第参頁 高山右近………棄教するぐらいなら流刑を辞さず

氏名高山右近(たかやまうこん)
生没年天文二一(1552)年〜慶長二〇(1615)年一月八日
職業キリシタン大名
生まれ故郷摂津三島郡
逝去場所呂宋・マニラ
望郷の念度
概要 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、摂津の大名。典型的なキリシタン大名として有名で、洗礼名はジュスト。「右近」は通称で、諱はいくつか伝わるが、文献上に登場する名前は「高山重友」のみ(例によって、以降の文章では通りのいい「高山右近」で統一します)。
 多くのキリシタン大名が、南蛮貿易を目的とした、言葉悪く云えば「似非キリシタン大名」だった中、非の打ち所の無いキリシタンで、主君が三好長慶、松永久秀、織田信長、豊臣秀吉、と替わっても信仰は変わらなかった。
 最終的に秀吉・家康のキリシタン禁教令に従わなかったため、大名の地位を失い、マニラに国外追放となり、追放から四〇日後に病没した。

 千利休の「利休七哲」と呼ばれた高弟の一人でもあった。

略歴 天文二一(1552)年、摂津国三島郡高山庄(現・大阪府豊能郡豊能町高山)の国人領主・高山友照、母・マリア(←勿論洗礼名で、本名は不明)の間に生まれた。通称は彦五郎

 友照が当主の頃に、畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、三好氏の重臣・松永久秀に従って大和国宇陀郡の沢城(現・奈良県宇陀市榛原)を居城とした。

 永禄七(1564)年、一二歳のときに父・友照が奈良にて、琵琶法師でイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話に感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いた。
 同時に右近も洗礼を受け、ポルトガル語で「正義の人」を意味するジュストという洗礼名を得た。

 同年、三好長慶が没し、松永久秀を初めとする一族・重臣の内紛が相次ぎ、急速に衰退。永禄一一(1568)年には織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると事態はさらに混迷した。
 晴れて一五代将軍に就任した義昭は摂津の国人領主の一つである入江氏を滅ぼし、直臣の和田惟政を高槻城に置き、摂津には惟政、伊丹親興、池田勝正の三守護が置かれ、高山父子は和田惟政に仕えることとなった。

 元亀二(1571)年、和田惟政が荒木村重(池田氏の被官)と中川清秀(右近の従兄弟)との戦いに敗れて討死。村重は池田氏を乗っとると、信長から「摂津国の切り取り勝手」の承諾を得て、伊丹氏をも滅ぼした。
 惟政の討死後、高槻城は子の惟長が城主となったが、まだ一七歳だったため、叔父の和田惟増が彼を補佐した。だが惟長は惟増を殺害。惟増の後釜として相談役となった高山父子だったが、これを妬んだ和田家臣達は、惟長に高山父子を讒言するようになった。
 この情報を得た友照は村重に相談し、村重は「殺られる前に殺れ。」という旨の助言を行い、協力と事後の惟長領から二万石を与えるという書状を与えた。

 元亀四(1573)年三月、惟長は高山父子を偽りの呼び出しで罠にかけて殺さんとしたが、事前に知らせる者がいて、高山父子は一四、五名の家臣を伴って登城し、高槻城にて斬り合いとなった。
 夜間の斬り合いで、敵も味方も視界が効かない中、右近は灯が消える前の記憶を頼りに斬り付けて惟長を負傷させたが、自身も味方の誤撃で命が助かったのが奇跡なほどの大怪我を負った。
 この一件に思うところがあったのか、右近は一層キリスト教へ傾倒するようになった(惟長達は和田家の生国・近江国甲賀郡へ逃れた)。
 かくして前約通り高山父子は村重の支配下に入り、信長の後ろ盾もあって父子は晴れて高槻城主となった。

 やがて友照は城主の地位を右近に譲り、一方で自らはキリシタンに徹し、教会建築や布教を熱心に行い、領内の神社仏閣を破壊し、神官僧侶を迫害した(←仏教徒としては「な、な、な、何ちゅうことを………。」と云わずにはいられない)。

 天正六(1578)年、荒木村重が信長に反旗を翻すという一大事件を起こした。
 明智光秀(娘が村重の子・村次に嫁いでいた)、黒田官兵衛(←後に幽閉されたのは有名)の説得にも耳を貸さず、した。右近の身内を人質に差し出して説得にも応じなかった。
 村重と信長との板挟みとなった右近はイエズス会の神父・オルガンティノに助言を求めたところ、オルガンティノの勧めで信長についた。

 高槻城は要衝の地と見る信長も、右近の性格を突いて、自分に味方しない際は畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させると脅迫した。ために右近は父を初めとする徹底抗戦派の反対を押し切って信長に領地返上を申し出た。
 この右近離脱(中川清秀も右近に追随して信長に着いた)は村重敗北の大きな要因となり、戦後、右近は再び高槻城主としての地位を安堵され、石高も四万石に倍増された。

 天正一〇(1582)年六月二日、本能寺の変が勃発。信長を討った明智光秀は四方八方に自らへの合力を求めたが、その中には右近と清秀もいた。
 しかし右近は高槻に戻って羽柴秀吉につき、山崎の戦いでは先鋒を務め、清秀や池田恒興と共に奮戦し、羽柴軍の勝利に貢献したため、清洲会議でも加増対象となった。
 その後は城が焼けた安土のセミナリヨを高槻に移転したり、賤ヶ岳の戦い小牧・長久手の戦い四国征伐等にも参戦したりもした(彼等自身は賤ヶ岳の戦いでは劣勢を強いられ、中川清秀は討死した)。

 ともあれ、天正一三(1585)年に秀吉から播磨明石六万石に封じられ船上城主となったが、その出世街道は 天正一五(1587)年六月一九日に秀吉によってバテレン追放令が発令されたことで終わりを告げた。
 右近躊躇うことなく信仰の方を取り、領地・財産をすべて捨て、万民を驚愕させた
 大名の地位を失った(捨てた)右近はその後しばらく小西行長に庇護を受けて小豆島や肥後に隠れ住み、天正一六(1588)年には前田利家に招かれて加賀金沢にて一万五〇〇〇石の扶持を受けて暮らした(小田原征伐にも無冠の身分ながら前田軍に従軍)。

 だが慶長一九(1614)年、徳川家康がキリシタン国外追放令を発令。世のキリシタンの中には棄教したり、棄教した振りをして「隠れキリシタン」となったりした者が多かったが、今度も右近は躊躇うことなく、加賀を退去した(多くの人々の引き留めを振り切って)。
 そして同じ選択をした内藤如安(小西家旧臣の浪人)等とともに長崎から家族と共に呂宋(ルソン。現・フィリピン)のマニラに送られる船に乗った。
 マニラには一二月に到着。同地にはイエズス会や宣教師達から右近が流されてくることが事前に知らされており、敬虔なクリスチャンとして既に高名だった右近はマニラでスペインの総督フアン・デ・シルバ以下住民の祝砲とともに大歓迎で迎えられた。
 だが老いた右近の体には、船旅の疲れや慣れない気候が祟ったためか、到着から程なく病に倒れ、翌慶長二〇(1615)年一月八日に熱病で息を引き取った。高山右近長友享年六四歳。

 葬儀はシルバ総督の指示により、聖アンナ教会にてマニラ全市をあげて盛大に行われた。その後、右近の家族は日本への帰国を許され、加賀、越前、豊後に散った。
 一方、内藤如安はイントラムロス近くに日本人キリシタン町サンミゲルを築き、寛永三(1626)年まで行き、この歴史的な縁で如安の故郷福井県船井郡旧八木町とマニラは姉妹都市となり、八木町合併後の南丹市も提携を継続している。


帰国が叶わなかった事情 偏に「高山右近が筋金入りのキリシタンだった。」の一言に尽きる。
 当然領民や盟友に対する布教・入信勧誘にも熱心で、彼自身の人柄もあって多くの大名がその影響を受けた。蒲生氏郷・黒田如水等が洗礼を受けたのは右近の勧めによるもので、入信しなかったとはいえ、細川忠興・前田利家がキリシタンに対して好意的であったのも右近の影響だった。
 だが、それゆえに家格を失い、故国も負われ、異郷の土となった(本人的には公開していなかっただろうけれど)。

 時の政権がキリスト教を禁じたのに対し、キリシタン大名の中には棄教したものも少なくなかった。それというのも南蛮貿易を目的に、南蛮人・紅毛人と仲良くする為に受洗するものも少なくなかった。
 これはキリスト教に限った話ではなく、織田信長が日蓮宗に比較的好意的で、最後の時を本能寺で迎えたのも、本能寺が種子島と縁が深かったことから、信長と縁が深かったためで、古今東西、政治家が経済政策の都合、下世話な云い方をすると利益づくで特定の宗教と懇意にするのはおかしな話ではない。

 となると時の権力がキリスト教を禁教とし、信仰を続けることで身体や権力に害が及ぶとなると、損得勘定で「キリシタン大名」となっていたものほど、「棄教」という路を採った。
 だが、政治上の迫害を恐れて、「棄教した振りをして隠れキリシタンになった。」者も少なかったと見られ、最後の最後まで信仰に殉じた者もまた少なくなかった。
 勿論高山右近もその一人だった。

 右近は最初に秀吉のバレテン追放令で家格を失った後も、前田家の食客として金沢城修築時には、畿内で盛んに取り入れられていた西洋の先進的な築城知識を役立てたり、利家没後に嫡男・利長の政治・軍事の相談役になったり、と能力も人望も高く買われていた。

 勿論その人望はキリシタンだったことに裏打ちされたもので、高槻城主時代には名もなき領民(←勿論、キリシタン)が死んだ際に、自ら葬儀を主宰し、教会から墓まで父・友照とともに棺を担いで歩いたこともあった。
 当時、棺を運んだり、墓穴を掘ったりという仕事は(余りこういう書き方をしたくないが)身分的に差別されていた人達の仕事とされていたので、領民達の感激は並ではなく、信仰から来るかかる行動に絆された者は武士の中にも多かった。

 高山右近没後四〇〇年にあたる平成二七(2015)年、日本のカトリック中央協議会は右近を、「地位を捨てて信仰を貫いた殉教者」として、福者に認定するようローマ教皇庁に申請。 同年六月一八日、教皇庁の神学調査委員会が高山右近の認定手続きを始めることを了承した(平成二八(2016)年一月までには認定されると見らえている)。
 薩摩守は仏教徒なので、敬虔なキリシタン大名が領内の寺社仏閣を破却したり、僧侶・神官達を迫害したりしたことには眉を顰めるが、高山右近の信仰の厚さは認めない訳にはいかず、四〇日ほどで終わったとはいえ、マニラでの最後の日々は本人の本望な余生であったと思いたい。



参考:有名なキリシタン大名(とその関係者)と信仰の行方
名前洗礼名禁教令後
大友宗麟ドン・フランシスコ禁教令以前に病死。
大友義統コンスタンチノ大友宗麟の長男だが棄教。
蒲生氏郷レオ禁教令以前に病死。
細川珠ガラシャ禁教令前に関ヶ原の戦い直前に西軍の人質にされることを拒んで家臣に自らの胸を槍で突かせた。
小西行長アウグスティノ禁教令前に関ヶ原の戦いに敗れ、刑死。
宗義智ダリオ小西行長の娘・マリアを妻に迎えたときに洗礼を受けたが、関ヶ原の戦い後すぐに棄教し、マリアも離縁した。
有馬晴信プロタジオ禁教令前に岡本大八事件で刑死。
有馬直純サンセズ有馬晴信の子だが、棄教後は迫害者に転じる。
黒田孝高シメオン禁教令前に病死。
黒田長政ダミアン棄教後、迫害者に転じる。
明石全登ジョアン、ヨハネ、ジョパンニ・ジュスト大坂夏の陣後、行方不明。
伊達五郎八不明夫・松平忠輝との離縁に前後して棄教し、仏門に入った。しかし、その後終生再婚の勧めに応じなかったのは、離婚を禁ずるキリスト教の教えを重んじた故と見られ、棄教は上辺のものであった可能性が高い。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新