第伍頁 山田長政………異郷の王座は短過ぎて

氏名山田長政(やまだながまさ)
生没年不詳〜寛永七(1630)年
職業交易商人→シャム国王外戚→藩王
生まれ故郷駿河(異説有り)
逝去場所リゴール
望郷の念度
概略 江戸時代前期にシャム(現・タイ王国)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物。

 山田長政の生涯の多くは当時シャムと呼ばれたアユタヤ朝タイの歴史がメイン舞台となりますので、まずは本編の前に下記の「簡単な事前知識」を御参照下さい。

簡単な事前知識
アユタヤ朝シャム王国  アユタヤに首都を置き、、チャオプラヤー川と数多くの支流を通じてもたらされるタイ内陸からの物流とタイ湾を通してやってくる東南アジア交易網とが結びつく地点にあるという地の利を生かして、古くから交易が栄えた豊かな国。


アユタヤ日本人町 アユタヤ市には一七世紀の初めまでには、南東に各国からやってきた外国人達の集まる外国人町が出来ており、その中の一つとして日本人によって作られた町。  日本において、戦国時代で戦乱に敗れて浪人した者達が多数渡泰し、最盛期の人口は一五〇〇人に上ったと云われている。


日本人傭兵 戦国の世で戦乱に敗れてシャムに亡命した者達が、渡泰後、当時の日本同様戦乱に明け暮れるシャムにて兵士として活躍した武士達。
後期には迫害を受けたキリシタン、関ヶ原の戦い、大坂の陣等で浪人した者達が、日本国内での仕官が厳しいと見た者達が多数を占め、その戦い慣れた戦歴を活かして勇敢に戦った。
特に対ビルマ(現・ミャンマー)戦において、ポルトガル人傭兵隊が惨敗を喫したこともあって、それに代わる戦力としても大いに期待された。


チャオプラヤー川 かつては「メナム川」とも呼称。メコン川と並ぶタイを貫流し、南シナ海に注ぐ大河。現在でも水上交通の要路で、現タイ王国の首都・バンコクもこの若の流域にある。


経歴 生年は詳らかではなく、出生地も駿河の駿府馬場町の他に伊勢説や尾張説もある。その生涯における活躍の場となったタイに記録が無く、歴史的実像はかなり謎が多い。
 少年時代は「俺は織田信長の子孫だ!」とかなり大言壮語する人物だったと云われている。

 沼津藩主・大久保忠佐に仕え、駕籠かきをしていたが、その後慶長一七(1612)年に朱印船で長崎から台湾経由でシャム(現・タイ)に渡った。
 その後、津田又左右衛門筆頭の日本人傭兵隊に加わり、やがてはアユタヤにとどまらず、マラッカや今日のインドネシアなど東南アジアを股に掛ける仲買商人の大立者として活躍。
 元和六(1621)年のアユタヤ使節の来日に際しては、同行させた部下を通して時の老中、土井利勝などに書を送るなど斡旋に務め、その後も度々日本の有力者に贈り物や書状を送り、日本とアユタヤの修好に務めたことで頭角を現し、アユタヤ郊外の日本人町の頭領となり、  ルアンというアユタヤの官位を授かった。

 貿易家であると同時に、優れた軍事的才能を持っていた長政は日本人の武士達で構成された日本人義勇隊の隊長として、タイの内乱や外征に日本人義勇隊を率いて参戦。戦国の世で数々の激戦を経験していた日本兵の勇猛さもあって次々と武勲を立てるのに成功した。

 そしてスペイン艦隊(←有名な無敵艦隊は既にイギリス王国のドレーク船長に敗れていた)の二度に渡るアユタヤ侵攻をいずれも退けるに及ぶと、それ等の功績を国王ソンタム(アユタヤ王朝第二四代国王・ボーロマラーチャー1世)に認められ、寛永五(1628)年には王女と結婚。同時に同国第三位の官位であるオークヤーの地位と、セーナーピムックという欽賜名を授けられ、チャオプラヤー川に入る船に対する徴税権を得た(←注:伝説を含みます)。

 同年一二月一三日、ソンタム国王が崩御。直後の王位継承を巡る内乱に長政は遺言に従い、シーウォーラウォン(ソンタム王の母方の従兄弟)と共同でチェーターティラート王子を王に即位させた(アユタヤ王朝第二五代国王・ボーロマラーチャー2世)。この時長政は日本武士団八〇〇名とシャム軍二万を率いて王宮を守り通したと云う。
 しかし、新王チェーターティラートは功労者であるはずのシーウォーラウォンに不審を抱き排除しようとして失敗し、逆にシーウォーラウォンの為に殺された。
 その後チェーターティラートの弟・アーティッタヤウォン王がアユタヤ王朝第二六代国王として即位したが、あまりに幼過ぎたため、僅か三七日で廃位させられた(後に王位を奪還しようとして失敗し、処刑された)。

 その後継者は、官吏達の支持も大きかったシーウォーラウォンが即位。第二七代国王・サンペット5世となったが、長政はこれに頑固に反対していたために、宮廷内での立場が危ういものとなって行った。
 やがて長政は六昆(リゴール。インドでいう藩王国の立場にあるナコーンシータンマラート王国)の防衛を理由にサンペット5世によって左遷された。
 サンペット5世は、当時アユタヤの貿易を独占していた日本人勢力と対立関係にあった華僑の勢力の圧力が宮廷内に及ぶと日本人町にも弾圧の手が及んだ。

 寛永七(1630)年、六昆南方のパタニ国や長政以前のリゴール王を支持する勢力とのいさかいが絶えず、六昆とパタニは軍事衝突。長政はパタニ軍との戦った際に脚を負傷。シーウォーラウォンの密命を受けた者に治療を装って傷口に毒入りの膏薬を塗られて死亡した(オランダの史料による、最も有力とされている説)。
 長政暗殺後、六昆の知事に長政の息子、クンが継いだが、内部対立があり同じ日本人傭兵によって殺され、同年に、シーウォーラウォンが「日本人は反乱の可能性がある。」としたため、アユタヤ日本人町は王命で焼き打ちされた(実際、日本人義勇隊を初めとする日本人達は長政同様、シーウォーラウォンの即位には反対の立場だった)。
 この焼き打ちを受けて、日本人達は海外に難を逃れたが、徐々にアユタヤに戻って来るようになり、二年後の寛永九(1632)年にはアユタヤの日本町は再建された(関係ないが、この年、徳川秀忠が薨去)。
 人口も一時は三〇〇〜四〇〇人まで増えたが、母国の鎖国政策もあって以後、日本人の勢力は徐々に衰退。一八世紀の初めにはアユタヤ日本人町は自然消滅したと云われる。

 大正四(1915)年一一月一〇日、山田長政は従四位を追贈された。そして第二次世界大戦中は日本軍の南方進出の際にその名を利用された。ために日本文学ではシーウォーラウォンはイメージの悪い役を振られることが多い(苦笑)。


帰国が叶わなかった事情 正直、山田長政に帰国の意志があったかどうかを考察すると、「無かったのではないか?」に傾く。長政が渡泰したのは慶長一七(1612)年で、世は徳川の時代に固まりつつあった。しかも長政は身分が低かったとはいえ、譜代大名である大久保家に仕え、身分は安泰だった。
 つまり、キリシタン武士や、没落浪人の様に食うに困って海外に流れた訳ではなく、渡泰は完全に長政の意志で、野心的に行われたものと考えられる(ちなみにタイは王室を初め、国民の95%が上座部仏教を信仰する熱心な仏教国で、キリシタン弾圧から逃れんとする者なら別の地を目指すと思われる)。
 また日本の鎖国は三代将軍徳川家光の時代に確立したもので、キリスト教布教を弾圧していたとはいえ、家康・秀忠は海外交易には大賛成だったので、当時は日本‐海外間の行き来に殊更厳しい制限が加わっていた訳でもなかった(長政暗殺時、将軍は家光だったが、大御所秀忠が健在でまだ鎖国状態ではなかった)。

 また日本で駕籠かきだった者が、乗り込んだ先では傭兵隊長仲買の大商人従国の国王となったのである。現在の日本人に例えるなら、政治家の運転手が海外に飛び出したら外人部隊隊長対日貿易責任者地方自治体の首長になったようなものである。
 各職業に対する価値観は人それぞれだが、多くの人間は「母国よりでも海外の俺の方がえらい!」と思うと帰国しようとは考えないのではないだろうか?

 ただ、冒頭の表に記したように、薩摩守は長政が日本に対する想いを亡くしていたとは思わない。当時の東南アジア各地に日本人町が形成されたのも、生活のし易さもあるだろうけれど、やはり生まれ持ったものを大切にしたい思いがあればこそ、であろう。
 余談だが、これは現代の日本各地にあるコリアタウン、中華街、世界各地にある日本人町も同様だろう。母国から海外に渡った者は概して一世、二世は同じ移民・渡来人同士で婚姻するも、三世以降は現地人に溶け込む傾向が強い一方で、初代が為した地盤との結びつきの強さゆえに祖国流を継承し続ける者も少なくない。

 逆に考えて、山田長政に日本に帰ろうという気持ちがあったとしても、立場的に無理もあっただろう。海外で現地人以上に偉くなれば妬みの視線に曝され、命も危うくなる(実際、暗殺された)。更には当時東南アジア各地に欧州列強の侵略の手が伸び始めており、中国でも明が異民族王朝である清に則られたことから亡命漢民族がアジア各地に華僑として広まり、長政は華僑やポルトガル人とも渡り合った。

 結局、長政の望郷の念度は推測の域を出ないが、意志的に小さく、状況的にも難しかったと考えるのが妥当ではなかろうか?


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平成二六(2014)年一一月五日 最終更新