第漆頁 二葉亭四迷………洋上に「クタバッテシマ」った

氏名二葉亭四迷(ふたばていしめい)
生没年元治元(1864)年二月二八日〜明治四二(1909)年五月一〇日
職業作家・翻訳家
生まれ故郷江戸市ヶ谷(現・東京都千代田区)
逝去場所ベンガル湾洋上
望郷の念度
概略 作家にして翻訳家。本名・長谷川辰之助(はせがわたつのすけ)。ペンネーム・二葉亭四迷の由来が「くたばって仕舞(め)え」にあったことは余りにも有名だが、詳細は若干誤解されている(詳細後述)。

 坪内逍遥と交流を結び、写実主義小説にして代表作である『浮雲』は言文一致体で書かれ、日本の近代小説の開祖となった。
 ロシア文学の翻訳も多く手掛け、自然主義作家へ大きな影響を与えた。


経歴 幕末も本当に終わりに近い元治元(1864)年二月二八日、江戸市ヶ谷合羽坂の尾張藩上屋敷に、尾張藩士・長谷川吉数を父に、志津を母に生まれた。祖父・辰蔵の名に因んで「辰之助」と命名された。

 四歳時に名古屋に移り、野村秋足の塾で漢学を学んだ。後、名古屋藩学校に入学し、林正十郎にフランス語を学んだ。
 明治五(1872)年に藩学校を退学。後に父の異動で松江へ転居し、内村友輔から漢学を学んだ。

洋学校(現・愛知県立旭丘高等学校)卒業後、日本とロシアとの間に結ばれた千島樺太交換条約を受けて、ロシアに対する日本の危機感を持ち、陸軍士官学校を受験。しかし判定は不合格で、軍人を諦め、外交官となることを決意した。
 外交官を目指した辰之助は明治一四(1881年)、一八歳で東京外国語学校(現・東京外国語大学)に進学し、ロシア語を学んだ。この時にロシア語を師事した教授達の影響で次第にロシア文学に心酔。しかし東京外国語学校が東京商業学校と合併すると、明治一九(1886)年一月に同校を中退した。

 明治一九(1886)年、坪内逍遥を訪ね、知己を得ると以後毎週通うようになった。
 坪内は『小説神髄』にて「novel」に「小説」という訳語を当て、日本の近代小説の先駆けとなった人物で、辰之助はその坪内の勧めで『中央学術雑誌』にて、冷々亭主人名義で『小説総論』を発表。
 翌明治二〇(1887)年、『新編浮雲』第一篇(後に代表作『浮雲』となる)を、坪内雄蔵名義で刊行。「坪内雄蔵」は坪内逍遥の本名で、彼の名義で敢行したことを恥じた辰之助は自分自身を卑下して、「くたばって仕舞(め)え」と罵ったのをペンネームとして、「二葉亭四迷」が生まれた。
 一般には、「文学に生きることに理解を示さなかった父に罵られたもの」と語られることが多いが、これは明治〜昭和初期にかけて文学で身を立てることが親から勘当されかねないぐらい蔑視されていた過去の風潮から出た誤解だろう。
 ちなみに『浮雲』の主人公は四迷の東京外国語学校での親友で、後に東芝専務となった大田黒重五郎をモデルとしたものだった。

 写実主義の描写と言文一致の文体で、『浮雲』は当時の文学者達に大きな影響を与え、坪内逍遥の『当世書生気質』に色濃く残っていた戯作文学の影響を排し、日本の近代小説の始まりを告げたとされる。
 同時にロシア語が堪能となっていた四迷は同時代のロシア写実主義文学を翻訳、紹介し、特にツルゲーネフの『猟人日記』の一部を訳した「あひゞき」は、その自然描写の文体が多くの作家に影響を与えた。

 同年に内閣官報局の官吏となり、作家を廃業。社会主義の影響から、貧民救済策について考える様になり、貧民街に出入りし、松原岩五郎や横山源之助といった貧民問題や労働問題を扱うジャーナリスト、更には妻となった娼婦・福井つねと知り合った。
 明治二八(1895)年に陸軍大学校露語科教示嘱託、明治三二(1899)年に東京外国語学校ロシア語科教授、1901年明治三四(1901)年には海軍大学校露語教授嘱託を務めた。
 明治三五(1902)年、ロシア滞在中にエスペラントを学び、明治三七(1904)年、大坂朝日新聞社に入社。後、東京朝日に移籍し、小説(『其面影』『平凡』)を連載した。
日露戦争直後の明治三九(1906)年に日本で入門書を出版した。

 明治四一(1908)年、朝日新聞特派員としてロシアに赴任。駐露中に東京外国語学校時代のロシア語恩師・黒野義文が教壇に立つペテルブルクへ向かった。また、日本人作家の小説のロシア語翻訳も行ったが、白夜のために生活リズムを壊して不眠症に悩まされた。
 翌年肺炎、肺結核を患った。勿論当時結核は死病で、死を予感した四迷は妻、祖母宛に遺言状を書くと日本への帰国の途に就き、洋上の人となった。
 だが、五月一〇日ベンガル湾上で肺炎が悪化し、洋上に落命した。二葉亭四迷享年四六歳。五月一三日にシンガポールで荼毘に付され、遺骨は日本とシンガポールに分骨・埋葬された(遺骨の帰国は同月三〇日)。


帰国が叶わなかった事情 早い話、帰国のスピードが病状の悪化に勝れなかったことにある。薩摩守は医学の心得が無いので、肺結核の病状進行が如何なるものかは知らない。
 ただ、人伝に聞いた話では、人体器官の中でも大脳、心肺といった活発に動く重要器官ほど良化も悪化も早い傾向になると聞いたことがある。ともあれ、二葉亭四迷の発病から病没までは三ヶ月足らずだった。

 四迷が発病し、帰国途上に没するまでの時間をもう少し詳細に述べると、明治四二(1909)年二月一七日に没したウラジミール・アレクサンドロヴィチの葬儀に参加したことに始まった。
 ウラジミール・アレクサンドロヴィチとはロシア帝国のラスト・ツァーリ(皇帝)の叔父にあたる人物(先帝アレクサンドル3世の弟、先々帝アレクサンドル2世の三男)で、ロシア大公の地位にあった。
 その葬儀に四迷は参列した訳だが、二月のロシア・サンクトペテルブルクの寒さはただでさえ日本とは比べ物にならない上、雪中での参加となった。かねてから不眠症で体調を崩し気味だった四迷はその中で発熱し、翌月に肺炎・肺結核を患い、入院することになった。詳細は薩摩守の研究不足で不明だが、すぐに妻と祖母に宛てた遺言状を書き、友人の説得で帰国することになったのだからかなりの進行速度だったのだろう。ロンドンから帰国の途に就いたのは四月一〇日で、容体悪化は丁度一ヶ月後の五月一〇日、そして逝去は五月一三日だった。

 サンクトペテルブルクから日本に帰国するには陸路と海路がある。陸路はシベリア鉄道にてユーラシア大陸を横断し、満州経由で帰国するもの。そして海路は黒海から地中海を抜け、アフリカ大陸を西岸周りで喜望峰からインド洋を渡って日本に帰る航路である。
 ただでさえ交通に詳しくない薩摩守に明治時代の度に掛かる時間まで知るすべはないのだが、シベリア鉄道が現在モスクワ−平壌(ウラジオストク経由)間を七泊八日で走ることを参考にすると、当時でも二週間はかからなかったと思う。
 一方、日露戦争時の日本海海戦にて対馬沖に壊滅したバルチック艦隊は上記の航路を約三ヶ月かけて進んだ。
 勿論、途中での停車・停泊や、他の要件を考慮すると単純比較は禁物だが、出航から一ヶ月ほどで二葉亭四迷「クタバッテシメ」ったことを考えると「陸路で帰った方が良かったのじゃなかったのか?」と考えてしまう。
 「重病人を移送するのに振動が大きいであろう貴社の利用を避けた。」とか、「酷寒のシベリアを抜けるより、気候の穏やかな海上を選んだ。」とか、推測は色々出来るが、史実として四迷が取ったのは日本郵船の加茂丸に乗船しての航路だった。

 この文章を綴っている少し前(平成二七(2015)年一二月一四日)、TVのCMで肺結核に注意を呼びかけるものが流され、正岡子規、石川啄木、滝廉太郎、樋口一葉といった結核で命を落とした著名人達の写真が次々と出ていた。
 特に夭折した作家・芸術家(例:竹久夢二、梶井基次郎、新美南吉等)には結核で命を落とし者が少なくなく、「近代作家」と「肺結核」をセットで捕らえるものも少なくない。薩摩守自身、結核の存在を知ったのは「書を書く人は結核で亡くなった人が多い。」と恩師に教えられたものだった。また、戦前、「作家になることは親から勘当されるに等しい。」と云われた時代、死病に取り憑かれて、仕事もままならず、余命幾許もない身になった者ゆえに作家達はその活動を許された(つまり、もう長くないなら好きにさせてやろう、という処置)と聞いたこともある。
 発病から逝去までの時間が短かったことから、これらの結核と作家を巡る背景は四迷とは関係ないが、写実主義と日露文学交流の先駆けとなった人物が結核まで先駆けなくても良かった気がする。

 二葉亭四迷に限らず、故国に帰りたがりながらも異郷に死した人達には一抹の同情を覚えるが、欧州の中でも薩摩守は個人的にロシア料理、ロシア語、日露・日ソ交流史に関心が強い(←下手の横好き並びに食いしん坊・飲兵衛レベルです)ゆえ、『浮雲』の論調が難しくて最後まで読んでいない分際で(苦笑) 四迷に対しても自分でもよく分からない中途半端な思い入れを抱くのであった(苦笑)
 四迷の遺骨は上述した様に分骨してシンガポールと日本に眠るが、シンガポールよりはロシアに埋葬してあげたかったと思うのは薩摩守だけだろうか?


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令和三(2021)年六月三日 最終更新