第陸頁 新渡戸稲造………旧五千円札の地球は伊達じゃない

氏名新渡戸稲造(にとべいなぞう)
生没年文久二(1862)年八月八日〜昭和八(1933)年一〇月一五日
職業教育者・思想家・研究者・国際連盟事務次長
生まれ故郷陸奥国岩手郡(現・岩手県盛岡市)
逝去場所カナダ
望郷の念度
概略 云わずと知れた前五千円札の親父で、著名な教育者・思想家・研究者で、農業経済学・農学の研究も行っていた。著書『武士道』は今尚国内外を問わず高名。

 経歴 陸奥国岩手郡に、盛岡藩主・南部利剛の用人、新渡戸十次郎の三男として生まれた。幼名は稲之助。幼き日から西洋への憧れを抱いており、作人館(現:盛岡市立仁王小学校)に学び、新渡戸家の掛かり付けの医者からは英語を習った。
 明治天皇の巡幸の際に、新渡戸家で明治天皇が休息を取ったことがあり、御前にて傅いた際に、「父祖伝来の生業を継ぎ農業に勤しむべし。」との言葉を賜り、農政を志すようになった。

 作人館卒業後、東京で洋服店を営んでいた叔父・太田時敏の勧めで東京に出た(この時、「稲造」と改名)。叔父の養子となって太田稲造と名乗り、英語学校、共慣義塾(経営者は元盛岡藩主南部利恭)に学んだが、その時点での就学姿勢は不真面目だった。
 その不真面目さの為に、「店の金を持ち出した。」と疑われたことをきっかけに猛省し、勉強に励むようになった。

 一三歳になった頃、開校したばかりの東京英語学校(現・東京大学)に入学。交友との語らいの中、やがて農学の勉強に勤しむことを決意。その後、札幌農学校(現・北海道大学)の二期生として入学した。
 有名なクラーク博士は一年契約での赴任だったので、稲造が入学した時には帰国して師事出来なかった。在学中、札幌丘珠事件が発生(拙サイト過去作・「北海道苫前郡羆害事件(大正四年)」についで有名な羆による獣害事件)。稲造は討ち取られた羆の解剖を務めた。
 在学中の稲造は良くも悪くも熱い男で、学校の食堂に学費滞納の督促状を名前入りで貼られた際には「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか!」と叫んで衆人監視下でこれを破り捨てたり、論争に熱中して教授と殴り合いになったこともあり、退学になりかけたこともあった(友人達の必死の嘆願で辛うじて退学は免れた)。
 それゆえ稲造は「アクチーブ」(Active=活動家に由来)とあだ名された。

 クラークの聖書を講じた授業の影響で、一期生ほぼ全員がキリスト教に入信しており、その一期生達に入学早々から伝道されたことを受け、二期生達も続々と入信していたが、元より入学前からキリスト教に興味を持ち、英語版聖書まで持ち込んでいた稲造も早期に入信した(洗礼名は「パウロ」)。
 これによりキリスト教に深い感銘を受けた稲造は学生同士の喧嘩に「キリストは争ってはならないと云った。」と仲裁するほどになり、同期の内村鑑三が「アクチーブと云えん。」として付けたあだ名・「モンク(修道士)」が定着したほどの変わりようだった。

 この頃、稲造は眼病・鬱病を患い、病気を知った母からの手紙で明治一三(1880)年七月に盛岡へ帰郷したが、その母は三日前に息を引き取っていた。これにより稲造の鬱病が更に悪化。それを知った内村鑑三からの激励の手紙で立ち直り、東京で病気治療に専念し、『サーター・リサータス』という書と出逢ったことで鬱病を完全克服し、生涯の愛読書として幾度となく読み返すようになった。

 農学校卒業後、道庁に就職。後に東京帝国大学(現・東京大学)に進学したが退学(東大の研究レベルが農学校に比べて低い、と失望して)。明治一七(1884)年「太平洋の架け橋」になりたいと念じてアメリカに私費留学。ジョンズ・ホプキンス大学に学んだ。
 この頃、稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め正式に会員となり、ここで後に妻となるメアリー・エルキントン(日本名・新渡戸万里子)と出逢った。

 その後、母校・札幌農学校の助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学を中退し、(今度は官費で)ドイツ・ボン大学に留学し、ハレ大学(現・マルティン・ルター大学)より農業経済学の博士号を得た。
 帰途、アメリカでメアリーと結婚。明治二四(1891)年に帰国し、教授として札幌農学校に赴任した。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、農学校を休職してカリフォルニア州で転地療養した。

 名著『武士道』を英文で書いたのはこの頃で、日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期だったこともあり、明治三三(1900)年に『武士道』の初版が刊行されるや、ドイツ語、フランス語など各国語に訳されるベストセラーとなった。
 日本語訳も日露戦争後の明治四一(1908)年になされ、周知の通り、その後も『武士道』は世界で読み継がれ、現在に至っている。

 『武士道』初版刊行の翌年である明治三四(1901)年、稲造は二年前から招聘してくれていた台湾総督府民政長官・後藤新平に応じて農学校を退職し、台湾総督府の技師に任命された。台湾では民政局殖産課長、殖産局長心得、臨時台湾糖務局長を歴任し、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献した。

 その後、明治三六(1903)年、京都帝国大学法科大学教授を兼任。三年後には東京帝国大学法科大学教授との兼任で、第一高等学校校長となった。
 明治四二(1909)年、稲造の提唱で「郷土会」が発足。自主的な制約のない立場から各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの事象を研究し調査することを主眼とした。
 明治四四(1911)年から二年間、日米交換教授制度創設により、アメリカで日本理解の講義を行うため、渡米。帰国後、健康を害したこともあって、大正二(1913)年に一高校長を辞職。その後も東京植民貿易語学校校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長等を歴任し、津田梅子の津田塾の顧問を務めた(津田亡き後の学園の方針を決定する集会は稲造宅で開かれた)。

 大正九(1920)年、国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な稲造が事務次長の一人に選ばれた。稲造は牧野伸顕とともに国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めたが、「全会一致とするべきだ。」とした議長のアメリカ大統領ウィルソンの強権発動で否決された。
 大正一五(1926)年、事務次長を退任。

 昭和三(1928)年、東京女子経済専門学校の初代校長に就任。同校は後に新渡戸文化短期大学となる。
 昭和七(1932)年、「わが国を滅ぼすものは共産党と軍閥である。そのどちらが怖いかと問われたら、今では軍閥と答えねばならない」との発言が新聞紙上に取り上げられ、軍部や右翼、特に在郷軍人会や軍部に迎合していた新聞等マスメディアから激しい非難を買い、多くの友人や弟子達に去られた。
 同年、反日感情を緩和するためアメリカに渡り、日本の立場を訴えたが、満洲国建国と時期が重なったこともあって「新渡戸は軍部の代弁に来たのか?」とアメリカの友人達からも理解されず、敵はおろか、多くの見方からも背を向けられる失意の日々を送った。

 翌昭和八(1933)年、日本は国際連盟を脱退。同年秋、カナダのバンフで開かれた太平洋問題調査会会議に、日本代表団団長として出席。会議終了後、ビクトリアで倒れ、一〇月一五日に逝去した。新渡戸稲造享年七二歳。

 逝去の約半世紀後となる昭和五九(1984)年一一月一日に発行された五千円紙幣の肖像に採用された。


帰国が叶わなかなった事情 当初、本作のメンバーに新渡戸稲造を加えることに迷いがないでもなかった。客死は単純に職務で海外に出ていた途中と高齢による天寿の全うが合致したもので、稲造自身は日本と海外を何度も往復しており、本作で取り上げた阿倍仲麻呂や普照の様に日本に帰りたくて帰れなかったものでもなければ、高山右近や原マルティノの様に国外追放されたものでもなかった。

 また職務に東奔西走するのは新渡戸家の「伝統」で、(祖父の傳、父の十次郎、長兄の七郎は半各地の荒れ地にて灌漑を成功させ、十和田市発展の礎を築く傍ら、材木業でも成功を収めていた一方で、世渡り下手で左遷、蟄居も受けている)で、稲造自身も経歴に書いた様に、国内外のあちこちを学業の為、職務の為に渡り歩いた。
 それこそ『武士道』じゃないが、「常在戦場」及び「いつどこで死ぬか分からない。」との覚悟はあったのではなかろうか?

 また稲造の妻・メアリーはアメリカ人で、彼は妻との間に生まれた長男に「遠益(トーマス)」というアメリカ風の名前を付けていた(不幸にして生後八日で夭折したが)。
 当然海外にも知己は多く、その熱い性格から「職務中に資するは本望!」と考えていてもおかしくない人物である。
 だが、そんな彼だからその熱さを讃えて、「異郷に死した」ということに敬意をもって採り上げた。また、当時の七二歳はかなりの高齢で、そんな老人(←しかも政治家じゃない!)が公私に渡って外交の重要舞台に立たなければならなかった当時の逼迫した日本の国際情勢が招いた客死であったことも触れたくて薩摩守は稲造を採り上げた。

 残念ながら稲造が人生最後に行った職務への奮闘も空しく、その後の日本軍の軍拡は留まらず、彼の愛する日本は彼が留学し、妻とともに愛したアメリカとの戦争に至ってしまった。
 昭和五九(1984)年に紙幣のデザインが変わった時、千円札の伊藤博文は夏目漱石に、五千円札・一万円札の聖徳太子は新渡戸稲造、福沢諭吉となったが、これは初めての「文化人採用」だった。
 そして稲造の肖像画の左下には楕円形の地球が描かれ、その中心は彼が「架け橋」にならんとした太平洋だった。現在、五千円札の肖像画は樋口一葉に替わったが、生誕の地である盛岡市と、客死したビクトリア市が、新渡戸稲造が縁となって姉妹都市となっていることは永続して欲しいものである。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新