第陸頁 織田勝長………なし崩し的養子縁組

人質名簿 陸
名前織田勝長(おだかつなが)
生没年永禄八(1565)年〜天正一〇(1582)年六月二日
身分織田弾正忠家一員
実家織田家(父は織田信長)
預け先甲斐(武田信玄)
人質名目なし崩し的な養子縁組
冷遇度
人質生活終焉強制送還


概略 織田信長五男として永禄八(1565)年に生まれたとされるが、正確な生年は不明で、母親に関しても不明。幼名・御坊丸、長じて通称・源三郎勝長と名乗った (「信房」とするものもある)。

 元亀三(1572)年八月一四日に信長の叔母・おつやが嫁いでいた美濃岩村城主・遠山景任が亡くなったときにその養子として岩村城に入った。
 遠山氏は織田と武田という強豪大名に挟まれて生き残りに苦慮する国人一族で、景任が嗣子なくして死去したため、家中の親織田派の家臣達が申し入れて信長の子を貰い受け遠山氏を嗣がせるのが目的だった。

 だが僅か三ヶ月後の同年一一月、甲斐の武田信玄の西上作戦に際し、武田方の秋山信友が信濃から東美濃に侵攻し、岩村城を包囲した。進退窮まった城内では親武田派の家臣達が降伏を勧め、岩村城は開城・降伏した。
 おつやの方が秋山虎繁を夫として迎え入れ、幼主となった御坊丸を養育することを条件として、武田方との和議が結ばれ、同月一四日、武田軍は岩村城へ入城した。
 翌元亀四(1573)年二月、信友とおつやは正式に夫婦となり、御坊丸は甲府に送られ、人質となった。

 程なく、信玄が没し、(正式ではなかったが)跡を継いだ勝頼は天正二(1574)年に伊奈・岩村を足掛かりとして東美濃に侵攻。更には遠江・高天神城を攻略した。だが翌天正三(1575)年長篠の戦いにて勝頼は大敗し、岩村城も織田信忠によって奪還された。
 何とか劣勢挽回を図らんとした勝頼だったが、天正八(1580)年三月、越後の上杉謙信急死に端を発した後継者争い(御館の乱)で上杉景勝(謙信甥)に味方したため、上杉景虎(謙信養子・北条氏康七男)は敗死し、武田と北条は断交した。
 勝頼は常陸の佐竹義重を介して信長との和睦を試み、和睦交渉の結果、勝長は天正九(1581)年に返還された。
 だがこの和睦は上辺だけだった。父である信長は既に武田氏を滅ぼす方針を固めており、北条氏とも連携し武田領を挟撃する算段となっていた。

 美濃に帰還した勝長は安土城で信長と対面し、信長は勝長を尾張犬山城城主とし、小袖・刀・鷹・馬・槍などその他いろいろ取り揃えて贈り、勝長の側近にまでそれぞれ相応のものを贈ったという。
 そして天正一〇(1582)年三月、長兄・信忠を総大将とする織田・徳川連合軍が甲斐に侵攻し、勝長も兄に従って参陣した。
 同月一一日、武田家は滅亡し、勝長は主に上野方面での戦後処理に尽力したとされている。

 だが三ヶ月も経たない同年六月二日、本能寺の変が勃発し、二条城にて信忠とともにあり、明智光秀の軍勢に攻められて奮戦の末に討ち死にした。織田勝長享年一七歳。


人質経緯 ほぼ上述しているが養子として迎えられた遠山家が織田家から武田側に寝返り、事実の城主である大叔母・おつやが敵将の妻となったことで織田勝長(←この時はまだ元服前)は武田軍に囚われの身となった。

 敵軍に捕らえられたのだから、本来なら勝長の命はそこでなかった。岩村城陥落の翌月に武田信玄は三方ヶ原の戦いで徳川家康軍を撃破していた。武田家は織田・徳川軍に対して大攻勢の絶頂に在ったと云って良い。
 だが、勝長は殺されず、人質として甲府に送られるに留まった。思うに、これは勝長を殺さないことで織田軍の戦意向上を防がんとする狙いがあったのではあるまいか?歴史の結果として、三方ヶ原の戦いに大勝し、家康の運命を風前の灯火に追い込んだ進言だったが、その後すぐに病没した。臨終時に信玄が自分の死を三年秘すよう遺言したのは有名だが、武田家は信玄の死を含む、万が一を想定し、勝長を殺して織田軍の怒りを買うよりは、人質とすることで織田軍の矛先を鈍らせようしたというのは充分に考えられる。

 加えて、おつやを含む遠山家中も勝長を殺せば目覚めが悪かったと思われる。
 何せ自分達から勝長を遠山家の養子に申し入れながら、武田方の降伏勧告に応じ、主君の叔母が敵将の妻となり、主君の息子が捕らえられたのである。当然この背信に対する信長の怒りは凄まじく、後に岩村城を奪還した際、信長は秋山信友と(実の叔母である)おつやを逆磔という残酷刑で処刑した。
 おつやも(独力ではどうにもならない事情もあっただろうけれど)甥を裏切って、養子にして大甥が囚われた訳だから、これで勝長が殺されたとあっては外聞が悪過ぎる。それ故、おつやは秋山信友の妻となることで養子である勝長も「武田の子」となることで、実質は人質だが、体裁だけでも「武田家養子」と云う形を取ったと思われる。ま、信長には通じず、ただただ「裏切者に息子まで奪われた!」としかならなかった訳だが。

 尚、『信長公記』によると、信玄から信長の末子を養子にしたいという要望があって甲府に出されたが、その後武田氏と織田氏の間の関係が悪くなって戻ってきたとしているが、まあ同書の性質からして、「息子を奪われた!」という事実を恥として違う書き方にした可能性はあると思われる。。


待遇 最終的に織田信長・信忠が武田家を滅ぼした訳だが、織田家と武田家の仲は何とも複雑である。

 桶狭間の戦い半ばまぐれで勝利した信長は次の敵を美濃の斎藤龍興と定め、北近江の浅井長政を初め、多くの大名家と(一時的な)同盟を結んだのは有名だが、その状況下で信長は武田家との友好にも務めた。
 信長は自分の姪であった遠山直廉の娘・雪姫を養女として、信玄の四男・勝頼と婚姻させた(皮肉にもこの直廉は、おつやの夫・遠山景任の弟である)。勝頼夫婦の間には息子・信勝も生まれたが、不幸にも産後の肥立ちが悪かったため、雪姫は程なく世を去った。
 雪姫逝去の報に驚いた信長は武田家との艫綱を失うことを恐れ、早速自分の長子・奇妙丸(信忠)と信玄の五女・松姫との婚儀を整えるほど、信長は信玄との融和に努め、甲州勢を敵に回すことを可能な限り避けんとした。

 歴史の結果として、信玄は駿河に食指を延ばし、甲駿相三国同盟は瓦解し、将軍足利義昭が諸国の大名に送った信長討滅の御内書に応じたことで織田と武田は敵対関係に陥った。そのため、信忠と松姫は結ばれず、生涯顔を合わすこともなかったが、松姫は信忠だけを愛し、武田家滅亡後も同母兄・仁科盛信の娘二人を育てつつ、信忠と武田一族の菩提を弔い続ける人生を送った。
 ともあれ、そんな複雑な織田家と武田家の関係にあって、敵対しつつも、常に和睦の道も(一時的な方便だったかも知れないが)模索され続けた。
 信長自身、最終的には室町幕府を滅ぼし、武田を含む諸大名を滅亡に追いやったが、討滅一辺倒だった訳では無く、状況に応じて朝廷や義昭を介した和睦に応じたこともあった。勝長が安直に殺されなかったのもその辺りに理由があったのだろう。

 武田家が信長と和解する際に、もし勝長を殺していたり、邪険に遇していたりすれば、まとまる話もまとまらない。それ故、甲斐に連れられた勝長は名目上、「信玄の養子に迎えられた。」とし、元服に際しては勝頼の「」と信長の「」を取って、「勝長」と名乗ったのだろうし、滅亡直前の勝頼が勝長を織田家に送り返したのも、信長の矛先を鈍らそうとの意図もあったのだろう。

 余談だが、道場主が織田勝長の存在を知ったのは大映ドラマ『おんな風林火山』でのことである。ドラマ故の誇張や史実と異なる局面(史実では生涯顔を合わさなかった織田信忠(松村雄基)と松姫(鈴木保奈美)が密かに会い、キスまでしている)もあるのだが、同ドラマでは織田家との緊張が高まる中、武田五姉妹の多くが勝長(坂詰貴之)を白眼視・冷遇する中、松姫だけが勝長に温かく接していた。
 松姫の好意に絆された勝長も信忠と共に織田と武田の和解に努め、松姫の婚約者だった兄・信忠と行動を共にし、最期は本能寺の変に際して信忠と刺し違えた(このとき、まだ少年だった勝長の腕力が弱かったのか、信忠は勝長を指した直後に自分の咽喉を貫いている)。
 勿論、このドラマの勝長像を鵜呑みにするつもりはないが、他に勝長の出て来る作品が少なく、人物像を参考に出来ないのが薩摩守の本音である(苦笑)。
 ただ、織田家と武田家の複雑な関係、敵対と和睦を繰り返した大名家の在り様を考察するにおいて、この織田勝長と云う人物は大きな参考となり、もっともっと注目されて欲しい人物とも思う次第である。




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令和七(2025)年八月二日 最終更新