第玖頁 大政所………インパクト大き過ぎる
人質名簿 玖
名前 大政所(おおまんどころ) 生没年 永正一三(1516)年〜天正二〇(1592)年七月二一日 身分 関白母親 実家 豊臣家 預け先 三河岡崎城(徳川家康) 人質名目 娘の嫁ぎ先への挨拶 冷遇度 不明 人質生活終焉 挨拶終了に伴う帰還
概略 豊臣秀吉の母・なかのことである。本来、「大政所」とは一般名詞で、「関白の生母」を意味する。勿論史上において「大政所」と呼ばれた人物は多数存在するが、狭義においてはこの秀吉の母・なかのことであるを指す。
同様に「太閤」とは「関白を退位した人物」で、「北政所」とは「関白の正室」を指す言葉で、同じ言葉で呼ばれた人間は何人も存在するが、やはり狭義において前者は豊臣秀吉を、後者は秀吉正室・おねを指す。
如何に秀吉の日本史上における存在感が大きいかの証左と云えよう。
永正一三(1516)年、尾張愛知郡御器所村(現:名古屋市昭和区)に生まれた(美濃の鍛冶・関兼貞の娘という伝承もある)。
妹に加藤清正・福島正則の母がいて、秀吉が木下藤吉郎だった頃から両名が仕えていたのもこの縁故による。
織田家の足軽・木下弥右衛門のもとに嫁ぎ、日秀(とも)と秀吉を生み、天文一二(1543)年に弥右衛門が病没すると織田信秀の同朋衆・竹阿弥と再婚した。
竹阿弥との間には秀吉の異母弟妹となる秀長と朝日を産んだ。
諸説あって詳細は不明だが、秀吉は継父となった竹阿弥と折り合いが悪く、少年期に家を出て、各地を放浪した後、織田信長に仕えた。そしてその秀吉が天正元(1573)年に近江長浜の城主となると、竹阿弥にも先立たれていたなかのことであるは秀吉に引き取られた。
長浜城主では秀吉の正室・おね(北政所)等と共に暮らし、その後は終生秀吉の身近にて大事に養われた。時には本能寺の変に際して長浜城が明智方に攻められ、おねとともに伊吹山麓の大吉寺に逃れたり、小牧・長久手の戦い後の和睦に際して徳川家康を上洛させる為の人質として岡崎に送られたり(詳細後述)、と云った危機もあったが、概ね秀吉の元で無難に過ごした。
大坂城が築かれるとなかのことであるも同所に移り、天正一三(1585)年七月一一日、秀吉が関白に叙せられると、その生母として従一位に叙され、大政所の号が与えられた。
その後、大坂の秀吉、奈良の秀長の元を行き来し、「関白の母」として方々で丁重に迎えられた。
しかしながら天正一六(1588)年以降、自身が病気がちになったのに加え、天正一八(1590)一月に朝日姫に先立たれ、同年に秀吉による天下統一が成るも、翌天正一九(1591)年一月には秀長にも先立たれ、その年の九月には孫の鶴松にも夭折されると云った身内の不幸が相次いだ。
秀吉が朝鮮出兵を敢行すると、当初秀吉は国内を甥−大政所には孫)−の秀次に任せて自身は渡海して戦わんとしたが、息子の身を案じて渡海を止めた。渡海には徳川家康や前田利家も諫めたこともあって、秀吉もこれらの制止を無碍には出来ず、延期と云う形で中止し、終に渡海することはなかった。
だがそんな彼女にも天寿は迫り、天正二〇(1592)年七月、大政所は死の床についた。関白となっていた秀次は、肥前名護屋城にいた秀吉を落胆させまいとして報告を躊躇っていたが、改善が見込めないため、重篤であることを報告した。七月二一日に母危篤の報に接した秀吉は即日名護屋を発ったが、その日に大政所は聚楽第で逝去した。享年七七歳。
大坂に到着した秀吉は、既に大政所が亡くなったことを知らされると衝撃の余り、その場に卒倒した。秀吉は大政所の追善供養の為に、八月四日、聖護院門跡・道澄を名代として中村一氏と小出秀政を付けて高野山に登らせ、一万石を寄進した。
翌々日、秀吉は大徳寺で法要を行い、そのまた翌日、蓮台野で荼毘に付した。後陽成天皇は、勅使を遣わして大政所に准三后を追号した。
人質経緯 大政所が人質となったのは極めてピンポイントな話である。
史上にも有名な話だが、小牧・長久手の戦い後の和睦交渉にて、羽柴秀吉が徳川家康に対して上洛を求めた際に、害意が無い証として、家康の継室となっていた朝日姫への見舞いを名目として、実母の身柄を預けたものだった。
本来、関白となった秀吉は朝廷の権威をバックに全国の大名に対して惣無事令(私闘禁止令)を出す身分で、名実ともに諸大名の頂点に君臨していたに等しかった。勿論、全大名が服従を誓っていた訳では無いが、逆らうにはリスクが大き過ぎた。
そんな秀吉に対して、彼が旧主・織田信長の遺児達を蔑ろしにしているとして、信長の次男・信雄と共に敵対したのが家康だった。戦そのものは、小牧山では睨み合いに終始し、長久手では秀吉の策を読んだ家康が大勝したが、決して大規模なものではなかった。
長久手での大敗の方を受けた秀吉は、家康と戦うことを好ましくないと考え、政治力でもって信雄と和睦した。信雄が和睦したことで家康は戦う理由を失くす形となり、岡崎に引き揚げたが、和睦となると話は簡単ではなかった。
勿論互いに戦いたくないので、形式的な和睦は簡単に成立したが、家康は秀吉への臣従を拒み、上洛命令にも従わなかった。その家康を懐柔するため、秀吉は既に嫁いでいた妹・朝日を夫・佐治日向と無理矢理離縁させ、家康の継室とした。
つまり、秀吉と家康が義兄弟になることで、「弟が兄に頭を下げても恥ではない。」と云う体裁を取った。だが、家康は動かなかった。同時に徳川家中でも。主君と秀吉が義兄弟になったと云っても、白けた雰囲気だった。
継室となった朝日は当時四三歳で、既に一度嫁いだ身で、家中にしてみれば「関白の妹」と云う名の老女を押し付けられたに等しかった。
一応、念の為にお断りしておきますが、朝日を「老女」としたのは、当時の基準です。
当時は正室でも三〇を過ぎれば、身を引いて若い側室を勧めることを美徳として女性に求めた時代だったからで、拙サイトに四〇代女性を老女とする意図を一切ありません。それどころか、うちの道場主は五〇代女性でも喜んで性の対象に…………ぐええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ……………(道場主の仁王流錠架殺大車輪を食らっている)。
一方、家康としてもいつまでも意地を張り続けるのは考え物だった。万一戦になれば、秀吉に相当な打撃を与える事が出来たとしても、御家滅亡は免れない。朝日を継室に迎えるのに前後して次男・於義丸(秀康)を秀吉の元に養子に出しており、二重三重の身内である手前、拒絶も、黙殺もいついつまでも使える手ではなかった。
そして業を煮やした秀吉は大政所を、「娘見舞い」、「婿殿への挨拶」名目で岡崎に送り込んだ。
これには徳川家中も大いに驚いた。上洛するであろう家康への害意が無い証として実母の身柄を預けて来たのである。さすがにこれには家康も大坂に向かわざるを得なかった。
待遇 まず、当然の話だが、羽柴秀吉自身は「母を人質にした。」とは口が裂けない限り云わないだろう(裂けても云わないと思うが)。上述した様に、名目は娘、及びその婿殿の元に挨拶に出向いたものである。
道場主の母上が妹とその旦那に頻繁に会っていることを思えば、全く普通の身内間交流である。
まあ、嫁ぐと同時に実家とは今生の別れとなった例も少なくない戦国時代と令和を一緒にするのもなんだが、ともあれ、大政所は「義弟殿が上洛しても決して危害は加えない。万一のことがあれば我が母を如何様にでもされれば良い。」という秀吉からの、言外の含みを伴ってやって来たのだった。
つまり、羽柴家と徳川家にトラブルが起きない限り、大政所は「関白の母」にして、「主君の義母」であり、間違っても「人質」ではなかった。当然、家康を初め徳川家中は尊んでその身を迎えた。
大政所が事実上の人質状態となったのは、家康上洛中のことだった。
家康自身は秀吉が望んだ通り、大坂城にて居並ぶ諸大名の前で関白秀吉に頭を下げ、秀吉は「徳川三河守、大義!」とし、当初の目的を果たした。
だが、この間、国元で一つの暴走があった。岡崎滞在中、大政所と朝日姫は望外の母娘再会に楽しい歓談の時を過ごしていたが、宿老・本多作左衛門重次が大政所と朝日の居間周辺に柴を積み上げ、上洛中である主君の身に万一のことがあれば、二人を焼き殺すことも辞さないとする示威行動に出たのだった。
幸い、家康の上洛・謁見は無事に終わり、火が放たれることはなく、岡崎に家康が戻ると大政所は滞在約一ヶ月で岡崎を発ち、大坂に戻ったのだった。
一口に「人質」と云っても、様々な名目・待遇があるが、ピンポイントさと、厚遇と苛烈さが両極端な意味において、大政所はかなり稀有な人質だったと云えよう。
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令和七(2025)年九月一〇日 最終更新