第玖頁 満州開拓民と南満州鉄道……置き去りの罪は深し

反故にされた人物満州開拓団
反故にした人物南満州鉄道(とその背後にいる関東軍お偉方)
反故にされた瞬間昭和二〇(1945)年八月九日
反故にした背景我が身かわいさと開拓民保護責任に対する無責任
卑劣度
騙し度
止む無し度
反故のツケ中国残留日本人孤児問題
不幸な対決 開拓移民−それは未開の地を「新天地」と見定めて、農耕を主とした産業を興し、一旗揚げることを目的とした個人・家族が故郷を離れて外国に移住した民を指す。

 第一次世界大戦後の世界大恐慌関東大震災の追い打ち、シベリア出兵失敗による負債から低迷する経済活性の活路を日本の二倍以上の面積を持つ満洲の大地に求めた時の政府は公然と「満蒙は日本の生命線」と云い放っていた。
 そして、満州事変を経て満州に出兵し、これを占拠した関東軍は清朝のラストエンペラー愛新覚羅溥儀を執政(後に皇帝)に迎えて傀儡政権による国家・満州帝国を建国した。
 その「生命線」と見立てた地に日本経済を支える産業構築の為に、国内で貧困に喘ぐ人々を入植させた国策が満蒙開拓移民政策であった。
 最も多い移民を派した県は長野県で、三万一二六四人を移住させ、最終的には二二万二五五人が、義勇隊員を合わせると三二万八八二人が渡満した。


 満州事変から六年後の昭和一一(1936)年に広田弘毅内閣にて「満州開拓移民推進計画」が決議された。
 予定では二〇年後の昭和三一(1956)年までに五〇〇万人の日本人を移住させ、移民住居一〇〇万戸とすることが計画されていた(勿論日中戦争の失敗と満州帝国の滅亡で実現しなかった)。
 日本政府は、昭和一三(1938)年から昭和一七(1942)年の間には二〇万人の農業青年を、昭和一一(1936)年には二万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいた。この移住は、日本軍が日本海及び黄海の制空権・制海権を失った段階で停止した。
 一方でそれ以前に北米アメリカ、ハワイ、南米ブラジルや南米諸国への日本人移民の入植移民数に段階的制限が加えられるようになっていた。
 勿論、日米関係の悪化が反映されてのことで、カリフォルニア移民は手に持てるだけの荷物しか所持を許されない状態で強制移住を命じられる有様だった。


 そんな背景にあって満州開拓移民は農業従事者を中心に、村落や集落などの地縁関係に重点をおいた移民団が日本の各地で結成された。
 その第一陣は昭和七(1932)年に予備役中佐に引率された在郷軍人で組織された「満州開拓武装移民団」で小銃、機関銃、迫撃砲などを携行した試験移民だった。
 火器を携行した理由は云わずもがなだろう。
 「右手に鍬、左手に銃」との合言葉で行われた第一陣移民は、彼等を歓迎しない現地人や彼等の政策に反対する者に武器を向ける(自分達だけに正当と云い張れる)必要性があったのである。

 何てことはない。

 「移民」の内実が現地人の「報復」を警戒しなければいけない「侵略」であったことを、為政者達が一番理解していたのである。
 勿論報復されるような身の覚えがあるからであり、それは入植地の確保の為に「匪情悪化」という理由をでっち上げて既存の地元農民が開墾している農村や土地を無理矢理「無人地帯」に指定し、彼等を新たに設定した「集団部落」へ強制移住させた後に政府がこれらの「無人地帯」を安価で強制的に買い上げ、日本人開拓移民を入植させたものであった。
 どれぐらい安価かと云うと、追い立てた現地人一人辺りに支払われた金額が五円だったのだが、その金額は武装開拓団に支給された一ヶ月分の食費と同額で、団員達が(一ヶ月分の食費としては)「余りに少ない!」と抗議の声を上げる程の低額だった。

 ただでさえ、住み慣れた土地を追われる代償は単純に金銭で間尺に合わせられる訳ではないのは二昔前の地上げ屋問題を見ても明らかだが、その上代償として支払われた金額が労働者一ヶ月分の食費としても抗議されるような低額とあっては誰が納得するだろうか。
 エンゲル係数が高い内の道場主だって納得せんぞ(苦笑)。
 そうして奪った土地がおよそ二〇〇〇万ヘクタールに及んだのだから現地人の恨みを買わない方がどうかしている


 勿論土地を奪われることに地元農民である満州人は激しく抵抗したため、関東軍が出動することもあり、「集団部落」は反日組織との接触を断つ為に、地元住民を囲い込む形で建設された。

 南米等への移民が後々現地に溶け込んだのに対して、満州では法律上は「外国」でありながら、北海道開拓移民と同じフィーリングでの入植は渡満後も皆日本人のままであらしめ、ここにも建前入植・実質侵略であることがうかがえる。

 ともあれ、満州開拓移民を送り込んだ関東軍満州鉄道の現地に対する悪行に関しては一先ず筆を置く。
 本作の主旨は侵略を「優秀な大和民族の天与の使命」と云い張って開拓移民を送り込んで置きながら、政策が招いた開拓移民への害を見殺し、自らの身はしっかり守った関東軍満州鉄道卑劣振りと、経営者・為政者として民間人入植の責任を反故にしたことを糾弾することにあるのだから。


 その為にもまずは満州開拓移民という名の侵略がれっきとした国の政策として行われたことであり、特殊法人としてそれを裏で糸引いたのが南満州鉄道であり、それに協力して軍事的な睨みを内外に示していたのが関東軍であることを明記しておきたい。



理不尽な反故 政策に対する事の善悪はともかく、「満州開拓移民推進計画」が国の政策である以上、国家及びそれを総括した関東軍並びに南満州鉄道には国策に従事した満州開拓移民の生命・財産を守る義務があった。
 殊に関東軍は満州帝国から日満議定書に基づいて満州帝国の軍事費負担で帝国内に駐屯し、共同防衛に務めることとなっていたのである。
 勿論その意識は満鉄にも関東軍にも皆無だった訳ではなかったが、こいつらは肝心なところでその任務を放棄したのである
 謂わば、「反故」と云うよりは「職務怠慢」・「責任放棄」と云った方が適切なのだが、自分達と家族の身の安全とプライドだけはしっかり守っていた(詳細後述)。
 ことから、その悪質さも踏まえて薩摩守は「反故」とした。
 やるべきことをやらずして犠牲を強いた様は「怠慢」・「放棄」では済まされない、「護民」という民を守る任にあり、その為に武器の携行すら許可されている者が当然為さなければならない義務への重大な「反故」と見た訳である。


 前述した様に、開拓移民の第一陣は武装移民だった。
 つまりは、土地を奪われた満州人達の報復に対抗する為であり、同時にそれは丸腰の移民でも大丈夫かどうかを調べる―つまりその時点ではその安全性が不明であった―ためでもあった。
 万が一にも現地人による報復や土地奪還の為の暴動が武装移民の手に負えず、関東軍が頻繁に出張らなければならないようなら移民政策は良くも悪くも変更を迫られていただろう。
 だが、幸か不幸か様々な抗日ゲリラとの戦いを経て尚、土地収奪は続き、日本国内から町単位・村単位の移住も始まった。
 最初は男ばかりが渡満していたので、移民達の為の結婚相手も満州に渡り(所謂「大陸の花嫁」)、満州生まれの子供達も増え続けた(いわゆる「大地の子」)。


 開拓移民政策が(一見)順調に見える一方、日中戦争は泥沼化し、日米開戦北部仏印進駐もあり、関東軍においても独ソ戦争でソ連がドイツに対して攻勢に転じると資源確保の為、東南アジアに向けられる部隊が増えた。
 勿論だからと云って、関東軍満鉄も開拓進む満州の防衛を疎かにする程には馬鹿ではなかったが、その為にとった方策は余りにも愚かだった。


 早い話、開拓移民の中から屈強の青年を選出して、新たな師団を結成したのであった。
 満州を守る任にある筈の関東軍は精鋭を南方戦線に送ったため、兵力が弱体化していることをソ連軍に悟られない為に中身はともかく、体裁だけでも整えようと躍起になっていた
 また、満州鉄道警備の為、年端もいかない少年達にも小銃を手にさせた。これは中学生までもが従軍させられた沖縄戦にも通じるものがある。
 昭和二〇(1945)年だけでも一五の師団を新設し、中でも六月に行われた八師団の新設は「根こそぎ動員」と云われるもので、銃後の守りに残されたのは老人・女子供ばかりとなり、これがのちの悲劇に更なる拍車をかけたのであった。


 その間も戦況は刻々と変化し、昭和一七(1942)年のミッドウェー海戦での惨敗により、制海権を失った日本では移民も不可能となっていた。
 それどころか在満師団はフィリピン(第一師団・第八師団)、沖縄(第二四師団)、台湾(第九師団・第一二師団)、パラオ諸島(第一四師団)、宮古島(第二八師団)、グアム(第二九師団)、本土防衛(第一一師団・第二五師団・第五七師団)に抽出され、大本営からは南北に敵を抱えない為にも「ソ連を刺激しない様に」との通達が関東軍にもたらされていた。
 当初、シベリアのソ連軍に隙あらば、独ソ戦争がドイツ優勢ならば、(大本営命令を無視して)ソ連に攻め込むつもりでいた関東軍だったが、戦況変化に伴い消極的なものとなっていった。

 これが無謀な侵略を断念して、既得権益である満州帝国を死守せんが為のものならまだ少しは分からなくもない。

 だが、変更された関東軍の防衛方針とは、ソ連軍が侵入してきた際には国境付近の部隊が持久戦を行って出来る限り時間を稼ぎ、最終的に政治・経済の中心である南満と朝鮮半島のみを防衛する、という実に満州国の四分の三を放棄するものだった
 勿論北満で開拓に尽力する開拓移民には何一つ知らされることはなかった!!

 この路線変更は関東軍の一存ではなく、昭和二〇(1945)年四月にソ連から日ソ中立条約の不延長通告を受けて大本営から新たに発令された、京図線(新京〜図們)から連京戦(大連〜新京)を最終防衛ラインとするよう命じた「作戦要領」によるものだった。

 作戦は作戦としても、関東軍が満州北部の開拓民に避難勧告などの措置を取らなかったのは、「ソ連に弱みを見せたくなかった。」のと、「内地まで開拓民達を誘導避難させる船舶・食料が全く不足していたため。」だったと云われている。
 だが、陸続きである南満や朝鮮半島に避難させる方法も取られず、避難が無理なら無理でソ連軍を撃退する為の充分な軍装備の支給もまた行われなかった(行えなかった)。
 しかしながら関東軍は自分達の身はちゃっかり守ったのである(全員ではないが)。


 そして遂に運命の時が来た。
 昭和二〇(1945)年八月八日に日ソ中立条約をソ連が一方的破棄を宣言し、同月九日に満州国への戦車による南下侵攻や空襲が開始された。
 四軍団(第一極東方面軍、第二極東方面軍、ザバイカル方面軍、ソ蒙機械化騎兵集団)で総員・一七四万人の兵力による大攻勢であった。
 正直、満州帝国建国時の関東軍全軍が揃っていても太刀打ち出来なかったであろう兵力であった。


 これを既に予測していた関東軍はトラックや車を民間人より徴用し、列車も確保していた。
 軍人家族らはその夜の内に列車で満州東部へ避難した
が、翌日以降に侵攻の事実を知った多くの人や、遅れをとった民間人等は移動手段もなく、徒歩で避難せざるを得なかった。

 国境付近の在留邦人の中で、関東軍の指示により「国境警備軍」となっていた男子はソ連軍に対峙し、避難民はおのずと老人や婦人、子供が多数となった。
 関東軍も全部が全部逃げた訳ではなく、百人単位で各地の要塞に立て篭もって万単位のソ連兵を迎え撃った者も多く、七キロの迫撃砲弾に耐えるソ連軍のT34戦車に爆薬一〇キロを抱いて特攻した者もいた。
 戦術的には稚拙でも、良くも悪くも「生きて虜囚の辱めを受けず」的に命も顧みず奮闘した日本兵を前に深入りを避けたソ連軍も多く、それによって避けられた開拓民の犠牲は決して少なくはなかった。
 逆を云えば、それだけに関東軍と満鉄が早期に適切な処置を取って、しっかりした防衛・避難体制を取っていれば、どれだけの犠牲や生き別れ・死に別れが避けられたかと思うと憤懣やる方ないものがある!!



忌まわしき余波 ソ連侵攻によって満州における日本の支配権と、それに基づく社会秩序は崩壊した。
 内陸部へ入植した開拓民達の帰国は困難を極め、避難の混乱の中で家族と離れ離れになったり、命を落としたりした開拓民も少なくなかった。
 これが所謂、シベリア抑留残留孤児問題に繋がったのは言を待たないところだろう。
 青少年義勇軍を含む満州開拓移民の総数は約三二万人。ソ連の参戦でほとんどが国境地帯に取り残され、日本に帰国できたのは一一万人余りに過ぎなかった。
 痛まし過ぎて余り書きたくないのだが、ソ連兵による集団強姦もこの時数多く起こっており、三江省通河県を襲撃したソ連兵に至っては、村民に「慰安婦を差し出せ!」と強要する恥知らず野郎までいて、一〇〇〇人余の犠牲を避ける為に二人の女性が志願し、それを村長が泣く泣く見送った事件もあった。
 他の地域でも犠牲は続出した。
 満足に武器も支給されていない丸腰に近い状態で、ソ連軍や報復活動に出た現地人に「凌辱され、嬲り殺しにされるよりは……」と考えて、集団自決の道を選ぶ開拓民も続出した。
 殊に、終戦から一ヶ月以上も経っていた九月一七日、瑞穂村開拓団は武装解除後に現地中国人達の略奪・暴行に曝された際には、四九五名が集団自決した。


 一方の満鉄だが、ソ連軍の満州侵攻が開始されるや、満鉄関東軍大陸鉄道司令官の指揮下に入った。
 終戦二日後の八月一七日、竹田宮恒徳王が東京から新京に飛来し、関東軍に終戦の勅旨が伝えられて、大陸鉄道司令部は任務を停止すこととなった。
 この日、満鉄最後の総裁・山崎元幹(やまざきもとき)は関東軍司令官・山田乙三(やまだおとぞう)より「既に一切の権限を失った者として、今後満鉄のことはすべて総裁に任せる以外に無い」と告げられた。
 これにより、満鉄総裁は満鉄の全機能を挙げて終戦処理に邁進することとなり、重大な責任を負うこととなったが、まあ責任のなすり合いだな

 八月二〇日、ソ連軍司令官コバリョフ大将、新京駐屯軍司令官カルロフ少将の帝都・新京に到着を受け、山崎は全満鉄社員に、

 「関東軍は天皇の意思を尊重し、全軍の戦闘行動を停止した。私も天皇陛下の意思を尊重して輸送の秩序を維持し、在満邦人と満洲の安寧保全に努力したい。
 鉄道、生産施設の管理、社員の保護に関しては、私は全責任をもってソ連軍との交渉に当たる。各員は現職に止まり、輸送及生産機能の確保に努めて欲しい。
 社員とその家族の保護に関しては、現地防衛軍と日本人保護機関と協調して、万策を尽くす。
 ソ連の進駐に当っては、天皇の意志を尊重し一切の軽挙を戒め、ソ連の希望に沿うようにして欲しい。
 大東亜戦争四年間の各員の献身奮闘と、日ソ戦争状態勃発後に於ける勇戦奮闘に対し、心から感謝の意を表すると共に皇軍戦没将士と殉職社員の霊を慰めてくれることを切望する。」

 と布告した。

 この日夕刻、山崎は社員を本部屋上に集め、社歌斉唱の裡に最後の社旗降納を行い、午後六時に関東軍司令官山田がソ連軍司令官コバリョフと会見し、停戦協定が成立した。
 同日、山崎もコバリョフに会見し、満鉄従業員はみな現職に止まれとの指示を受けた。それに対し、山崎はコバリョフに「満鉄は元の体制のままでソ連軍に協力する。 ソ連側は満鉄社員とその家族の生命財産を保障する。 ソ連側は従業員に給与する。」 という約束をとりつけた。これにより、混乱した満洲に一定の秩序がもたらされた。

 この山崎元幹の行動を非難する気は欠片もない。尽力そのものは見事と云って良い。
 その後数々の展開を経て満鉄は中国・ソ連に接収されて消滅するのだが、その間も山崎は満洲の治安と社員達の安全を強硬に訴え続けた。
 事実、関東軍司令官である山田乙三はその後シベリアに抑留されたが、満鉄の社員及びその家族は犠牲者も、抑留者も、行方不明者も生まなかった。

 それだけにこの手腕が開拓民達の安全保護に活かされなかったのは悔やんでも悔やみ切れない。


 最後に満州開拓移民団関東軍満鉄との反故にあって最も唾棄すべき連中を取り上げておきたい。
 それは関東軍防疫給水部である。正式名称より満州第七三一部隊という通称の方が有名な、悪名高き細菌戦部隊である。
 ここで七三一部隊を取り上げるのは何も彼奴等の悪行を喧伝せんが為ではない。はっきり云って喧伝するまでもない
 肝心なのはソ連軍の満州侵攻時にそれを知った部隊長・石井四郎の言動と、その後の七三一部隊の在り様が本頁での関東軍の反故っぷりと下劣さを示すのに格好の材料だからに他ならない。

 ソ連軍の侵攻を知った七三一部隊は保身と証拠隠滅に走った。

 七三一部隊は本部内の引込線から一五〜四〇輌編成の列車を仕立てて真っ先に朝鮮半島・釜山へ逃げた。
 これに先立って石井は生き残っていた数百名の人体実験用の捕虜(通称「マルタ」)をメタンガスで殺害し、その遺体はガソリンをもって焼却させ、人体実験を含む細菌戦のレポート、金塊・銀塊を持ち出し、部隊員と家族には秘密厳守を命じた。

 呆れたことに、最初、石井は隊員達に機密保持の為の自決を命じたが拒絶された。

 さすがは保身に優れた部隊だ。実験の為に三〇〇〇人を殺しておいても自分達は死にたくなかったらしい(嘲笑)

 そこで石井は避難に切り替えたが、このとき逃げ切れなかった隊員がソ連軍の捕虜となり、ハバロフスクでの尋問で七三一部隊の存在が明らかとなった。
 ソ連経由でその悪行がアメリカにも伝えられたが、尋問された石井が実験レポートの提出を条件に戦犯としての逮捕・起訴を免れたのは有名である。
 守れもしない機密よりも、守られなかった・守られるべき筈だった命が多数あったことを訴えてこの頁を締め括りたい。




高野山にある満州開拓移民団慰霊碑
(平成一九(2007)年四月八日薩摩守撮影)



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令和三(2021)年五月二〇日 最終更新