第拾頁 真田信繁………これのどこが「人質」だ? 弐

人質名簿 拾
名前真田信繁(さなだのぶしげ)
生没年永禄一〇(1567)年〜慶長二〇(1615)年五月八日
身分信濃真田家一員
実家真田家(父は真田昌幸)
預け先越後(上杉景勝)、京都聚楽第(豊臣秀吉)
人質名目忠誠の証
冷遇度
人質生活終焉自然消滅


概略 一般に、最近まで「真田幸村」の名で親しまれた名将である。武田家家臣、真田昌幸の次男として永禄一〇(1567)年に生まれた。幼名・弁丸、通称・源二郎
 生誕時、父・昌幸は祖父・幸隆の三男で、真田家は伯父・信綱が後継者に定まっていて、昌幸は名跡の途絶えていた名家・武藤家を継いでいた。

 だが、天正三(1575)年の長篠の戦いで伯父・信綱と昌輝が共に戦死したため、昌幸は期せずして真田姓に復姓し、信繁も父や兄・信幸と共に上杉家への抑えとして甲府を離れた。しかし、七年後の天正一〇(1582)年三月一一日、主家である武田家は天目山に滅び、これをうけて昌幸は織田信長に降伏し、上野吾妻、利根、信濃小県の所領を安堵されたが、その忠誠の証として信繁は厩橋城に駐屯した滝川一益の元に人質として預けられた。
 その僅か三ヶ月後に信長が本能寺の変で横死し、旧武田領を鎮撫しつつ、関東の北条氏政攻めに取り掛からんとしていた一益等は大混乱となった。

 一益は信長の仇を打つべく上方に戻らんとし、信繁も同行させたが、結果的に滝川勢は北条の追撃に大敗し、清洲会議にも遅参する体たらくで、信繁は途中、木曽にて木曾義昌に預けられた。
 この混乱を受けて、旧武田領は徳川・上杉・北条の奪い合う地と化し、昌幸は越後の上杉景勝に従う道を取り、徳川家康とも戦った。そしてその上杉家に対する忠誠の証として信繁は上杉家に送られたのだった。

 程なく、豊臣秀吉が天下人となり、景勝も昌幸も秀吉に臣従し、真田家は独立した大名となったが、その勢力は小さく、武田家臣時代に切り取った旧領も天下人の胸先三寸で所有権を左右され、その最中、信繁は、今度は秀吉の元に人質として送られた。

 秀吉の統治下にあって、昌幸は天正一七(1589)年に秀吉の命で上野沼田城を北条氏へ引き渡したが、北条側でこれに従わなかったため、秀吉は小田原征伐を敢行。昌幸・信幸も従軍し、前田利家・上杉景勝等と共に松井田城・箕輪城・忍城攻めに活躍した。この時信繁も岳父・大谷吉継と共に石田三成の指揮下で忍城攻めに参戦した。

 天下統一から八年後、朝鮮出兵の最中、豊臣秀吉が慶長三(1598)年八月一八日に薨去。その翌年に前田利家が没すると徳川家康が露骨な台頭を見せた。
 翌慶長五(1600)年、家康は同じ五大老の上杉景勝が上洛命令に従わず、反逆の意有りとして、会津征伐の兵を挙げ、従軍する諸大名の中には真田父子もいた。そしてその進軍中、石田三成が五大老の一人・毛利輝元を大将に、同じく五大老の宇喜多秀家を副将に担ぎ上げて家康追討の挙兵を敢行した。
 三成挙兵を知った家康は、下野小山にて挙兵の事実、諸大名の家族が人質に取られたことを従軍していた諸大名に告げ、その去就は自由であるとした。福島正則の発言を皮切りに諸大名は家康への合力を約定したが、その中に有った僅かな例外が真田家だった。
 東西どちらが勝っても、真田家の血脈が途絶えない様にと考え、昌幸は家康の養女(本多忠勝の娘)を娶っていた信幸を徳川方に従軍させたままにし、自身は信繁と共に上田城に帰って西軍についた。

 上田城にて昌幸・信繁父子は中山道を急ぐ徳川秀忠の軍勢を足止めし、関ヶ原の戦いに遅参させると云う活躍を為したが、主戦場である関ヶ原では西軍は一日で大敗し、昌幸・信繁は一転して賊将となった。
 秀忠への抵抗振りからも通常なら死罪を免れないところだったが、信幸が岳父・本多忠勝とともに必死の助命嘆願を行ったことが功を奏して、昌幸と信繁は死を一等減じ、高野山への配流となった(このとき、信幸は徳川家への忠誠を誓う意味から、真田家の通字である「幸」の字を捨て、「信之」と名を改めた)。

 高野山にて蟄居・謹慎生活を送る中、慶長一六(1611)年に父・昌幸が死去した。そしてその三年後、方広寺鐘銘事件を機に豊臣秀頼と徳川家康が一触即発状態となった。だが、徳川の天下はほぼ定まっており、秀頼が期待した豊臣恩顧の大名は誰一人として駆け付けず、豊臣家が次善の策として頼りとしたのは、諸国に溢れる浪人衆だった。
 関ヶ原の戦いから一四年の時を経て、ある者は関ヶ原の戦いにおける論功行賞で主家が改易されて、ある者は主家に世継ぎが生まれないことで無嗣改易とされて、またある者は切支丹であったために弾圧されて、と様々な形で浪人した者が世に溢れ、豊臣家は秀吉が残した遺産でもって、再仕官や切支丹が大手を振って生きられる世の復活を願う者達を大坂城に招いた。
 そんな中にあって真田信繁は、徳川勢を二度も破った名将・昌幸の子として歓迎された。

 豊臣軍の総大将は淀殿の乳兄弟である大野治長が担い、信繁の地位は決して高くなかったが、それまでの戦歴が高く評価され、当初から頼りとされた。信繁は大坂城を巡る外堀の中でも急所と見られる南方に通称真田丸と呼ばれる出丸を築き、松平忠直(結城秀康嫡男・家康孫)、前田利常(前田利家四男・徳川秀忠娘婿)、井伊直孝(井伊直正次男)等の強敵による襲撃を良く防いだ。

 外堀による守りを攻めあぐねた家康は、外堀破却を条件とした講和を持ち掛け、豊臣方もこれに応じた。だが、これは周知の通り大坂城の防御を弱める為の偽りの講和で、外堀埋め立て後、豊臣方が埋め立てる予定だった二の丸・三の丸も埋め始め、豊臣方の抗議に対して現場の奉行は「外堀(そとぼり)ではなく、惣掘(そうぼり)と聞いてます。」という、『笑点』なら間違いなく座布団三枚は没収されるであろう惚け倒しで埋め立てを続行した

 これに怒りを覚えた豊臣方は掘り返しや櫓の立て直しを行ったが、これは家康の思う壺で、豊臣方の行為を反逆的であるとした家康は秀頼に大坂城を出て伊勢・大和に移るか、信繁以下の浪人衆を全追放するか、の二者択一を迫った(勿論秀頼が応じられないのを承知の上でのことである)。
 かくして慶長二〇(1615)年四月二九日の樫井の戦いで塙団右衛門が浅野長晟勢に突撃を敢行したことで再度戦端が開かれ、大坂夏の陣が勃発した………………えっ?信繁の行動に関係ないのに依怙贔屓で塙団右衛門の名を出したんだろうって?……………その通りです(笑)。

 城に籠れない豊臣方は城外に打って出て、家康・秀忠の首を取ることに一発逆転を賭けて善戦したが、衆寡敵せず、五月六日に薄田兼相・後藤又兵衛・木村重成と云った勇将・重鎮が相次いで討死。翌七日、信繁もまた再三家康本陣に肉薄してその心胆を寒からしめたが、越前松平勢の前に壊滅させられ、天王寺で越前勢の西尾仁左衛門に討ち取られた。真田信繁享年四九歳。

 信繁を失った豊臣勢は組織的抵抗が不可能となり、翌八日に大坂城は炎上し、秀頼・淀殿母子も自害して豊臣家は滅亡した。


人質経緯 第伍頁で採り上げた父親の真田昌幸同様、真田信繁もまた嫡男でないが故の人質生活を余儀なくされた。
 武田家臣時代の信繁の生涯は詳らかではないのだが、多くの国人衆や縁戚に裏切られた武田勝頼が昌幸を深く信頼しつつも、同じ立場にある国人衆の手前、信繁に人質の役割が割り当てられたのは想像に難くない(実際に、兄・信幸も人質の任を担わされた)。

 そしてその武田家が滅びたことで真田家は生き残りに難渋する日々を送った。
 武田家滅亡直前、昌幸は勝頼を居城である信州上田に迎えて再起を図らんとしたが、甲斐源氏の名家である武田家が甲斐を捨てることを多くの者が良しとせず、同時に裏切者が相次ぐ中、信濃衆である昌幸もどこまで信用出来るものか、と見る者も少なくなかった。
 これを受けて勝頼はいざという時には頼るかも知れないから、として昌幸に上田の守りを固めることを命じたが、皮肉な話、これが昌幸父子の命を救い、勝頼がついに上田を頼ることが無かったのは周知の通りである。

 そして武田家の滅亡を受け、武田一族、旧臣、国人衆の誰にとっても、その後の生き残りはかなり困難な命題だった。結果的に多くの者がろくな死に方をしていない。武田攻めの総大将である織田信忠は降伏すれば命と所領の安堵を与えるとした廻状を発給したが、それを信じて出頭した者達は悉く殺された。
 武田家滅亡を必至とみて、早々に織田家に従った者も少なくなかったが、降伏のタイミングで「不忠者め!」として殺された者も少なくなかった(例:小山田信茂)。そんな中、昌幸が採ったのは織田家への降伏で、上述した様に、その証として信繁が滝川一益の元に預けられた。
 結果だけ見れば、あっさり降伏が成立した様に見えるが、恐らくこれはまだまだ武田家残党追討が難渋する中、知勇兼備の名将として敵に回すと厄介な昌幸を、「討ち取るよりは懐柔した方が良い。」との考えが織田家中に有ったと見られる。逆の見た方をすれば、昌幸が上田の要害ではなく、甲府の館にいたり、手強い敵と見られていなかったりすれば、あっさり殺されたいたかもしれない。

 だが、厄介なことに武田家を滅ぼした織田家が三ヶ月後に本能寺の変を受けて大混乱に陥り、昌幸を初めとする国人衆は生き残る為に如何にすべきか、その取捨選択に混迷を極めた。何せ、信繁の預けられた滝川一益がその後の行動指針を誤り、織田家中における発言権を大きく失墜させているのである。
 結果、昌幸は武田家家臣時代に自らが防衛を担ったり、時には同盟締結を交渉したりした上杉景勝の傘下に入り、信繁は上杉家の人質となった(この間、昌幸は北条氏直、徳川家康相手にも臣従を仄めかす等の交渉を行っているが、そこは尺の都合で省略します(苦笑))。
 歴史の結果として、真田家自体は幕末まで存続したことを後世の我々は知っているが、本能寺の変直後の真田家はチョットした選択一つ間違えればいつ滅びてもおかしくない小豪族に過ぎなかった。これは薩摩守の想像だが、信繁が上杉家に送られたのには、昌幸が対北条、対徳川の状況にあって、確実に上杉のバックアップを得るとともに、武運尽きて昌幸・信幸が滅びるようなことがあったとしても、信繁が上杉家中で生き残ることを期してのことと思われる(実際に、北条は滅びて、上杉は生き残った)。

 結局、景勝は関白となった豊臣秀吉に臣従し、昌幸も同様に従ったことで真田家は小大名となり、これに前後して上杉家での人質としての信繁の任は終わった。

 だが、秀吉に従属したことで、今度は信繁には豊臣家人質としての任務が待っていた。後の世、徳川幕府が諸大名の謀叛を防ぐ為、全大名の正室・世子を江戸の大名屋敷に留め置き、人質としたが、豊臣秀吉もほぼ同じことをやっている。
 つまりは制度化において行われた者ゆえ、秀吉に親しい大名でも例外とされなかった訳だが、秀吉は自分に心底忠誠を尽くす者を片っ端から疑って敵を増やすような馬鹿ではない。同時に長く子宝に恵まれなかった秀吉は、一般に用事を可愛がる傾向が強かった。殊に望外の実子・秀頼を得ると、養子であれ、外様であれ、すべての価値基準は「秀頼に敵対しないか?」、「秀頼の良き相談相手、守り手となってくれるか?」で判断された。
 そういう意味では人質とはいえ、信繁に冷遇される理由は無かった。


待遇 はっきり云って、人質でありながら真田信繁はかなり優遇された。特に豊臣秀吉には。

 まず武田家での人質時代だが、武田家の人質にされたのは信繁だけではない。父・昌幸、母、兄・信幸、伯父・信伊も、時期の相違や長短はあれど、一様に人質として甲府に預けられた経験をしている。そしてこれは国人衆全般が例外なく担わされた宿命であろう。
 結果的に祖父・幸隆の臣従以来、真田家は武田家滅亡のその時まで、下手な身内、宿老、甲斐国人よりも遥かに信頼出来る忠臣であり続けた。そのことは信玄も勝頼も重々承知しており、昌幸に至っては信玄からの薫陶を受けることで、「我が目である。」と称される程だった。
 何より、真田一族が人質でありながら、武田家から深い信頼を受けていたことは他ならぬ「信繁」の名に現れている。講談などによる「幸村」の名が余りに有名過ぎて長く「信繁」の名が薄らいでいたが、そもそもこの名は信玄の愛弟・武田典厩信繁と同名で、昌幸が息子を名将に育てる際に、肖りたいとして信玄に願い出、信玄が許可したものである。当たり前だが、信玄の許可なく「信繁」なんて名前は付けられない。
 この名前からして、信繁が武田家中で冷遇されたとは思えないだろう。

 次いで上杉家での人質時代だが、正直、実態は薩摩守の研究不足で不詳である。ただ、信繁の父・昌幸と上杉家の縁は決して浅くなかった。上杉家と云えば、武田家最大のライバルと見られるが、信玄と謙信は激しく対立しつつも互いを認め合い、信玄は勝頼に対して「あんな男とは戦うな!」と遺言していた。同時に「奴は「頼む」と云われれば、「嫌」とは云えない男とだ。」とも云い残しており、歴史の結果的に織田・徳川に滅ぼされた勝頼だったが、謙信及び上杉家とは戦おうとしなかった。
 その上杉家が謙信死後に武田家・北条家を巻き込む内紛を起こした。御館の乱である。当初、勝頼は上杉景虎を支持した。と云うのも、景虎は北条氏政の実弟で、勝頼は氏政の妹を継室に迎えており、越後が景虎の統べるところとなれば、武田・上杉・北条の新三国同盟が成立することとなり、この三家が強固に結びつけば、どんな大大名にとっても滅ぼすのは容易ではななかっただろう。
 だが景勝は勝頼を抱き込んだ。降雪の為とはいえ、北条本家が景虎への援兵を出さず、これを好機と見た景勝は勝頼に対して「和睦」を持ち掛けた。「越後のことはあくまで越後で片を付ける。」として中立を要請しつつ、一方で勝頼の妹・菊姫を景勝の室に迎えたいと、申し入れ、結納金名目で金二万両を渡した。
 これは見方によっては、勝頼が金を目当てに北条家との縁を蔑ろにしたことに移る(実際、そう云って詰った者は少なくなかった)。そしてこの厄介な背景の中、勝頼と景勝との同盟締結を担ったのが昌幸だった。

 結果、景虎は実兄(氏政)と義兄(勝頼)に見捨てられた形となり、景勝は景虎に勝利し、勝頼は北条家を完全に敵に回した一方で、北方・背後の憂いを失くした。勝頼が景虎を切って、景勝と結んだことへの是非はここでは論じないが、かかる背景にあって、難度の高い交渉を担った昌幸が上杉家から一目を置かれたのは想像に難くない。
 そんなこともあってか、景勝は人質として送られて来た信繁に対し、天正一三(1585)年に屋代氏の旧領を与えている。屋代氏とは、北信の豪族・村上氏の支族で、信濃衆の中では徳川方に走った者である。謂わば、屋代の旧領を取り上げ、自分に従った信繁に与える形で信濃衆に対する威嚇と懐柔を示したと思われるが、矢代氏の旧領は現・長野県千曲市に当たり、かつて上杉家と武田家がしのぎを削った川中島の近辺である。名目上とはいえ、人質に与える地としてはかなりの厚遇と云える

 そして時代は下って、豊臣家人質時代である。
 上述した様に、秀吉の為に人質とされた大名の子女はごまんと存在する。同時にその待遇は千差万別だった。何せ秀吉は長く実子に恵まれなかった。子宝の恵まれないと他家の子供でも可愛く見えるらしい。そう云えば内の道場主も妻帯していないから、仕事で訪問した際に見掛けるその家の赤ん坊にかなり愛想を、振りまく。やはり人間は無い物ねだりする生き物………ぐえええええええぇぇぇぇぇぇえぇぇぇぇぇぇぇえぇぇぇ………(←道場主のオイディプスの煩悶(『魁!!男塾』参照)を食らっている)。

 ゲホゲホ………早い話、秀吉は信繁を可愛がった。馬廻衆に任じ、一万九〇〇〇石の知行が個人として与えられ、秀吉の側近くにいた縁で大谷吉継の娘を妻に迎えた。大谷吉継と云えば、秀吉をして「一〇〇万の軍勢を指揮させてみたい。」と云わしめた知勇兼備の名将である。
 勿論この縁組には、嫡男を徳川方の重臣・本多忠勝の娘と娶せた昌幸が豊臣方とも強いコネクションを持たんとして組んだこともあるだろうが、肝心の信繁が秀吉に気に入られていないとあり得ない縁組である。

 信繁の父・昌幸は、小豪族の生き残りに尽力した為とはいえ、心ならずも四回も主君を替えた。そして智謀に優れていたが故に「表裏比興の者」とも呼ばれた。それ故、その次男・信繁を手元に置いておくことは、昌幸に反旗を翻させない為の重要な保険だった事だろう。だが、そんな中にあって預けられた先で人質とは思えない程優遇されたのだから、そのカリスマ性が戦国最後の奮闘とも相まって講談のヒーローたらしめたのも、頷ける話と云えよう。


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令和七(2025)年九月一〇日 最終更新