第捌頁 北条氏秀………見捨てたのは誰だ?

人質名簿 捌
名前北条氏秀(ほうじょううじひで)
生没年天文二三(1554)年〜天正(1579)七年三月二四日
身分小田原北條家一員
実家北条家(父は北条氏康)
預け先上杉家
人質名目養子入り
冷遇度
人質生活終焉自然消滅


概略 「北条氏秀」と書けば、「誰?それ?」と思われる方も中にはいらっしゃるかもしれない。だが、「上杉景虎の初名である。」と云えば、「ああ、北条家から謙信の養子になった景虎のことね。」と理解される方は多いだろう。
 詰まる所、北条氏康の七男で、上杉謙信の養子となることで謙信より彼の初名である「景虎」の名を与えられた人物で、後に御館の乱で命を落とした上杉景虎のことである。

 天文二三(1554)年、相模の大名・北条氏康を父に、遠山康光の妹を母に生まれた。幼名は三郎。北条家の家督は三郎が六歳の時に一六歳年上の兄・氏政に譲られており、七男に生まれた三郎が北条氏の家督を継ぐ可能性は零に等しく、幼少時に箱根早雲寺に預けられて出西堂と名乗り、僧として過ごしていたという。

 永禄一二(1569)年、三郎改め氏秀は大叔父に当たる北条幻庵の養子となり、幻庵の娘を妻とした。同年六月、武田信玄が相甲駿三国同盟を破って駿河の今川氏真を攻め、氏康・氏政は信玄と手を切り、越後の上杉謙信と同盟を締結した。

 同盟締結に際し、当初は氏政の次男・国増丸を養子兼人質として謙信の元に差し出すことが決められた。しかし氏政が国増丸を手放すのを拒んだため代わりの人質を求められ、氏秀が永禄一三(1570)年三月に謙信への養子となることが決まり、謙信の姪・清円院(上杉景勝の姉)を氏秀に娶らせることが約束された。
 同年四月一一日、氏秀は上野沼田で謙信と面会し、越後へ同行。同月二五日、春日山城にて清円院との祝言が行われ、正式に謙信の養子となると、謙信の初名でもあった「景虎」の名と、春日山城三の丸に屋敷を与えられた。

 謙信と氏政の間で締結された越相同盟は決して強固なものではなく、信玄が足利義昭・織田信長を通じて上杉氏との和睦を申し入れたり、佐竹氏等関東の勢力を介して北条氏への牽制を行ったりしたこともあって、北条氏内部においても氏康と氏政の間で越相同盟の維持か甲相同盟の回復かで路線対立があったという。

 元亀二(1571)年一〇月三日、氏康は臨終に際してそれまでの越相同盟が有りながら、謙信が援軍を出し渋り続けたことを理由に、謙信との同盟を破棄し、再度信玄と結ぶよう遺言した。
 氏康生前は意見を異にした氏政だったが、遺言には従った。このとき、景虎は父の臨終に立ち会う為小田原に戻っていたが、その後越後へ戻り、相越手切れ後も「謙信の子」で在り続けた。

 天正六(1578)年三月一三日、養父・上杉謙信が急病死した。厠で倒れた謙信は明白な遺言を残さず、その結果、家督継承をめぐって景虎と上杉景勝(謙信姉の子)が対立し、越後内戦となった(御館の乱)。

 景虎は上杉景信・本庄秀綱・北条高広等の支持を集め、実家である北条家とその同盟国である武田勝頼(氏政・景虎の妹を継室に迎えていた)の後ろ盾もあり、当初優勢であった。
 これに対し、景勝側はいち早く春日山城本丸・金蔵を奪取し、謙信の遺言を正式に受けたと主張した(←勿論大嘘の可能性大)。
 五月一三日、景虎は妻子を連れて春日山城を脱出し、城下にある御館(前関東管領である上杉憲政、つまり義理の祖父の屋敷)に立て籠もった。だが、実家は主力が佐竹・宇都宮連合軍と対陣中で動けず、景虎は武田勝頼に援軍を打診し、勝頼は信越国境まで武田軍を出兵させた。
 六月、景勝は勝頼に和睦を提案し、北信地域における上杉領の割譲を条件に和睦が成立し、甲越同盟が締結された。
(あくまで名目上)中立の立場で勝頼は越府に着陣すると、景勝と景虎間の調停を開始し、八月に景虎と景勝は一時的に和睦が成立した。だが、八月に武田軍が撤兵する景虎と景勝の和睦も破綻し、再び両者の間で戦いが始まった。

 一方で北条氏は北条氏照・氏邦らが三国峠を越えて越後に侵入し、荒戸城を落とし、さらに景勝の拠点であった坂戸城の至近である樺沢城をも落としてこれを本陣とした。しかし樺沢城の北条軍はそれ以上軍を進めず、樺戸城に氏邦勢と北条高広・北条景広等を残して、三国峠に冬が来る前に関東に一旦撤兵した。景勝はこの機を逃さず攻勢を強めた。

 天正七(1579)年三月一七日、三国峠の雪解けを前に御館は落城。清円院は実弟・景勝による降伏勧告を拒絶して自害した。嫡男の道満丸も上杉憲政に連れられ景勝の陣へと向かう途中に、憲政共々何者かに殺害された。
 孤立無援となった景虎は、実家の北条氏を頼って小田原城に逃れようとしたが、その途上、鮫ヶ尾城主の堀江宗親の裏切り・謀反に遭って自害した。上杉景虎享年二六歳。

 御館の乱における上杉景虎北条氏秀の死が武田家と北条家との甲相同盟を破綻させ、それ以降の地域情勢にも大きく影響したのは云うまでもない。


人質経緯 殆んど上述しているが、北条家・上杉家共に武田家を仮想敵国とした軍事同盟だった。

 北条家にとって重要なのは関東立国で、「関八州の覇者」としてのイメージの強い北条氏だったが、実際に関東は関東公方家・関東管領家が隠然たる力を持ち、その支持・不支持を巡って常陸の佐竹、下野の宇都宮、結城、といった鎌倉時代以来の名家とも対立していて、その関東支配は必ずしも盤石ではなかった。
 それ故、北条氏康は駿河の今川、甲斐の武田との連携を重視した訳だが、そんな中、上杉家と北条家は犬猿の仲だった。
 本来上杉家とは関東管領の家柄で、戦国の下克上で関東に覇を唱えた北条家によってその権威と領土を大きく奪われ、上杉憲政は上杉家累代の家臣である越後長尾家の当主・長尾景虎を養子として、上杉の姓と片諱である「政」の字を与え、上杉政虎と名乗らせた。
 そんな経緯もあり、政虎=謙信は北条氏康と何度も事を構え、小田原城下に押し寄せたこともあった。上杉サイドでは北条氏を「伊勢」と呼び、北条サイドでは上杉氏を「長尾」と呼んで、互いの家格を認めず、氏康は甲斐の武田信玄、駿河の今川義元と相甲駿三国同盟を結んでこれをバックに謙信と対峙した。

 そんな北条と上杉が同盟を結んだ。
 きっかけは信玄による相甲駿三国同盟破棄である。今川氏真は、武将としてははっきり云って信玄の敵ではなく、駿河・遠江の国人衆も氏真を見限り、ある者は信玄に従い、ある者は北条に走り、ある者は家康の傘下となった。
 結局駿河は信玄の手に落ち、北条は上野・駿河を舞台に武田と干戈を交えることとなり、西方の安全が確保出来ず、関八州での覇道に専念出来なくなった。故に、信玄を牽制し、関東諸氏への後押しを防ぐ為にも、上杉謙信と同盟を結ぶ必要性が生じた。

 一方、謙信にとっても、悩みは西方に有った。只でさえ南方に武田信玄と云う戦国の巨獣を控えているのに加え、西の加賀では一向宗徒が守護の富樫氏を滅ぼし、加賀を「百姓の持ちたる国」とし、越前・越後をも脅かす難敵と化していた。
 事ここに至って、両家は軍事同盟締結の必然性が生じ、相越同盟の締結に至った。そしてこの時代、同盟締結時に政略結婚が為され、同盟への担保とすることが通例だったが、生涯不犯の謙信には子が無く、氏康名七男・北条氏秀が謙信の姪(姉の子)・清円院の婿にして、謙信の養子と迎えられることとなった。


待遇 まず、人質よりも養子としてのカラーの方が強く、上杉景虎と、養父。・上杉謙信との親子仲は至って良好だった。
 景虎に養父への想いが無ければ、氏康臨終後に小田原に留まってもおかしくなかったし、謙信の後を継げない、と少しでも感じれば小田原に逃げ帰ってもおかしくなかった(実際に最後は小田原に逃げ帰らんとして失敗した)。
 だが、ギリギリまで「北条氏秀」ではなく、「上杉景虎」であり続けたのも、謙信への想いが強かった故で、それ故に妻の清円院も景勝からの降伏勧告を拒んだと思われる。

 毘沙門天への信仰から、謙信が生涯妻を娶らず、実子がいなかったのは有名で、それ故に謙信は北条氏秀に自らの初名である「景虎」の名を与えて、養子に迎え、一方で姉の子・喜平次景勝を養子に迎えた。
 豊臣秀吉の例にも見られるが、実子に恵まれないと養子でも一際可愛く映るらしい。謙信は二人の養子を可愛がったが、実の甥でもある景勝に対しては養子に迎える前にも戦場での身を案じる手紙を送り、自身の官名である弾正小弼の官名を与えた。
 一方で、血が繋がらず、系図上では姪の婿に過ぎない、旧敵の子である氏秀も大層可愛がり、「景虎」の名を与えたのは愛情の証左とされている。

 歴史の結果として、謙信は景虎と景勝のどちらを後継者にするか明言せずに急死した。結果、双方が自身を正式な後継者と号し、それが御館の乱に繋がった。普通に考えるなら有利なのは景勝である。
 景勝は謙信の外甥だが、父の長尾政景は上田長尾家の当主で、上田長尾家は謙信の家系である越後長尾氏よりも、主家・上杉家に近しい家系だった。ある意味、謙信以上に「上杉本家に近い人間」で、血統上の大義は充分だった。
 そしてその景勝の姉・清円院を妻に迎えているとはいえ、景虎は完全に北条氏の血統である。普通に考えるなら景虎が上杉家の家督を継げば、越後をまとめたところで「北条氏秀」に戻り、越後が北条家のものとなることを危惧する上杉家中や長尾一族が居てもおかしくなかったことだろう。

 だが、乱の当初、争いは景虎優位で進んだ。上杉家の重臣達が景虎に味方したからである。加えて、兄・氏政の統べる実家・北条家と、妹を継室に迎えた武田勝頼率いる武田家が味方した。越後・相模・甲斐が強固に連携し、新たな三国同盟が結ばれればかなり強勢である。
 しかし、最終的に景虎は敗れた。義弟・景勝が春日山城を押さえ、景勝の提案に応じた武田勝頼が手を引き、積雪に阻まれたとはいえ、実家からの援軍も来なかった。つまり、景虎は頼りとした身内・姻戚から見殺しにされた訳である。
 ただ、それでも上杉家中に景虎に随身した者が決して少なくなかったことから、やはり景虎は「同盟担保の人質」というより、「先代様の可愛い養子」としてのカラーが強かったと思われる。


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令和七(2025)年八月二四日 最終更新