第漆頁 黒田長政………誅殺危機と大恩助命

人質名簿 漆
名前黒田長政(くろだながまさ)
生没年永禄一一(1568)年一二月三日〜元和(1623)九年八月四日
身分黒田家後継者
実家黒田家(父は黒田官兵衛)
預け先 織田家?羽柴家?
人質名目忠誠の証
冷遇度
人質生活終焉父の潔白判明


概略 豊臣秀吉の謀臣として名高い黒田官兵衛(如水)とその正室・光(てる)の間に嫡男として永禄一一(1568)年一二月三日に播磨姫路城に生まれた。幼名は松寿丸

 父の官兵衛は、元々は播磨御着の領主・小寺政職(こでらまさもと)の家老だった。小寺家は室町時代播磨の有力守護大名赤松氏の支族だったが、赤松氏はやがて戦国の下克上で実力をつけた織田氏と毛利氏の狭間で苦しむこととなり、政職は織田信長に突くこととなった。
 自分に味方した播磨の諸氏に対して信長は人質を差し出すことを求め、政職は自分の子が病弱なのを理由に官兵衛の子・松寿丸を代理人質とした。時に天正五(1577)年一〇月一五日、松寿丸八歳の時のことだった。

 松寿丸は羽柴秀吉の居城・長浜城に預けられ、秀吉・おね夫婦に可愛がられて育った。
 だが、天正六(1578)年、一度信長に降伏した摂津有岡城城主荒木村重が信長に反旗を翻し、これを説得に向かった官兵衛が行方を発った。
 説得に失敗した官兵衛は有岡城の土牢に閉じ込められていたのだが、そのことは織田家中に知らされず、信長は官兵衛が裏切ったと思い込み、松寿丸の殺害を命じた。だが、官兵衛と並ぶ秀吉の軍師的存在だった竹中半兵衛重治がこれを庇い、信長には松寿丸を斬った、と虚偽の報告をした。

 約一年後に有岡城が陥落した際に官兵衛は助け出され、裏切っていなかったことが判明。信長がめちゃくちゃ気まずい思いをしていたタイミングで秀吉は松寿丸を殺していなかったことを白状し、信長は官兵衛に詫びるとともに人質としての松寿丸の任は終わった。
 長じて黒田長政となると父とともに秀吉に仕え、数々の戦いに従軍し、九州平定後に官兵衛は豊前中津に一二万石を与えられ、国人領主の統治に勤めた。

 天正一七(1589)年、秀吉の天下統一を目前にして官兵衛が隠居し、長政は家督を継いだ。その後朝鮮出兵にも従軍し、秀吉麾下の大名としては武断派に位置し、石田三成や小西行長といった吏務派の大名と対立を深め、豊臣秀吉・前田敏江が相次いで世を去ると七将(長政・加藤清正・福島正則・細川忠興・加藤嘉明・脇坂安治・浅野幸長)による石田三成襲撃にも加担した。
 三成達と対峙したことから長政は既に徳川家康に接近し、家康養女を室に迎えていた。秀吉薨去後の世を徳川の世と見据えていた長政関ヶ原の戦いに際しても吉川広家・小早川秀秋を初めとした西軍諸大名への調略に尽力し、東軍大名の結束・西軍大名の寝返りは長政の尽力によるところが大きく、戦後黒田家は筑前名島に五二万三〇〇〇石を与えられた。

 その後領国経営に専念。慶長九(1604)年に父・官兵衛が亡くなると完全な当主にして初代福岡藩主となり、キリシタン大名だったこともあって海外交易にも力を入れた(後に江戸幕府の威光に従って棄教)。
 慶長一九(1614)年、大坂冬の陣が勃発すると、豊臣恩顧大名として警戒されていた長政は同じ立場の福島正則・加藤嘉明と共に江戸城留守居を命じられたが、続く大坂夏の陣では従軍を許された(正則だけは許されなかった)。
 その後は藩主として藩内の特産品を巡る産業を奨励し、元和九(1623)年八月四日、京都の報恩寺にて逝去した。黒田長政享年五六歳。
 その後、黒田家は黒田騒動の様な事件もあったが、他の豊臣恩顧大名が次々と改易に追いやられる中も幕末まで存続した。


人質経緯 殆んど上述したが、織田信長への忠誠の証である。
 尾張・美濃・近江と本拠地を京に向かって前進させてきた信長にとって、播磨は中国攻略への玄関口だった。信長は中国侵攻の前哨戦として羽柴秀吉に播磨各地を攻めさせた。
 程なく官兵衛の旧主・小寺政職を初めとする播磨国人衆が信長に臣従したが、いきなり彼等を信用するの無理があったことだろう。何せ室町初期の有力守護赤松氏の支族として先祖代々その地に根を張っていた彼等は本来信長に臣従する謂われはない。単純に実力でのし上がる世である戦国時代にあって、大勢力となった織田家と毛利家の狭間で生き残りに苦慮していたのである。

 そんな中、時代の先を見通す目を持っていた黒田官兵衛は早々に秀吉を通じて信長に従ったが、信長にしてみれば「新参者」と云う意味では他の諸家と大差なかったことだろう。また当時の信長は足利義昭を奉じて畿内を押さえ、将軍家を追放し、浅井・朝倉を滅ぼしたとはいえ、東に武田信玄という難敵を抱えていた。更に各地の国人領主は土着の既得権益に固執する、向背定かならぬ存在だった。
 まあ、「国人衆」の名が示す通り、これは信長に限らずだれにとっても同じだったと云える。そして実際に荒木村重・小寺政職は信長を裏切った。何の担保も無しに播磨の諸氏が自分に従うと考えていたとすれば、御人好しを通り越して馬鹿とすら云える。

 勿論信長は、間違っても馬鹿ではない。当時の通例から云っても播磨の諸氏に人質差出を求めたのは必然で、その結果、上述した様に政職子息の代理として松寿丸が人質となったのだった。


待遇 まあ、悪くなかったと思う。恐らく織田信長も黒田家は自分に忠実と思っていたのだろう。それを証明するのが松寿丸の預け先である。
 これも上述したが、人質となった松寿丸が起居したのは近江長浜城だった。周知の通り、長浜は一国一城の主になると云う夢を叶えた木下藤吉郎が、自らの名乗りを羽柴秀吉に改めるとともに、それまで「今浜」と呼ばれていたのを「信長」の「長」を取って「長浜」と改めて、秀吉の人生におけるターニングポイントとなった地でもある。
 もし、信長が官兵衛の忠誠を頭から疑っていれば、信長は岐阜か清州を松寿丸の預け先としたことだろう。

 謂わば、信長は秀吉を信用して、松寿丸を秀吉に預け、人質としての管理を任せた訳である。そしてその生涯において様々な形で数多くの人質を取った秀吉だったが、自身なかなかに子宝に恵まれなかったこともあって、立場は人質でも秀吉に可愛がられた者は数多くいた(この後の頁にも同様の人物が登場します)。
 勿論松寿丸は秀吉にも、その正室おねにも可愛がられた。恐らく、官兵衛の行方不明事件が無ければ、「長政は一時織田家の人質として長浜に預けられた。」の一文で終わっていて、人質としての長政がクローズアップされることも無かったことだろう。

 だが、周知の通り、裏切った荒木村重を説得する為に摂津有岡城に向かった官兵衛が行方を発つと云う事件が起きた。信長は帰って来ない官兵衛が、実際には監禁されていたのを知らず、「裏切った!」と決め付け、見せしめとして松寿丸の殺害を秀吉に命じた。
 上述しているし、過去作にも何度となく記したが、秀吉はこの命令に従わなかった。否、正確には「秀吉から松寿丸を殺す様に命じられた竹中半兵衛がこれに従わず、こっそり匿った。」と云う体裁を取った。

 というのも、結果オーライになったとはいえ、信長からの松寿丸殺害命令に従わないのは、命令不服従である。現代で例えて云えば、法務大臣が命じた死刑執行命令に拘置所職員・刑務官が従わないのと同様で、これに対する処罰は時代の相違があるにせよ、とんでもない命令不服従であることは御理解頂けると思う。もし命令不服従が発覚すれば、秀吉及びその郎党の命だって危うかった。
 思うに、この時点で不治の病に冒され、余命幾ばくもなかった半兵衛は事が露見した際にはすべての罪を自分が被るつもりでいたのだろう。松寿丸は半兵衛の居城・菩提山城の城下・不破矢足に預けられ、一説には生死を確認されることを懸念し、女装させられたと云う(←当時の戦国武将としてはかなりの屈辱だった筈である)。

 ここで薩摩守が思うのは、「松寿丸を始末しました。」と云う報告を信長があっさり信じたことである。普通なら「殺したという証」を求める筈である。フィクションの話だが、『白雪姫』で継母から白雪姫の殺害を命じられて、彼女を逃がした猟師は姫のマントに猪の血を塗って「殺害の証拠」としていた。
 少し疑り深い人間なら、マントに血がついているぐらいでは信用しないだろう。それを首も血も見ず、「殺しました。」という口頭、または書面による報告を受けた信長はそれ以上の詮索をしなかった。官兵衛は信じられずとも、秀吉を信じていたと云えばそれまでかも知れないが、本来人質の命を奪う時とは、人質を預けた者が裏切ったことへの報復にして、他に人質を差し出している者達に対する見せしめの意味合いが強い。もし、信長が松寿丸を晒首にするよう命じていたら、秀吉や半兵衛はどうしていただろうか?まあ、幼児死亡率の高い当時のこと、幼くして亡くなる子供はたくさんいただろうから、そこから偽装したと思われるが。

 思うに、官兵衛が行方を発つと云う事件が起きてしまったから信長は松寿丸殺害を命じ、それを巡る「現実は小説よりも奇なり」を地で行く展開があった訳で、本来松寿を人質としたのは形式的なもので、それほど重要視したものでもなかったのだろう。
 結果的に官兵衛は裏切らず、松寿丸長政も死なずに済んだが、もし松寿丸が無実の罪で殺されていたとなれば、官兵衛は信長を骨髄まで怨んだだろう。また、秀吉だってどう動いたか分からない。
 ともあれ、官兵衛が救出され、裏切っていなかったことが判明する四ヶ月前、竹中半兵衛は病死していた。事の判明を知った信長は殺害命令不服従を責めず、人質としての松寿丸の任を解き、官兵衛への手厚い介抱(←監禁生活で官兵衛の体は大きく蝕まれていた)を信長は命じた。
 もし、信長が掛かる事件を経て尚、黒田家を信用していなかったとすれば、命令不服従への咎をたてに松寿丸を引き続き人質とし続けていたことも考えられる。

 誠、殺すにせよ、殺さないにせよ、どこかでボタンの掛け違えがあれば、事は松寿丸一人の命だけでは済まない大問題となり、大いなる遺恨となっていたところだった。身柄を預かり、背信に対しては命の危機さえあるのを仄めかすのが人質の意義だが、実際に殺すのは簡単ではないことをこの一件に教えられるものである。


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令和七(2025)年八月二日 最終更新