第伍頁 真田昌幸………これのどこが「人質」だ? 壱

人質名簿 伍
名前真田昌幸(さなだまさゆき)
生没年天文一六(1547)年〜慶長一六(1611)年六月四日
身分信濃国人真田家一員
実家真田家(父は真田幸隆)
預け先甲斐(武田信玄)
人質名目忠誠の証
冷遇度
人質生活終焉自然消滅


概略 天文一六(1547)年、信州小県郡の名族・海野氏の支族である真田家の当主・真田幸隆の三男に生まれた。幼名は源五郎
 詳しい時期は不詳だが、源五郎が生まれた後、彼が幼少の頃に甲斐の武田晴信(信玄)に臣従した。

 天文二二(1553)年、七歳の時に人質として甲斐に赴き、信玄の奥近習衆に加わった。
 信玄から可愛がられ、永禄年間に信玄の実母の実家・大井氏の支族である武藤氏の名跡が途絶えていたためその養子となり、名を武藤喜兵衛と改めた。
 永禄四年(1561)の第四回川中島の戦いが初陣とされているが、これには異説もある。その後も信玄の側近くで数々の戦に従軍し、元亀四(1573)年四月に信玄が病死すると四郎勝頼に仕えた。

 だが、翌天正二(1574)年に父・幸隆が没し、その翌年である天正三(1575)年の長篠の戦いにて家督を継いでいた長兄・信綱、そして次兄・昌輝が共に討死した為、期せずして実家である真田家の家督を継承し、真田姓に復し、真田安房守昌幸と名乗った。
 その後凋落していていく武田家に忠実に使えたが、天正一〇(1582)年三月一一日、天目山の戦いで武田家は滅亡。武田一族、旧臣の多くが織田信忠によって処刑されたが、皮肉にも昌幸は勝頼から万一甲斐を捨てて落ち延びた際の備えを信州上田で整えるよう命じられていたことで滅びの運命を回避した。

 そして武田家を滅ぼした織田信長も三ヶ月を経ずして本能寺の変に倒れ、武田家旧領は徳川・北条・上杉の取り合う地となり、昌幸は臣従・抗戦を織り交ぜて巧みに群雄割拠の世を生き延び、豊臣秀吉による天下統一が為されると地元の一大名としての存続が図れるようになった。

 そしてその豊臣秀吉が薨去し、関ヶ原の戦いが勃発すると昌幸は東軍・西軍のどちらが勝っても真田家が生き残れるようにするため、徳川家康の養女(実父は本多忠勝)を娶っていた嫡男・信幸を東軍に走らせ、自らは大谷吉継の娘を妻としていた次男・信繁(幸村)とともに西軍についた。
 上田城に籠った昌幸と信繁は 寡兵でもって中山道を進む徳川秀忠軍三万八〇〇〇を良く防ぎ、これがために秀忠は関ヶ原での決戦に遅参するという大失態をしでかした。だが、戦そのものはたった一日で西軍が大敗したことで昌幸は敗軍の将として信繁と共に裁かれる身となった。
 幸い、信幸改め信之が徳川家への生涯の忠勤を訴えた助命嘆願(←岳父の本多忠勝も協力した)が通り、昌幸・信繁の命だけは助けられ、改易及び高野山への流刑となった。

 謹慎生活を送ること一一年、結局昌幸は慶長一六(1611)年六月四日に返り咲きを果たせないままに高野山で没した。真田昌幸享年六五歳。


人質経緯 日本史上、最も多くの人質を抱えたのは江戸幕府だろう。勿論、諸大名が間違っても江戸幕府に反逆しない為、諸大名の正室と世子が江戸に留め置かれたのだが、規模の大小こそ違えど、似たようなことをやっていたのが甲斐武田家だった。
 だが、戦乱の時代だったこともあって、人質に対する待遇は武田家の方が過酷だった。

 信玄・勝頼を輩出した武田家は甲斐源氏の名家で、「源氏の末裔」を名乗る戦国大名の多くが胡散臭かったのに対し(苦笑)、武田家の出自を疑う者は皆無に近い。だがそんな名家の武田家でさえ、甲斐一国を支配下に治めることができたのは信玄の先代・信虎の治世終盤だった。
 当然、甲斐統一が成ったとはいえ、配下である国人衆の裏切りには充分警戒する必要があった(実際に武田家は国人衆の大量離反を受けて急速に弱体化して滅亡に至った)。それ故、甲斐は勿論、信濃、上野、三河の国人領主達は武田家当主の居館である躑躅ヶ崎に人質を差し出した。
 それは武田家の姻戚となった家も例外ではなく、一例を挙げると木曽家の悲劇がある。

 木曽義仲(源義仲)の末裔である木曽家は姓の元となった木曽谷を領し、義昌の父・義康の代に信玄に降伏したのだが、信濃・美濃・飛騨を繋ぐ要衝を押さえる木曽家を重視した信玄は三女・真理姫(真龍院)を義昌に娶せた。
 だが、信玄は決して木曾を優遇した訳では無く、木曽家の立場は「武田家の姻戚」・「独立した木曽の領主」だったが、正確には武田家の家臣扱いで領国経営も思い切り干渉され、義昌の側室、息子・千太郎、娘・岩姫、老母が人質として甲府に預けられた。
 結局、義昌は勝頼の代に裏切り、織田信長に従う際に弟を人質に差し出し、これを知って激怒した勝頼によって人質達は磔にされた……………。夫の背信、兄の仕打ちに深く傷ついた真理姫は木曽の山奥深くに隠棲し、その後九八歳で没するまで五五年の長きに渡って隠者の如く暮らした………。

 少し話はそれたが、武田家に差し出された人質とは、典型的な人質で、長篠の戦いに際して武田家から徳川家に寝返った奥平貞昌(信昌)も、徳川の世で家康長女の姻戚として松平の姓すら与えられたが、やはり人質として甲府にいた妻・おふう(一六歳)と弟・仙千代(一三歳)が殺されている。

 そんな武田家に真田昌幸は人質として差し出された。信玄の真田家への信頼度がどうあれ、多くの国人衆、姻戚からさえも人質を取っていた信玄にしてみれば、公平性の観点からも新参者で信濃衆である真田から人質を取らないと云う選択肢はなかったと思われる。
 そして歴史の結果を知る後世の我々からすれば、武田家滅亡のその日まで、真田一族は武田家にとって忠義に熱く、頼り甲斐のある一族だった。


待遇 人質に差し出された者の命運は預け先当主の胸先三寸である。
 実家の父兄が預け先を裏切ればかなりの確率で殺される。勿論例外もあるが、「裏切らないことを示す生き証人」なのだから、人質が殺される際には、「裏切ったら、大切な身内はこんな悲惨な死に方をするんだぞ。」ということを示す、謂わば、見せしめとしての意味合いもある。歴史上には預け先に気いられながら、実家の裏切りによって預け先が涙飲んで惨殺した人質もいたことだろう。

 結論を書くまでもないが、真田昌幸はとても人質とは思えない程優遇された。
 勿論昌幸も父・幸隆が信玄に反逆したら勿論、「反逆したのでは?」、「敵に内通したのでは?」との嫌疑を受けただけで殺されることは充分考えられた。実際、武田氏は最終的に身内、姻戚、国人衆が次々と離反したことで急速に弱体化して滅びた。一般に武田信玄の死から二年後に長篠の戦いで数々の重臣を失う大敗をしたことで信玄の死と共に弱体化したイメージがあるが、薩摩守の見立てでは滅亡の三年前までは盛り返す可能性は残されていたと見ている。
 ただ、そんな中、真田家は下手な武田家累代家臣や甲斐国人衆よりも忠実に武田家に仕えた。信濃衆の一翼である幸隆が味方に付いたことで武田家による信濃攻略は急速に進んだ。幸隆の子、信綱・昌輝・昌幸・信伊も各々有能で、武田家の時代を担う貴重な人材と目された。

 だが、味方にして頼もしい新参者は、いつか裏切った際に手強い難敵となりかねない。本作では人質としての昌幸に注目しているが、次兄・昌輝、弟・信伊も人質として甲府に出仕していたことを付け加えた甲斐、そんな中、昌輝は使い番・百足衆、信伊は槍奉行として信玄に近侍し、昌幸は奥近習衆として信玄の側近くに仕えた。
 人質であろうと、なかろうと、彼等はそれ以前に「武田家家臣」で、主君にしてみれば使い勝手のいい人材であるに越したことはない。そしてそれ以上に忠実であることが求められる。当然ながら側近くに仕えている者が裏切ればもっとも油断ならない暗殺者と云うことになる。

 長々と書いたが、信玄は信玄で真田家の忠義と有能さを愛で、他の国人衆の手前、幸隆の子供達を「人質」としたが、心中では「有能な側近」、「教え外のある教え子」と見ていたことだろう。
 そして後に昌幸はその炯眼と有能さをして、信玄に「我が目である。」と云わしめた。サブタイトルに書いたことを最後に繰り返したい、「これのどこが「人質」だ?」と(笑)。


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和七(2025)年八月一日 最終更新