総会が開催。
     報告書は満州における日本に特殊権益の存在を認めるつつも、満州を満州国として認めないとし、「満州を国際管理下に置く事」を提案していた。
     大日本帝国政府は報告書正式提出の直前の九月一五日に満州国を正式承認しており、その状況下で松岡は同総会に日本首席全権として派遣された。勿論類まれな英語での弁舌を期待されての人選である。

     この時、松岡が得意の英語弁舌能力を一時間二〇分に渡って駆使(原稿=カンペ無し!)したのは有名である。松岡「欧米諸国は二〇世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」との趣旨で、この演説は日本国内では大喝采を浴び、逆効果をもたらしたキリスト教圏の欧米国家においても彼の演説能力を絶賛する者は決して少なくなかった。ちなみに満州国樹立が松岡が主張したように世界に人々に正当なものとして理解されたとの事実は、勿論、ない(笑)。

     日本政府は既にリットン報告書が採択された場合は代表を引き揚げることを採択の三日前に決定しており、昭和八(1933)年二月二四日、同報告書は賛成四二票、反対一票(日本)、棄権一票(シャム=現タイ)、投票不参加一国(チリ)の圧倒的多数で可決された。
     松岡は予め用意の宣言書を朗読後、日本語で「さいなら!」と叫んで会場を退場した。ちなみに宣言書そのものには国際連盟脱退を示唆する文言は含まれていなかったが、三月八日に日本政府は脱退を決定、同二七日にこれを正式に連盟に通告した。
     前述したように、「日本の主張が認められないならば国際聯盟脱退」との考えは松岡の独断ではなく、日本外務省の最終方針であり、松岡自身は脱退を極力避ける方針で臨んだとも云われている。

  • 帰国した松岡「云うべきことを云ってのけた」「国民の溜飲を下げさせた」初めての外交官として、国民には「ジュネーブの英雄」として、凱旋将軍のように大歓迎された。
     これは日露戦争後のポーツマス講和会議から帰国した全権・小村寿太郎が大ブーイングで迎えられたことと好対照だが、どちらが真に日本の為になった現実路線を踏襲していたかを考えると何とも皮肉である。

     もっとも松岡自身は「日本の立場を理解させることが叶わなかったのだから自分は敗北者だ。国民に陳謝する」との意のコメントを出し、「国民精神作興、昭和維新」などを唱え出した。

  • 昭和八(1933)年一二月に政友会を離党し、「政党解消連盟」を結成して議員辞職した。その後約一年間全国遊説を行い、政党解消連盟の会員は二〇〇万人を数えたといわれるが、昭和一〇年(1935)年八月に再び満鉄に入り、昭和一四(1939)年二月まで総裁を務めた。ノモンハン事件の三ヶ月前のことである

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 略歴を見ても松岡洋右が国際社会の変遷の中に立ち、活躍を続け、多くの政治家・軍人の中にあって海外をよく知る人物であり得たことは想像に難くない。
 その松岡なればこそ持ち得た前述の「大きな構想」とは、日独伊三国同盟を上回る日ソ独伊四国同盟構想だった。米英仏に対抗する為、米にはソ、英仏には独伊、を対抗させ、ABCD包囲陣を撃破し、日本は東亜に覇を唱えんとの構想である。
 各国の力関係を見ればそれなりに松岡の構想は計算されている。まあ、力関係だけの計算で、それが実を伴っているかどうかの計算は完全な的外れだった訳だが……。

 昭和一五年(1940)年七月二二日、第二次近衛内閣において松岡は外務大臣に就任。
 内閣成立直前の七月一九日、近衛が松岡、陸海軍大臣予定者の東條英機陸軍中将、吉田善吾海軍中将を別宅に招いて行った荻窪会談で、松岡は外交における自らのリーダーシップの確保を強く要求し、近衛もこれを了承したと云う。
 二〇年近く遠ざかっていた外務省にトップとして復帰した松岡は官僚主導の外交を排除する為、赴任したばかりの重光葵(駐イギリス特命全権大使)以外の主要な在外外交官四〇数名を更迭して代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命し、「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命する等、「松岡人事」と呼ばれた辣腕人事を敢行した。
 その強引さには駐ソ連大使を更迭された東郷茂徳等が辞表提出を拒否して抵抗する程だった。

 同年九月二七日についに日独伊三国同盟は成立した。
 この時、ドイツ総統府でヒトラーと会談にした松岡は大東亜共栄圏の完成の為、北方の脅威であるソ連との間に何らかの了解に達することでソ連を中立化する為、既にソ連と不可侵条約を結んでいたドイツの仲介で日本―ソ連―独・伊とユーラシア大陸を横断する枢軸国の勢力集団を完成させ、米英仏を中心連合国との勢力均衡を通じて日本の安全保障ひいては世界平和・安定に寄与させん、との構想を持っていた。

 故に松岡の活躍(暗躍?)はここからが本番で、翌昭和一六年(1941)年三月一三日、同盟成立慶祝を名目として独伊を歴訪。
 アドルフ・ヒトラーとベニート・ムッソリーニの両首脳と首脳会談を行い、大歓迎を受けた。
 その帰途、松岡はモスクワに立ち寄り、四月一三日には日ソ中立条約が電撃的に調印された。
 勿論締結の相手とはソビエト連邦の時の独裁者、ヨシフ・スターリンに他ならない。
 松岡がシベリア鉄道で帰京する際に、スターリン自らが駅頭で見送り、抱擁しあった。スターリンの性格を考えても、何だかんだ云って当時の欧米がアジア諸国を格下に見ていた風潮からもこれは極めて異例且つ特筆に値する出来事だった。
 薩摩守の大嫌いな松岡洋右ではあるが、弁舌のみならず会談において相手を喜ばす話術はそれほど優れていたのだろう。それはそれで認めない訳にはいかない(←勿論、感情的には不本意)。

 だが、この日ソ中立条約が土壇場で、それも「よりによって…」と云いたくなるタイミングで裏切られたのは周知の通りである。
 だが、スターリンによって反故にされたこの条約、締結した松岡自身も、然程遵守することを考えてはいなかったのであった………。



理不尽な反故 中国侵略を続ける日本に対し、米英はオランダとともに経済制裁に走ったが、その資源不足を補うため、陸軍は既にフランスがドイツに降伏していた隙を狙うように北部仏印進駐を敢行し、これが後々日米開戦へと繋がるが、まだこの時点では戦線不拡大・戦争回避の為の努力も為されていた。
 松岡が独伊ソを外遊している間にも、アメリカ国務長官コーデル・ハルは駐アメリカ大使野村吉三郎に、日本軍の中国大陸からの段階的な撤兵、日独伊三国同盟の事実上の形骸化することを要請し、それと引き換えに、「アメリカ側の満州国の事実上の承認」や、「日本の南方における平和的資源確保にアメリカが協力すること」が盛り込まれていた(いわゆる「日米諒解案」)。
 この諒解案そのものは日米交渉開始のため叩き台に過ぎなかったと云われるているが、取り敢えずは満洲国と云う既得権益を認めようとするアメリカの譲歩、と踏んだ日本国内では陸軍までもが諸手を挙げて賛成し、本来ならここで日米開戦が回避されていた可能性は充分にあった


 しかし四月二二日に意気揚々と帰国した松岡洋右はこの案に猛反対した。
 偏に「自らが心血を注いで成立させた日独伊三国同盟が有名無実化させられること」、「外交交渉が自分の不在の間に頭越しで進められていたこと」をに対する自尊心が許からの憤慨であった。
 つまり、この男は自らの「意地」のために回避出来る筈の戦争を不可避の物とするために尽力したのであった!
 陸軍さえ譲歩しかけた交渉をプライドの為にぶっ壊しに走ったこの男の罪状は極めて甚大である!!


 一方で自らの構想を堅持しようとした松岡を嘲笑うかのように独裁者どもは反故に走り出した
 昭和一六(1941)年六月二二日に対英戦に苦戦していたヒトラーは独ソ不可侵条約を反故にしてソ連に侵入(独ソ戦争)。つまりは松岡が手本とした人物の手によって松岡が手を組んだ人物との約束が壊されたのである。
 これは同時に松岡のユーラシア枢軸構想を基盤から瓦解させたこととなった。

 そのショックが松岡にあったか否かは不明だが、このとき松岡は締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦することを閣内で主張し、また対米交渉では強硬な提案することを主張し、外交施策も多いに混乱させた。



 呆れた話である。



 アホである。



 屑である。



 ボケ・カス・スカタンのスットコドッコイである。



 ヒトラー・スターリンといった歴史に悪名を残す猜疑心の塊的独裁者を同盟相手に選び、その同盟締結の功労に酔い痴れて平和的交渉を壊しにかかるだけでも愚かなのに、そこまで日本の為、世界の為、と信じて堅持しようとした自分の構想が内部瓦解を起こすや否や、まだ日本に対する敵意も向けられていないのに自分達の方から盟約を反故にすることを述べ出したのだから、「気は確かか?」と云いたくなる。

 さしもの近衛文麿も松岡が日米交渉開始に支障となると判断し、外交官時代からの旧知である松岡に外相辞任を迫ったが、松岡はこれを拒否。近衛は七月一六日内閣総辞職し、松岡を外相から外した上で第三次近衛内閣を発足させた。

 そりゃそうだろう。

 素で考えて、こんなに意見を二転三転させ、約束を平気で破ろうとする人間と一緒に仕事などしたくないものである。

 一応、松岡の意見が全く容れられなかった訳ではないことも触れておこう。
 この月、独ソ戦争の戦況如何ではシベリアに攻め入ることも視野に入れられ、関東軍は演習と称して三五万の大軍を満洲に増派して、七〇万人もの体制を整えた(いわゆる関東特殊演習関特演))。
 だが、幸か不幸か独ソ戦争はソ連優勢に転じ、対ソ戦は見送られた。
 これがリヒャルト・ゾルゲという有名なスパイによってソ連に知らされ、ソ連が対独戦に全力を注ぎ出したのは有名である(ちなみに、旧ソ連及び現ロシアはこの関特演を日本軍の敵対行為と見做し、日ソ中立条約を有効期間中に破棄したことを不当ではない、としている)。

 一方、歴史の結果として、松岡を外して尚、日米開戦は避けられなかった。
 対米強硬論を唱えていた松岡は数十年ぶりに米国の留学先を訪れた際に

「余は(←偉そうだな、お前)かつて人生の発育期をこの地で過ごし、生涯忘れべからざる愛着の情を持つに至った。」

 と発言しているように、決してアメリカ合衆国およびアメリカ人が嫌いだった訳ではない。個人的な友人もいたことだろう(一応、「片手落ち」を戒める拙房の主旨上、このことは無視したくない)。
 日米開戦の決定を知った松岡は、真珠湾攻撃の二日前(昭和一六(1941)年一二月六日)、「三国同盟は僕一生の不覚であった」「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」と無念の想いを周囲に漏らし、涙を流したと云う。

 その割には開戦二日目に徳富蘇峰に送った書簡では奇襲成功に対して「欣喜雀躍」と記し、同時に開戦に至ったのはアメリカ人をよく理解出来なかった日本政府の外交上の失敗であることを指摘し、アメリカをよく知る自分が第二次近衛内閣にて外交を任されなかったことへの批判を記しているから、前述した悲しみの台詞の中、どこまで申し訳なく思い、どこまでアメリカとの開戦を悲しんでいたかは怪しい(皆無ではないだろうけれど)。
 せめて自らの外交の失敗を認めているのはせめてもの救いか(もっとも戦後の東京国際裁判では自分及び日本の非は一切認めなかったのだが)。


 昭和一六(1941)年の真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争は、戦前に海軍大将・山本五十六(やまもといそろく)が「一年は暴れて見せる」と述懐したように軍事的快進撃を続けたが、早くも半年後の昭和一七(1942)年六月四日にミッドウェー海戦で空母四隻を沈められる惨敗を喫し、制海権・制空権をアメリカに奪われた。
 既に日本軍の暗号電文は米軍に解読されており、備蓄していた資源も限界に達し、物量、情報、戦略のいずれにおいても米英に勝てる要素は皆無となっていた。
 欧州戦線でも冬将軍の助けを得たソ連軍が(ナチの作戦失敗にも助けられ)反撃に転じ、イタリアは緒戦から頼むに足りぬほど弱勢で、日本及び枢軸国の敗色は既に濃厚となっていた。

 現代から思うと意外だが、勝ち目のない戦争終結の為に、時の日本政府が頼りとしていたのはソビエト連邦だった。
 国際連盟を脱退し、米英蘭中と交戦中だった日本にとって、先進国で国交があったのは同盟国のドイツ、イタリア、そして中立条約を結んでいたソ連のみで、第二次世界大戦中も東京府にはソビエト大使館が存在し、モスクワにも日本大使館が存在した。
 独ソが交戦中とはいえ、対独、対ソの条約はそれぞれ別個のもので、日本が独ソそれぞれと戦わなければならない理由はなかった。
 だが、日米開戦から一ヶ月も経たない昭和一七(1941)年一月一日、日独伊と戦う連合国二六ヶ国は「日独と単独で講和しない」との共同宣言に調印していた。

 もとより同盟国はおろか部下さえも信用しないスターリンは、勝利の色が濃厚となると戦後を見据え始めた。
 その目標は、「日露戦争で失った旧ロシア帝国の権益奪還」と「戦後、社会主義陣営のリーダーとして有利な国際的地位を築くこと」だった。
 昭和一八(1943)年にムッソリーニを幽閉(後にヒトラーの手によって逃亡)して権力の座から引きずり下ろしたイタリア政府は九月八日に連合国と休戦し、後にはこれに加わった。翌年のノルマンディー上陸ローマ入城、と戦況が連合国有利に進む中、ソ連軍は一〇月一一日にドイツとの国境(ポーランド東北部)を突破した。
 翌昭和二〇(1945)年二月四日、クリミア半島の南端、黒海を臨むソ連唯一のリゾート地・ヤルタで米大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、ソ連首相スターリンによる首脳会談(ヤルタ会談)が開かれ、第二次世界大戦後の処理についての協定が結ばれた(ヤルタ協定)。

 この会談並びに協定において戦後の米英仏ソ四ヶ国によるドイツ分割統治やポーランドの国境策定、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国の処遇などの東欧諸国の戦後処理を合意された。
 同時にアメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定極東密約とも云う)も締結し、ドイツ敗戦から九〇日後にソ連が対日参戦および千島列島、樺太などの日本領土の処遇も決定した(旧ソ連および現ロシアはこの協定をもって北方領土問題を「解決済み」とし、当事国抜きに勝手に決められたこの協定は今尚世界中に紛争の種を為している)。


 ルーズベルトの勧めで破棄が決められた日ソ中立条約だが、条約内容において有効期間は「五年間」と決められており、松岡スターリンが昭和一六(1941)年一月一三日に、同年四月二五日発効として調印した同条約は昭和二一(1946)年四月二五日まで有効の筈だった。
 また同条約は有効期間が切れる一年前までに破棄されない限り、自動的に五年間有効期間が延長される、と決められていた。つまりドイツが昭和二一(1946)年一月二五日以前に降伏した場合、ソ連の対日参戦は条約反故となるのは条文内容からも明らかだった。
 条約反故を平気な顔して唆したルーズベルトもルーズベルトなら、それを平然と受け入れたスターリンもスターリンであった!

 既に締結していた条約を優先する、というルールに則るなら、スターリンは「日ソ中立条約を延長はしないが、1946年4月25日まで対日参戦は条約違反となり、出来ない。」とするべきだったが、スターリンが「樺太、千島列島及び戦後共産主義国家群リーダーの立場」と、「日本との信義」のどちらを重んじる人間であったかは歴史の少しでも振り替えれば明らかだろう。
 それが為に日露両国民が如何に苦労することになるかを心使うようなイキモノではないのである、彼奴は。


 ヤルタ会談から二ヶ月後の四月五日にソ連は日本政府に対し、日ソ中立条約を延長しないことを通達した。
 そして二五日後の四月三〇日、アドルフ・ヒトラーは自殺し、ソ連軍の攻撃を受けて五月二日にベルリンは陥落し、同月八日ドイツは連合国に無条件降伏した。
 ソ連による対日参戦はほぼヤルタ協定通りとなる九二日後の八月八日に為された。
 完全な奇襲で、ソビエト政府のモロトフ外相から宣戦布告を伝えられた佐藤尚武・駐ソ日本大使は、「日本政府への連絡は自由である。」と云われたが、日本へ電線は断ち切られていた、という念の入り様であった。



忌まわしき余波 対日参戦において、ソビエト連邦は日本政府に対して宣戦布告を行いはした。それまで日本政府は形勢不利となった戦争終結の仲介をソ連に依頼しようとしていたぐらいだったから、この条約反故並びに宣戦布告に日本政府は周章狼狽した。

 ソ連参戦の二日前には広島に原子爆弾が投下され、ソ連参戦の翌日に長崎に原子爆弾が投下され、翌一〇日にはポツダム宣言受諾が御前会議にて協議された。
 紆余曲折を経ること四日、ようやくにして受諾が決定され、一五日正午の玉音放送にて国民にポツダム宣言受諾による敗戦と終戦が伝えられた。
 だが、ソ連軍が侵攻した各方面では終戦がなった筈の八月一五日以降も凄惨を極める悲劇が続発した。


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 話が逸れるが、第二次世界大戦おいて、ソビエト連邦は世界一多くの犠牲者を自国民の中から出してしまった(軍人一三〇〇万人、一般市民七〇〇万人)。
 日本のそれと比べると一〇倍近くに及ぶ(日本は軍人犠牲者二一〇万人、一般市民犠牲者三八万人)。
 こんなに多くの犠牲者を出してしまった要因はヨシフ・スターリンの猜疑心に帰結する。

 トロッキー・カーメネフ・ジノヴィエフ・ブハーリンといった政敵を葬り続けて独裁者となったスターリンは自らの為してきた悪行を知る故に、自らもまた命を狙われる身であることを必要以上に自覚していた。
 それゆえに彼は配下に対しても猜疑の目を向け、将来的に自らを倒しかねないと見做した有能軍人を次々に粛清した。
 云うまでもなくこの愚行はソ連に人的損失を招いた。
 独ソ戦争序盤のドイツ軍の奇襲(バルバロッサ作戦)の前に有能な指揮官を欠いたソ連軍は開戦から四ヶ月少しでモスクワ近郊までドイツ軍の侵入を許す体たらくだった。

 結局「ナポレオン二の舞」と云われた冬将軍の到来、ナチス側の電撃作戦の失敗、スターリンの名を冠した街・スターリングラード死守を命じられたニキータ・セルゲービッチ・フルシチョフの尽力でドイツ軍は敗走した。

 つまりはロシア特有の厳寒が天然の鎧となった訳だが、本来人口・物資でドイツを凌駕していたソ連が厳寒を利用しての焦土作戦に出なければならなかったのはそれだけ有能な指揮官が不足していたのである。
 焦土作戦とは攻められた側が責められると想定される地域の土地ごと作物を焼き、建物を破壊し、焦土と化すことで敵軍の補給を困難とする作戦で、極めて有効な作戦ながら、戦後に大きな痛手を残す愚策でもある。
 『三国志』で益州の劉璋(りゅうしょう)が劉備の侵攻を受けて部下に焦土作戦を進言されたが、「国民を犠牲にして戦えるか!」として退けたのは、一般に彼を暗愚とする人々の間でも高く評価されている。
 それだけ焦土作戦とは愚策なのである。

 スターリンの粛清による人材不足でソ連国民が受けた被害は計り知れない。

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 話を戻すが、優秀な人材を欠いた当時のソ連軍の内部事情はソ連軍が攻勢に転じてなお暗い影を落とした。
 要するに、「優秀な人材を欠いていた。」と云うことは、「能力」的に優れた人材だけでなく、「人格」的に優れた人材を欠いていたことも意味していた。
 日露戦争時には、どんなに激しく撃ち合っても、日没と共に両軍戦争を停止し、凄惨を極めた旅順二〇三高地においても、夜間に日本軍が戦死した兵士の遺体を回収に来てもロシア軍はこれに一切手出しをしなかった。
 日本側でも捕虜虐待はおろか、乃木大将はステッセル将軍に帯剣を許し、島根県那賀郡都濃村和木(現:江津市和木町)でも日本海海戦に破れて沿岸に漂着したロシア海軍兵士を地元中学校の先生たちを中心に救助に尽力し、手厚く保護し、報告を受けた浜田連隊に対してロシア兵は大人しく捕虜となるなど、悲惨な話はついぞ聞かない(イルティッシュ号投降事件)。
 偏に日露両国において軍人としても、人としても優れた者達が指揮していればこそである。
 そして第二次世界大戦末期のソ連軍にはそういった意味でも優れた人物が欠けていた。


 独ソ不可侵条約を反故にされた際のバルバッロサ作戦の欝憤を晴らすかのように、「8月の嵐作戦」と名付けた作戦に基づいてソ連軍は満洲国に侵攻した。
 関東軍は主力部隊を南方戦線へ派遣した結果、弱体化していたため総崩れとなり、組織的な抵抗もできないままに敗退した。
 直後に能力的にも人物的にも優れた人物を欠き、構成員の多くが流刑囚であったソ連軍の蛮行が始まった。
 逃げ遅れた日本人開拓民の多くが混乱にさらされ、満州・南樺太・朝鮮半島に住む日本人女性は集団的に強姦され(ソ連軍による組織的強姦)、満州から引き上げる日本人女性の一部は中華民国国民党軍や中国共産党軍に拉致され慰安婦にされる、親子が生き別れになるケースも多く、戦後も残留孤児問題として残った。

 尚、乱暴者の集団と化した兵隊による集団強姦の悲劇は古今東西、人種・政治体制を問わず悲惨の一言では云い表せない。
 当時のソ連兵による強姦はドイツでも一〇万人の女性が凌辱され、一万人が自殺したといわれ、満州から引き揚げた女性の中にも望まぬ妊娠をしたために、故国日本を目にしたのを皮切りに何人もの女性が引き上げ船から海中に身投げしたと伝えられているし、日本軍の満州、南京、平頂山での強姦の数々は日本人として、人間として、男として、耳目を覆いたくなる。
 現代でも、米軍内の一部の下衆どもは沖縄でも韓国でも米国内でも強姦で捕まる奴が後を絶たないし、被害をこうむることの多かった韓国人とて、ベトナム戦争に従軍した際に、現地で強姦に走った下衆どもが多数存在した。

 そもそも性欲は人間の本能に基づいているので、集団で悪事に走る場でにおいては容易く理性は瓦解する。
 日本でも中国でも欧州でも少し歴史を紐解けば戦場にて火事場泥棒の如く、戦地の住民である女性に襲いかかるシーンは枚挙に暇がない。
 それでも、人間的にまともな人間に率いられた軍隊では強姦魔となるのは一部に留まる。『三国志』では凡将の代表のように云われる袁紹(えんしょう)でさえ略奪に走った兵士に断固たる処置を取っているし、南京大虐殺の折に松井石根(まついいわね)大将自身は朝香宮親王とともに略奪・暴行に走った部下を窘めている(この時開き直った中島今朝吾(なかじまけさご)を薩摩守は命ある限り、鬼畜と罵り続けてやる)。
 だが、ソ連軍による集団強姦はに歯止めは無かった。
 逆に強姦を止めに尽力したロシア人将校を知る人がいたら、ロシア人の名誉の為にも、人間の良心の為にも、薩摩守にご一報願いたい。
 ロシア人とて日露戦争当時の将軍のような人物に率いられていたらここまでひどい蛮行には走らなかっただろうから。


 いずれにしても国民を見捨てて逃げようとした満州国皇帝溥儀も捕まる状態で、日本軍民の約六〇万人が捕虜として捕らえられ、シベリアに抑留され、過酷な環境で重労働に従事させられた抑留民は六万人を超える死者を出した(シベリア抑留)。

 八月一五日に至って各地で戦闘中の日本軍に対して、武装解除を進めるための停戦連絡機が発せられたが、少しでも多くの日本領土の略奪を画策していたスターリンの命令により、ソ連軍は八月末に至るまで南樺太、千島、満州国への攻撃を継続した。
 一週間後の二二日には樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」、「第二新興丸」、「泰東丸」がソ連潜水艦の雷撃・砲撃を受け大破、沈没する等、日本軍への攻撃が終わっていなかったことを端的に示す事例である(←さすがにこの蛮行には降伏後の大日本帝国軍も抵抗し、当然ながらその抵抗は非とされていない)。

 九月二日に東京湾に停泊したミズーリ戦艦の艦上にてイギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリア、フランスやオランダなどの連合諸国一七カ国の代表団の臨席の元、外務大臣・重光葵(しげみつあおい)と、大本営全権・梅津美治郎(うめづよしじろう)参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、第二次世界大戦は終結した。

 戦後、松岡洋右はA級戦犯容疑者としGHQ命令に逮捕され(この時、何を勘違いしたのか、周囲に「俺もいよいよ男になった」と力強く語ったらしい)、結核を患った身で出廷した東京裁判公判法廷(病状悪化により一度のみの出席)では、罪状認否においてジュネーブ総会同様にお得意の英語で無罪を主張した。
 もっとも、「戦勝国からの一方的な裁き」への憤りや、「国体護持や他の被告達の為にもそうそう非を認める訳にはいかない」との事情から、松岡に限らず、罪状認否において全被告が無罪を主張したことは触れておきたい。

 ともあれ、松岡は他の戦犯同様、天皇や国民に申し訳ないという気持ちを幾分かは持ちつつも、国際社会の場、取り分け外国人の前では自らの過失・非を認めることを頑として拒否したのであった。
 昭和二一(1946)年六月二七日、駐留アメリカ軍病院から転院を許された東大病院にて松岡洋右病死、享年六六歳。
 後に彼は刑死したA級戦犯同様、靖国神社に合祀されたが、戦死でも刑死でもない彼が合祀されたのは偏に「異国人との戦いの内に死した。」と見做されたからだろう。
 世界中多くの人々の運命を破滅に追いやり、自身、その非を認めていたコカ中が護国の神の一柱とはチャンチャラ可笑しい。

 一方のヨシフ・スターリン第二次世界大戦で自国軍を暴れさせた東欧、朝鮮半島北部、中国大陸に介入し、多くの国々を共産化させて、米国の予想を遙かに上回る早さで原水爆の開発を成功させ、大国ソビエト連邦の独裁者として君臨し続けた。
 だが、朝鮮戦争末期の昭和二八(1953)年三月五日、享年七三歳でこの世を辞した。
 公式発表による死因は脳内出血だが、その死にはフルシチョフ、マレンコフ、モロトフ、ベリヤの四人の側近の暗躍が実しやかに囁かれ、現代ではこの四人による暗殺または治療妨害であることがかなり濃厚とされている。
 事の真偽は別項を立てて論じる日もあるかも知れないが、確かな事実としてスターリンの死を共産党幹部達は喜び、朝鮮戦争はその四ヶ月後に終結し、三年後に、彼を支えて来た筈のフルシチョフによって史上有名なスターリン批判が為された。


 民族間に充分な理解の無かった近代前に勃発した戦争の歴史は、その責任を一個人に押し付けるのは適切ではなかろう。
 しかしながら、上に立つ奴次第では回避出来た戦争があったり、戦争の被害が幾分なりとも軽微であったり、未来に残す遺恨を軽減できたケースは幾らでも見当たる。

 一応は病死だが、戦犯として裁判係争中に結核に倒れた松岡の死に様も、まさに「疑心暗鬼を生じた」感のある、部下による暗殺が濃厚なスターリンの死に様もロクなものではない。
 否、少なくとも薩摩守一人だけでも決まり事を反故にすることにかけてはどっちもどっちの奴等に翻弄された歴史の悲劇を訴えることで、いついつまでも日露両国民のみならず世界人類全員が過去の為政者の負の遺産に引き摺り回されず、第二、第三の松岡洋右ヨシフ・スターリンに権利を握らせないことを訴え続けよう。
 少なくとも、現日本人、現ロシア人、現地球人がこいつら二人に振り回されなければならない謂われは微塵もない。一日も早い日露平和条約の締結と領土問題の解決を祈りたい。


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令和三(2021)年五月二〇日 最終更新