第参頁 松平元康………微妙な優遇と冷遇
人質名簿 参
名前 松平元康(まつだいらもとやす) 生没年 天文一一(1543)年一二月二六日〜〜元和二(1616)年四月一七日 身分 三河安城松平家後継者 実家 三河安城松平家 預け先 尾張(織田信秀)→駿河(今川義元) 人質名目 忠誠の証 冷遇度 五 人質生活終焉 桶狭間の戦いに伴う離反・独立
概略 本作の主旨上、松平元康の名を掲げているが、早い話、徳川家康のことである。例によって、超有名人なので「概略」は本当に省略(笑)。
人質経緯 まあ、有名過ぎるほど有名な話だが、松平元康、幼名・竹千代が三河・松平広忠の嫡男として生まれたとき、松平家は弱小勢力だった。
東三河の一角、岡崎の地方領主に過ぎず、駿河の今川義元と、尾張の織田信秀という二大勢力に挟まれ、どちらかに従わねば忽ち滅ぼされる立場にあった。
まあ、そんな国人領主時代は戦国の世には全然珍しくない例で、広忠は今川に随身しつつ、同じ西三河の国人領主であった水野忠政の娘・お大を正室に迎え、三河で連合しつつ、今川の後ろ盾の下、戦国の世での生き残りを図っていた。
そして竹千代が六歳の時、今川義元は広忠に対して竹千代を人質に差し出す様に要求。広忠に選択の余地は無く、泣く泣く竹千代を駿府に向かわせたが、その途中、継室・真喜姫の父、戸田康光の裏切りに在って渥美半島を東に向かう筈が西に連れ去られ、尾張の織田信秀の元に届けられた。
敵の嫡男を得たのは大きな手駒である。当然の様に信秀は竹千代の身柄をたてに広忠に対して自分に随身するよう要求したが、広忠はこれを断固として拒否し、親今川の立場を貫いた。
この広忠の義理堅さには義元も感心し、三河に増援の兵を派するとともに即座に戸田康光を滅ぼした。
幸い、竹千代は掛かる展開を経ても害されることはなかった。そして二年後に今川方の軍師・雪斎禅師が安祥城の戦いで信秀の庶長子・信広を捕えたことで両者の間で人質交換が為され、竹千代は織田家から解放された。 だが、人質生活は終わった訳では無く、竹千代はそのまま駿府に送られ、人質生活はその後一〇年以上も続いた。
天文二四(1555)年三月、義元を烏帽子親として竹千代は一四歳で元服し、松平次郎三郎元信と名乗った(程なく、「信」の字が「織田信長」に通じるとのことで、祖父・清康の一字を取って、「元康」と改めた)。
その後元康は義元の姪・瀬名(関口親永の娘)を娶り、一男一女が誕生するも若年を理由に岡崎への帰国を許されず、先祖への墓参りを目的とした一時帰国が何とか許される様な有様だった。
だが、人質の日々は急遽終焉した。
永禄三(1560)年、義元は打倒織田信長の兵を挙げ、二万五〇〇〇の大軍を率いて東海道を東進し、元康はその先鋒を命ぜられた。初陣の元康は大高城への兵糧運び入れや、丸根砦攻略に活躍し、義元も大いに称賛した。
だが、その義元が五月一九日に桶狭間で信長軍の奇襲に遇い、まさかの討ち死にを遂げた(桶狭間の戦い)。義元の訃報を知った元康は、総大将を討たれた今川勢が壊乱・四散する中、これを好機として故郷・岡崎に戻ると、「織田勢の追撃を食い止める。」との云い分で岡崎に留まり、「すみやかに撤収せよ。」という氏真の命にも従わなかった。
元康自身は人質の身を脱し、念願の故郷に帰れたが、駿府には妻子が残されていた。勿論自分に代わる人質状態である。
最終的に元康は今川家の部将・鵜殿長照を討ち、その妻子を捕えて人質にすることで、人質交換にて瀬名と息子・竹千代(信康)、娘・亀姫(加納御前)を取り戻し、松平家が何者かに臣従する日々は終わり、元康は徳川家康と名乗りを改め、脱今川・親織田としての道を歩み出したのだった。
待遇 これまた微妙である。今川義元の松平家に対する遇し方は正に飴と鞭である。
義元にとって、松平党は自身に遥かに及ばない弱小勢力ではあっても、是非とも味方につけておきたい存在だった。何せ松平広忠は今川随身一択を徹底していた。いくら弱くてもこういう人物は誰だって大事にしたい。
少し話が逸れるが、義元の松平元康への遇し方を検証する為にも、今川家と松平家の関係を振り返る必要がある。
元康の父・広忠は名君と云われた父・清康が不慮の事故にて二六歳の若さで落命した際、若干一〇歳で家督を継承したものの、当然の様にまともに家中をまとめることが出来なかった。父の為した三河統一が瓦解し。自らも命を狙われた広忠は義元の後援を受けて岡崎に戻るのに五年の月日を擁した。
こうなると広忠にとって、義元は単純な力関係による服従に加えて、恩義も大きかったことだろう。期間後すぐに正室を迎えた広忠だったが、岳父・水野忠政の死と共に義兄・信元が織田に随身すると広忠は泣く泣く妻を離縁した。偏に今川への忠義の証である。松平家を守る手段として今川の後ろ盾を得る為、文字通り妻子も顧みなかったのだった。
さすがにここまでされては義元も広忠に感じるところは大きかったことだろう。
加えて、清康・広忠・元康を累代に渡って支えて来た、頑固一徹・忠義一徹の松平党は味方にすれば頼もしいし、敵に回せば厄介な手合いである。
故に義元は元康を手元に置いて、それなりに優遇しつつも、松平党が決して今川に反旗を翻さないように、容易に身柄を返さず、元康に妻子が出来れば彼等に人質としての役割を継承させたのだろう。
徳川家康を主人公とした伝記小説・伝記漫画では、家康がこの人質生活送った忍従無限の日々が天下人たる家康を鍛え、育て上げたとしている。
正しい物の見方だと思う。だが、今川家中はただただ元康を虐げたのではない。過去作「師弟が通る日本史」で触れたが、義元は元康に雪斎禅師と云う当世最高の師を宛がい、その才能を開花させた。そのとき、薩摩守は義元が元康及び松平家を軽く見ていたら、元康を馬鹿殿に育て、間違っても可愛い姪を嫁がせるようなことはしなかっただろう。
実際、元康が瀬奈を娶ったことで「義元の義理の甥」となると、今川家中もそれまでの元康に対する上から目線を改めて慇懃に接する様になったと云う。歴史にifを云い出せばキリがないが、義元が桶狭間の戦いに斃れることなく、織田家を滅ぼして勢力を拡大していれば、松平家は今川麾下の重鎮になっていたのは充分考えられる話である。というか、今川家とて勢力が拡大すればするほど信頼の出来る外様勢力が必要となる。早くから随身した松平家がそのように遇されることは充分考えられる話である。
勿論、歴史の結果は周知の通りである。だが、最終的に天下を取った家康は、義元の後を継いだ氏真を殺さず、保護した。もし今川家での人質生活がただただ惨めなものだったら、氏真は何処かで命を奪われていたのは想像に難くない。
氏真自身昨今は見直されているし、生かして手元に置いておいたことに家康なりの計算もあったとは思うが、やはり義元が生前元康に対して、人質・格下の立場に置きつつも、優遇すべきは優遇したことから、義元や今川家に対して恩義は恩義として感じるところはあった故に今川家は滅ぼされなかったと見るべきだろう。
とはいえ、元康にとっての人質生活に惨めな面が無かった訳では、当然、ない。
継祖父の裏切りで織田家に送られた時は本当に何時殺されてもおかしくなかったことだろう。結果的に二年で今川家に送られたが、織田家にいた時間がもう少し長ければ、いつ何時如何なる情勢変化を受けて竹千代は殺されていてもおかしくなかった。
そしてその間、父は殺され、葬式に出ることも、墓に参ることも出来ず、今川家中に留め置かれた。先祖供養を理由とした一時帰国が認められたのは元服後のことだった。しかもこの間、岡崎城には今川家から派遣された城代が元康代理として松平党に対して主君の如く振舞い、墓参帰国した元康は本丸に入ることを許されず、二ノ丸で寝起きしたと云う。
些か強引な例えだが、現代風に例えると、大企業が小企業若社長を研修名目で自社内に留め置き、補佐を名目に大企業から出向してきた者が小企業の全社員を顎で扱うに等しい。例え若社長が大企業内で優遇されていても、自社をこんな風に扱われて心底納得する者等皆無と云って良かろう。
そして今川対織田の戦いが続く中、松平党は常に戦死率の高い最前線に配され、桶狭間の戦いにおいても、元康は先鋒を命じられた。恐らくは幼主を手元に握られた松平党の奮戦しつつ、敵と相討ちのような形で消耗して今川家に逆らう力をなくすことを期待していたのだろう。
歴史の結果として元康は桶狭間の戦いにおける義元横死を機に人質生活に終止符を打ったが、しばらくの間妻子が駿府にて人質状態にされ、妻子を取り戻し、今川支配から完全に脱するとその報復として、瀬名の父・関口親永が氏真より切腹を命じられた。
完全に立場が逆転するまで、今川家が松平家を睥睨しており、それに松平家が少なからぬ屈辱を抱いていたことは否定出来ないだろう。
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令和七(2025)年七月一四歳日 最終更新