第肆頁 原マルティノ………遣欧の偉業は輝かず

氏名原マルティノ(はらまるてぃの)
生没年永禄一二(1569)年頃〜寛永六(1629)年九月七日
職業外交使節→カトリック司祭
生まれ故郷肥前
逝去場所澳門(マカオ)
望郷の念度
概略 安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのキリシタン。イエズス会員でカトリック司祭。天正遣欧少年使節の副使で、使節を務めた少年四人の最年少。ローマからの帰途のゴアでラテン語の演説を行ったことで有名。


経歴 永禄一二(1569)年頃、肥前のキリシタン大名・大村純忠の領内で名士だった原中務の子に生まれた。誕生時、両親共にキリスト教徒であり、当然の様に洗礼を受け、司祭を志して、有馬のセミナリヨ(小神学校)に入った。

 そこ頃、九州には巡察師としてイエズス会会員のアレッサンドロ・ヴァリニャーノが訪れていた。肥前で大村純忠と知り合った彼は、財政難に陥っていた日本の布教事業を立て直し、次代を担う邦人司祭育成のため、キリシタン大名達の名代となる使節をローマに派遣しようと考えた。
 その使節として、白羽の矢が立てられたのがセミナリヨで学んでいたマルティノ達だった。

 天正一〇(1582)年、伊東マンショを主席正使(兼大友宗麟名代)、千々和ミゲルを正使(兼大村純忠名代)、マルティノと中浦ジュリアンを副使とした天正遣欧少年使節は、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信等の名代として、日本を発ち、ローマに派遣された。
 ちなみに最年長はジュリアンで、マルティノは最年少。
 ヴァリニャーノの手紙によると使節の目的は、「第一、ローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経済的・精神的援助を依頼」、「第二、日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光、偉大さを少年達自ら語らせることにより、布教に役立てたい。」というものであった。

 天正一〇(1582)年一月二八日に長崎を出港した一行は、マカオ、マラッカ、コチン、ゴアを経由し、出発から約一年半後となる天正一二(1582)年七月五日、ポルトガルの首都リスボンに到着し、ヨーロッパの土を踏むに至った(師でもあったヴァリヤーノはローマまで随行する筈だったが、諸事情あってゴアに留まった)。

 サン・ロッケ教会を宿舎とした一行はその年の内にアウストリア枢機卿(スペイン国王フェリペ2世の妹マリアと神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の男子)、フェリペ2世の歓待を受け、年が改まって天正一三(1585)年には一月三〇日にイタリア入りしたのを皮切りに斜塔で有名なピサにてトスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチに謁見。その夜、大公妃ビアンカ・カッペッロ主催の舞踏会に参加した。
 四日後の年二月五日、カヴァリエーリ広場にあるサント・ステファノ・デイ・カヴァリエーリ教会にて聖ステファノ騎士団を見学。同日(西洋歴では1585年3月6日)が四旬節の初日である「灰の水曜日」であったため、トスカーナ大公とともに灰を受けた。

 そして同年二月二二日、遂にローマにてローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。ローマ市民権を与えられた(中浦ジュリアンのみ、病気の為に出席できなかった)。
 しかしながらそれから半月もしない1585年4月10日(←ややこしくて申し訳ないですが、西洋歴です)にグレゴリウス13世は逝去した。

 天正一三(1585)年四月二日、新法王となったシクストゥス5世の戴冠式に出席。それから一ヶ月後の天正一三(1585)年五月六日 ローマを出発。ヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノなどの諸都市を訪問後、翌天正一四(1586)年二月二五日にリスボンを出発して帰国の途に就    いた。
 約二ヶ月後の同年四月二三日 インドのゴアに到着し、師であるヴァリニャーノに再会。同地のコレジオ(大神学校)において、一行の中でも特に語学に長けていたマルティノはラテン語による演説を行った。キリスト教文化に疎くて申し訳ないのだが、キリスト教徒の間ではかなり有名且つ高名らしい。
 そして天正一八(1590)年六月二〇日、一行はついに長崎に帰港して帰国を果たした。

 だがマルティノ達の遣欧中、日本国内における政治情勢、キリスト教に対する待遇は大きく変化していた。遣欧少年使節が日本を発った天正一〇(1582)年一月二八日は武田家滅亡(武田崩れ)の二ヶ月前、本能寺の変の四カ月チョット前で、戦国の終わりがようやく、うっすら見え掛けていた頃だった。
 だが帰国した天正一八(1590)年六月二〇日は豊臣秀吉による天下統一完成となる小田原城開城の半月前だった。既に天下が秀吉の掌中にあることは衆人の認めるところだった。
 懐かしの九州の地は秀吉の臣従しており、マルティノ達を送り出した大村純忠は天正一五(1587)年五月一八日に、大友宗麟は同年六月一一日に相次いで死去し、更に一ヶ月後の七月二四日には追い打ちを掛ける様にバテレン追放令が秀吉によって発令されていた。

 とはいえ、使節を送り出した主要人物の一人である有馬晴信は信仰を捨てておらず、秀吉がキリスト教は嫌いでも海外交易や海外の新しい文化に好意的だったことや、秀吉重臣の小西行長が熱心なキリシタン大名だったこともあり、当初の秀吉によるキリシタン弾圧はさほど厳しいものではなかった。
 帰国から約半年を経た天正一九(1591)年閏一月八日、天正遣欧少年使節は上洛し、聚楽第にて豊臣秀吉と謁見。彼の前で西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏した。
 演奏に用いた西洋楽器以外にも活版印刷機(有名なグーテンベルクによるもの)や海図を見せた一行は秀吉に気に入られ、仕官を勧められたが、四人が四人ともこれを辞退した。

 その後、四人は司祭になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに学び、天正二〇(1593)年七月二五日、揃ってイエズス会に入会した。
 だが慶長四(1601)年、神学の高等課程を学ぶため、マカオのコレジオに移った時点で千々石ミゲルが退会。それから七年を経て、マルティノは慶長一一(1608)年に伊東マンショ、中浦ジュリアンとともに司祭に叙階された。

 だが、秀吉に続く時の政権江戸幕府もまたキリスト教を禁じた。慶長一九(1614)年、江戸幕府はキリシタン追放令を発令し、棄教を拒んだ原マルティノは前頁の高山右近同様国外追放となった。
 同年一一月七日、マルティノはマカオに向かって出発。マカオに到着したマルティノはラテン語の才を活かして日本語書籍の印刷・出版を行い、マンショ小西やペトロ岐部等がローマを目指した際には援助した。

 国外追放から一五年後の寛永六(1629)年一〇月二三日、マカオにて客死。原マルティノ享年六一歳。遺骸は大聖堂の地下に生涯の師・アレッサンドロ・ヴァリニャーノと共に葬られた。


帰国が叶わなかった事情 早い話、原マルティノが信仰を重んじたためである。前頁の高山右近とほぼ同じである。ただマルティノと右近には異なる点が二点あった。

 一点は身分である。一応、天正遣欧少年使節は「キリシタン大名達の名代」としてローマ法王に会いに行ったので、低い身分ではなかったのだが、マルティノは中浦ジュリアンとともに、国人領主の子で、後の二人ほどの身分ではなかった(伊東マンショは大友宗麟の血縁にして伊東義祐の孫で、千々和ミゲルは大村純忠の甥にして有馬晴信の従兄弟)。
 それゆえ、ある意味「身軽」だった。
 共に渡欧した天正遣欧少年使節仲間の内、マンショは慶長一七(1612)年に逝去していて、ミゲルは棄教していたが、薩摩守は、ミゲルの棄教が「武士身分」との狭間に苦しんだ果ての決断と推測している。
 通常、「棄教」と云えば、イエズス会と良好な関係を保つことによる貿易等の利益よりも、国家権力(関白、または征夷大将軍)への臣従を優先したものであることが多いのだが、ミゲル棄教の理由は、キリスト教の伝来が欧州列強によるアジア・アフリカへの侵略に繋がっていることから信仰に疑問を感じたため、とされている(棄教後のミゲルは千々石清左衛門と名を改め、従兄弟の大村喜前が初代藩主となっていた大村藩の藩士となっていた)。
 もっとも、同じ身分の出身であったジュリアンは、キリシタン迫害と徹底的に戦い、寛永一〇(1633)年に長崎で穴吊りという酷刑で殉教(平成一九(2007)年に福者に列せられた)したので、身分と信仰の関係は単純ではないのだが。

 もう一点は、マルティノが持った「生き甲斐」である。
 年齢もあったが、同じ頃に国外追放となった高山右近が僅か四〇日で病没したのに対し、マルティノは得意のラテン語を活かした洋書の翻訳と出版活動にも携わり、信心書『イミタチオ・クリスティ』の日本語訳『こんてんつすむんぢ』などを出版し、ローマを目指す日本人キリシタンの援助にも尽力した。
 ヨーロッパ史上、宗教改革で有名なルターが権力者に匿われている頃、聖書のドイツ語訳に尽力していたように、当時聖書を学ぶ者はラテン語を修得して、聖書を解するのが通例だった。勿論ラテン語を読めない、解せないクリスチャンも多いので、そこは口伝で聖書の教えが説教される訳だが、そんな背景もあって、マルティノには師・ヴァリニャーノが眠るマカオにてやれること、やりたいことは山の様に有った。
 その辺りは高山右近とは置かれた状況が随分違ったことだろう。

 最後にこれは薩摩守の推測だが、原マルティノは日本にてキリシタン禁教令が解かれ、日本に帰国する希望を持ち続けていたのではないか?とも考えている。
 というのも、キリシタン禁令島原の乱に前後する厳罰化・徹底化が行われるまでは、あくまで「手段」で、「目的」としてのカラーが弱かったと薩摩守は見ている。キリスト教を禁じた豊臣秀吉にも、徳川家康にも云えることだが、彼等も利益が大きく、国内の産業技術を発達させるのに役立つことからも、南蛮・紅毛との交易自体は大賛成で、あくまでキリスト教の伝播が国内の寺社仏閣を破却したり、「神の前の平等」という教えが古来の武士が世を収める身分社会に反したりするのを見て、それ以上の伝播を妨げんとしたに過ぎなかった。それゆえ秀吉も、家康も「布教」は禁じても、「信仰」は禁じなかった。
 また、宣教師達も決して盲目的にキリスト教の価値観を押し付けた者ばかりではなく、マルティノの師であるヴァリニャーノの属するイエズス会は「適応主義」と呼ばれる方針で、日本文化を重んじた上での布教を行っていた。

 これは人間関係でいえば、互いの価値観の一部がすれ違ったと見れなくもなく、家康没後の将軍次第ではキリスト教容認の行方はまだ断言出来ないものがあったと云える。
 そもそも天正遣欧少年使節の目的は、欧州の国々から日本が認知されたことに力を得ての布教拡大で、そこはマルティノもジュリアンも手段は違えど、想いは同じことだっただろう。
 逆にそこを考えると日本に戻れず、異郷に死した無念は高山右近より大きかったかも知れない。せめて敬愛する生涯の師とともに眠りにつけたことが彼の魂を安んじていると思いたいところである。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新