人質名簿 肆第肆頁 毛利隆元………破約の為にあわや自死
| 名前 | 毛利隆元(もうりたかもと) |
| 生没年 | 大永三(1523)年四月〜永禄六(1563)年八月四日 |
| 身分 | 安芸毛利家後継者 |
| 実家 | 毛利家(父は毛利元就) |
| 預け先 | 周防(大内義隆) |
| 人質名目 | 忠誠の証 |
| 冷遇度 | 三 |
| 人質生活終焉 | 実家への帰還 |
概略 大永三(1523)年四月、毛利元就と正室・妙玖の嫡男として、安芸高田郡多治比の猿掛城に生まれた。有名な吉川元春・小早川隆景は同母弟である。
天文六(1537)年、毛利氏が代々従属していた周防の大内氏に敵意が無いことを示す為に人質として送られることとなり、重臣達と共に一二月一日に周防山口に到着した。
到着の五日後に大内義隆と面会し、二週間後の同月一九日、義隆を烏帽子親として元服し、義隆から「隆」の偏諱を与えられて「毛利少輔太郎隆元」と名乗った。
三年後の天文九(1540)年に義隆より帰国が許され、吉田郡山城に帰還。二年後の天文一一(1542)年から翌年にかけて、隆元は元就と共に月山富田城攻めに従軍した。
三年後の天文一五(1546)年、父・元就が突然隠居を表明し、二四歳で家督を相続して、毛利家第一三代当主となった。その後も毛利家の実権は元就が握り続けたが、これは拙房で良く紹介する歴史のお約束(笑)というよりは、自分自身に何かと自信の持てない隆元が元就を立て続けたことによるものとみられている。
帰国から九年を経た天文一八(1549)年、大内家重臣・内藤興盛の娘を義隆養女として娶った。
その後、一見自分に自信がなく、采配に頼りが見られないように見られていた隆元だったが、徐々に自分にない能を周囲に行わせ、人を使う当主としての才覚を発揮。武に優れた元春、知に優れた隆景はもとより、時には父・元就をも上手く使って、次第に新しい毛利家の行政官僚組織として、隆元直属の五奉行制度が発足させた。
当初はこの機構も元就が実権を握り、官吏達も親隆元派と親元就派とで対立し、その運営に元就も隆元も頭を悩ませたが、徐々にうまく機能し、隆元がこの時期に著した訓戒状の条文の多くは、後の毛利家の家訓に収録され、宗家運営の模範とされた。
天文二〇(1551)年、大内義隆が重臣の陶隆房(陶晴賢)により自害に追い込まれると、隆元はいずれ陶が毛利にも攻めてくると判断して陶氏打倒を主張した。
元就は戦力的劣勢を理由に慎重な姿勢を崩さなかったが、隆元は重信達を動かして元就に翻意を促し、遂には元就も陶との対決を決心した。
そして四年後の弘治元(1555)年、父や弟と共に陶晴賢を厳島の戦いで滅ぼし、二年後の弘治三(1557)年には大内義長(大友宗麟実弟で、義隆姉の子)を滅ぼした。
かくしてかつて毛利家が親分的存在と崇めた周防を手にし、毛利家は中国地方の一大勢力となった。だが、豊後の大友宗麟、出雲の尼子晴久が侵攻してきたため、元就は北の尼子に、隆元は西の大友に対応することになった。
苦難の日々ではあったが、隆元は弟の隆景の支援を受けつつ大友氏を撃退。永禄三(1560)年に室町幕府第一三代将軍・足利義輝より、安芸の守護に任じられた。
同年、尼子晴久が急死して尼子氏の勢力が衰退し始めると、九州戦線を受け持っていた隆元は幕府の仲介を利用して大友宗麟と和議を結び、中国地方を転戦して尼子討伐に全力を傾け、二年後の永禄五(1562)年、幕府から備中・備後・長門の守護職に、翌永禄六(1563)年には周防の守護職に任じられ、四ヶ国守護兼任という、歴史上稀に見る大身となった。
だが同年七月一二日、隆元は多治比を出発して北方の高田郡佐々部にて出雲への出陣を八月五日と定め、同地に在陣して出雲遠征に従軍する軍勢の集結を待っていたところを、出陣予定日の前日である八月四日に急死した。毛利隆元享年四一歳。
急死前日、隆元は備後の国人・和智誠春(わちさねはる)の宿所に招かれて饗応を受け、宿に戻った後に体調を崩したことで、翌日に急病死したとされている。
隆元急死の報を受けて毛利一族は愕然とし、殊に元就は半狂乱になって痛哭した。
隆元の急死には暗殺説もあり、平成九(1997)年の大河ドラマ『毛利元就』では和智誠春(せんだ光雄)の部下の中に潜んでいた刺客に刺殺されたのを、父・元就(中村橋之助)が怒りに任せて暴走するのを懸念した隆元 (上川隆也)が病死と偽るよう遺言して息を引き取ったことにされていた。
実際のところ、医学が未発達だった時代、病死もあり得れば、季節的に食中毒も考えられるし、方々で恨みを買っていた毛利当主に対する暗殺もあり得る。
故に隆元の死因は完全には特定出来ないのだが、ドラマの中でも史実でも、元就は隆元を「殺された!」と決めてかかり、隆元側近の赤川元保を誅殺した(ドラマでは隆元を守れなかったことを恥じて切腹したことにされていた)。
後に元保が和智の元に行かない様に諫めていたことを知ると、その潔白を知って後悔し、元保の身内に赤川家を再興させると、敵意を和智に向け、紆余曲折を経て和智一族は誅殺されたのだった。
人質経緯 上述した様に、毛利隆元が大内義隆の元に人質として差し出されたのは、毛利が大内に対して敵意を抱いていないことを示す証としてだった。
隆元が人質に差し出された背景は前頁の松平元康(徳川家康)の例と非常に似通っている。東海地方が今川と織田との二大勢力下にあって、その狭間にあった中小大名・国人領主達が苦しんでいたように、中国地方の弱小勢力は周防の大内と出雲の尼子と云う二大勢力に挟まれ、生き残りに苦慮していた。
毛利家では以前より基本的には親大内の立場にあったが、謂わば、親分的存在とは云え、大内家が完全に頼りになるとは限らず、尼子からの侵略に何度も御家滅亡の憂き目を見た。
隆元の祖父・弘元の代には尼子からの侵攻に耐えかね、明応九(1500)年に三三歳の若さでまだ八歳の嫡男・興元に家督を譲って、自らは次男・元就を連れて猿掛城に退いた。これは本家として親大内を継続しつつ、対尼子戦線がヤバい時には自分と元就が尼子に降れるようにした、謂わば、保険だった。
六年後に弘元が心労で死去し、後を継いだ興元も一〇年後に酒毒で若くして病死した為、二歳の幸松丸が当主となり、叔父である元就がこれを補佐したが、結局幸松丸も九歳で夭折した為、期せずして元就が当主となった。
かかる経緯があったが、毛利家の基本路線は親大内だった。毛利家では当主候補である嫡男のみが「○元」と名乗り、他の男児は「元○」と名乗るのが通例だったが、「○元」と名乗る際の、「○」には歴代大内家当主の名を偏諱として拝領していた。弘元は大内政弘から、興元は大内義興から、隆元は大内義隆から偏諱を受けた様に。
謂わば大内家は毛利家にとっての「宗主国」で、「属国」の国主である毛利家は大内氏に従属し、敵意が無いことを示す必要があった。毛利家では弘元以来、若年の当主が相次いだことで逆に世継ぎが人質として差し出されることがなかったが、大内家に従う国人衆は挙って人質を差し出していた。それは江戸幕府が諸大名の正室・世子を江戸に人質として留め置き、参勤交代させた例と似ている。
毛利家では人質こそ出していなかったものの、大内義興が京都を追われた第一〇代将軍・足利義稙を奉じて上洛した際には弘元・興元父子も従軍して忠誠心を示し、興元の代に毛利家が決して大内氏に背かない誓紙が差し出され、それに対して義興の方でも毛利家を粗略にしないことを約した返書を送っている。
恐らくそんな状況下にあった毛利家は、大内家にとって「生き残るの必死で、反逆など思いもよらない」という手合いだったのだろう。だが、元就の代になって一応の安定を取り戻し、勢力を回復したとなると、忠誠の証が必要となり、隆元が差し出されるのに至ったのだろう。
待遇 悪くなかったと思う。
というのも、毛利隆元が人質として大内家に赴いたのは一五歳の時で、人質になるにしては大人となっており、僅か三年で帰国を許されていることから、形式的なものだった、と薩摩守は見ているからである。
そしてこの三年間に隆元は大内義隆を烏帽子親として元服し、「隆」の字を貰って「隆元」と名乗り、内藤興盛の娘と婚約したのだから、義隆にしてみれば次代の毛利家を親大内勢力として確実に取り込むための布石打ち、謂わば儀式的なものだったのだろう。
実際、周防山口入りに際して隆元は大勢の家臣を随行させており、通常は身の回りの世話をする小姓的なものが数名随行する事を思えば、降将よりも客分に近い。また、山口到着から五日後に義隆と面会するまで隆元主従はあちこちを訪ね歩き、大内家重臣達とも知己を深めていた。これが将来の毛利家を強勢にする基にもなった訳だが、普通この様な交流は「人質」には許されない。
これを考えると義隆は累代に渡って大内家に従って来た毛利家に対してかなり好意的で、確実な忠誠を見込めれば隆元を冷遇する気はなかった見える。
だが、どのような形・待遇であれ、臣従するのは面白いことではなく、自分の為に一家が逆らい得ない「御主人様」が存在するのは忌々しい話でもある。実際僅か三年間の人質生活は様々な意味で隆元の後半生並びに毛利家の命運に大きく影響した。
隆元が山口に滞在していた頃、父・元就は対尼子の最前線にあり、連戦苦戦を強いられていた。危機に際し、元就は義隆に援軍を求めたが、義隆はこれを渋った。このとき、隆元は自害を図った。その狙いは、自分がいなくなることで父や弟が尼子に降伏することが可能となり、御家が生き残ることに在った。
勿論周知の通り、自害は為されなかった。これを止めた人物がいたのである。それは大内家重臣・陶隆房(晴賢)だった。
隆元の自害を押し留めた隆房は隆元を義隆の元に引き摺って行き、事の仔細を説明すると毛利救援の援兵を訴えた。
隆元の覚悟と隆房の力説に義隆も動かざるを得ず、援軍は派遣され、毛利家は九死に一生を得た。勿論毛利家一同が隆房に感謝しない筈がなく、隆元の弟・吉川元春は武人肌として気が合ったこともあったものか、隆房と義兄弟の契りを結んだ。
後年、隆房が義隆に反旗を翻し、その命を奪った(大寧寺の変)が、上述した様に当時当主となっていた隆元は隆房討伐を訴えたが、その胸中は複雑だったことだろう。実際、毛利家中では当初隆房改め陶晴賢と事を構えるのに消極的だった。勿論、晴賢の勢力が強大だったこともあるが、それまでの友誼も無関係ではなかったことだろう。
結局厳島の戦いにて毛利家は大勝し、晴賢は自害したが、一説によると隆元・元春は晴賢が降伏することでその命を奪わずに済むことを望んでいたとも云われる。
毛利隆元という人物、父や弟や息子に比べると歴史上の影が薄い人物だが、それは周囲の一族が目立ち過ぎただけで、彼の人生はかなり色濃く、何度も毛利家の重要局面を舵取りした。
そんな彼は時に人質で、時に四ヶ国の守護で、目立たない知将でもあった。様々な局面を持つこの人物、今後、もっともっと注目されて欲しい人物でもある。
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令和七(2025)年七月二三日 最終更新