第捌頁 野口英世………二つの故郷に想いを馳せての殉職

氏名野口英世(のぐちひでよ)
生没年明治九(1876)年一一月九日〜昭和三(1928)年五月二一日
職業医学博士・細菌学者
生まれ故郷福島県耶麻郡三ッ和村三城潟(現・福島県猪苗代町)
逝去場所ガーナ・アクラ
望郷の念度
概略 偉人伝記の代表選手ともいえる高名な細菌学者。ロックフェラー医学研究所研究員として細菌学の研究に従事し、黄熱病や梅毒等の研究で知られる。黄熱病の研究中に自身も罹患し、ガーナのアクラに客死した。
 平成一六(2004)年より千円札の肖像に使われている。誰か数枚でいいから薩摩守に頂けると有り難い(笑)。


経歴 明治九(1876)年一一月九日、野口佐代助を父に、シカを母にその長男として福島県耶麻郡三ッ和村三城潟(現・福島県猪苗代町)に誕生。初名は清作(せいさく)。
 明治一〇(1877)年四月、一歳の折に囲炉裏に落ち、左手を大火傷し、赤貧状態故に医者に掛かれず、長く不自由な状態となり、医学を目指す遠因となったのは超有名。

 明治一六(1883)年三ッ和小学校に入学するも、当初は学業も振るわず、不自由な左手はいじめの対象ともなり、学校のさぼる劣等生でもあった。
 だが、いじめに遭うなら学問で見返せ、という猛母・シカの説諭を受け、勉学に励むや忽ち優等生となり、級長(教諭の代わりに教壇に立つこともあった超優等生位)に任ぜられるまでになった(←シカはこれを喜び、無理して洋服まで買った)。

 明治二二(1889)年、本来なら進学できる家計ではなかったが、優秀な成績を猪苗代高等小学校教頭であった小林栄(←清作にとって生涯の恩師ともいえる人物其の一)に認められ、小林の計らいで同校に入学。更には小林を初めとする教師や同級生達の好意で清作の左手を治すための手術費用を集める募金が行われた。
 手術費用は当時の金で一〇円掛かったと云う(ちなみに当時の小林の月給が一二円だったらしい)。明治二四(1891)年、その募金でもって清作は会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師・渡部鼎の下の手術を受けた。それにより、それまで一つにくっついていて全くの不自由だった左の指がそれぞれ分離し、使用が可能となった。
 さすがに常人と全く同じような訳にはいかなかったが、物を掴めるようになっただけでも清作には大きな喜びと驚きで、これに感動したことで後に清作が医学を志すようになったことも有名である。

 明治二六(1893)年、猪苗代高等小学校を卒業すると、左手を手術してくれた渡部の経営する会陽医院に書生として住み込みで働きながら、約三年半に渡って医学の基礎を学んだ。
 この時、ほとんど独学でドイツ語の医学書を読んでいた清作は(←大学時代以来度々ドイツ語を勉強しても極簡単なものしかわからない薩摩守には信じられない……)その才を渡部の友人であった血脇守之助(←清作にとって生涯の恩師ともいえる人物其の二)に見込まれた。
 血脇は歯科医にして高山高等歯科医学院(現・東京歯科大学)の講師でもあり、明治二九(1896)年に上京して彼に師事した清作(←費用は小林に借りた)は医師免許を取得するための勉強に励み、「天才でも三回は落ちる。」と云われていた超難関試験に一発合格した(はっきり云って、勉強よりも、下宿・学費の捻出の方が苦労を強いられた)。時に野口清作、弱冠二一歳。

 念願の医師免許を取得したはいいが、莫大な開業資金捻出の目途が立たず、不完全な左手で患者に施術することを好ましくないと考えた清作は、開業医ではなく、医学者の道を歩むことを決心。血脇の計らいで高山高等歯科医学院の講師、順天堂医院で助手として会報誌の編集等に携わった。
 明治三一(1898)年、順天堂医院長・佐藤進の紹介で、当時日本を代表する細菌学者として世界的にも高名だった北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に勤め始めるた。
 だが、大学を出ていない清作は研究に携われず、試験管洗いばかりをさせられ、一時は父親同様に酒に溺れた(このとき、坪内逍遥の流行小説『当世書生気質』に自分と極めて似た堕落をする青年・「野々口精作」という人物が登場していたのに愕然として名を野口英世に改めた)。
 その後もなかなか立場は変わらなかったが、語学の能力を買われ、外国図書係、外国論文の抄録、外人相手の通訳、研究所外の人間との交渉を担当するようになった。その職務から明治三二(1899)年四月、アメリカから志賀潔の赤痢の研究を視察するために来日していたサイモン・フレクスナー博士の案内役を任され、知遇を得たことで渡米留学を志すようになった。

 同年五月、北里所長の計らいで横浜港検疫所検疫官補となった。九月には-横浜港に入港した船の中でペスト患者を発見し、ペスト菌の国内流入を防ぐという手柄を立てた。これが認められ、翌一〇月、内務省から北里伝染病研究センターに要請された国際防疫班に選ばれで清国に渡って活躍(←渡清の船内で中国語をマスターしたらしい。弘法大師様か、アンタは?)。半年の任期終了後も国際衛生局、ロシア衛生隊の要請を受け残留。国際的な業務を体験し、翌年五月、フレクスナー宛にアメリカ留学を希望する手紙を出した。

 明治三三(1900年)六月、義和団事変により清の社会情勢が悪化したのを受け、七月に帰国。再び神田・東京歯科医学院(芝より移転した元・高山高等歯科医学院)の講師に戻った。
 この頃、英世の給与もかなりの高給になっていたが、天は二物を与えず、というべきか、医学・語学に天才的な才を発揮した英世も経済観念はめちゃくちゃ(←ちなみにエジソンもそうだった)で、酒・遊郭が大好きだったこともあって貯金は全く堪っておらず、借金を重ねた小林にも叱られ、二五〇円の費用が必要と見られていたところに三〇〇円の寄付を受けたのに、渡米前祝のどんちゃん騒ぎで一夜で使い果たしたのも有名である。

 この経済音痴振りに呆れながらも、協力してくれた血脇のおかげで同年一二月に渡米を果たした。北里の紹介状を持ってフレクスナーを頼った。フレクスナー自身は英世が来るのは上段と思っていたが、勿論英世に帰国する金はなかった(苦笑)
 しばらくしてから何とかペンシルベニア大学医学部で助手の職を得て、蛇毒の研究というテーマを与えられた。ようやく医学者らしいことが出来るようになったことに狂喜した英世は、命懸けの研究(←研究中に毒蛇に噛まれる可能性は充分)に没頭し、三ヶ月後には電話帳ほどもある研究レポートを提出してフレクスナーを驚嘆させた(←勿論、一枚一枚にデカい字を書いたものではない)。
 この論文はフレクスナーの上司で同大学の理事であったサイラス・ミッチェル博士からも絶賛され、英世はミッチェルの紹介で一躍アメリカの医学界に名を知られることとなった。
 明治三四(1901)年ロックフェラー医学研究所が設立され、英世は組織構成を任されていたフレクスナーの推挙で研究員に就任した。明治三六(1903)年、フレクスナーの指示でデンマーク、コペンハーゲンの血清研究所に留学。血清学の研究を続け、物理学者アーレニウス・マドセンとの連名でいくつかの論文を執筆する。
 明治三七(1904)年一〇月アメリカ・ロックフェラー医学研究所に帰還。明治四四(1911)年八月、病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功(残念ながら後世の研究ではこの時の純粋培養はほぼ否定されている)。」と発表。
 これにより野口英世の名は世界の医学界に知れ渡り、論文を提出した京都帝国大学から京都大学医学博士の学位を授与された(この報告を受け、英世の教育と放蕩に苦労し続けて来たシカ、小林、血脇は感涙に咽んだ)。

 同年四月一〇日、メリー・ダージスと結婚。
 大正二(1913)年、梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆の患者の脳病理組織内において確認し、この病気が梅毒の進行した形であることを証明した。翌大正三(1914)年、東京大学より理学博士の学位を授与。同年七月にロックフェラー医学研究所正員に昇進した。
 またこの年を初め、生涯に三度、ノーベル医学賞候補となったが、残念ながら実現しなかった。

 大正四(1915)年)九月五日、一五年振りに日本に帰国(最初で最後の帰国・帰郷となった)。帝国学士院より恩賜賞を授けられ、日本各地を講演して回り、これに母・シカを連れ、最後で最大の親孝行を行った。
 大正七(1918)年、ロックフェラー財団の意向を受けて、黄熱病の病原体発見のため、当時、黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣。到着から僅か九日で病原体を特定し、この結果をもとに開発された野口ワクチンにより、南米での黄熱病が収束した。
 だが、後に英世を襲った不幸からも、この時流行していたのは黄熱病ではなく、ワイル病と見られている(詳細後述)。
 この成果により、英世はエクアドル軍の名誉大佐に任命された。

 だがアメリカに戻った英世を待っていたのは母の訃報だった。港でメアリーからこのことを知った英世は地面に突っ伏し、子供の様に号泣したが、既に葬儀も終わっており、職務や日米間の距離もあり、帰国はしなかった。
 その後も黄熱病との戦いは続き、大正八(1919)年にはメキシコ、大正九(1920)年にはペルーに、と奔走した。
 大正一二(1923)年七月、父・佐代助が死去。同年一一月に日本の帝国学士院会員となった。
 大正一三(1924)年、アフリカ・セネガルにて黄熱病が発生。英世が南米で開発したワクチンが全く効果を為さないとの報告がもたらされた。ロックフェラー国際衛生局はナイジェリアのラゴスに黄熱病対策組織として医学研究所本部を設置して英世の部下であるイギリス人医学者・エイドリアン・ストークス博士を派遣したが、事態は変わらなかった。そして昭和二(1927)年にはストークス博士が黄熱病で死亡するに至り、英世はメアリーが引き止めるのを振り切る様に同年一〇月、現地での黄熱病研究の為にアメリカを発ち、一一月に当時英国領だったガーナの首都・アクラに到着した。

 イギリス植民局医学研究所病理学者ウイリアム・A・ヤング博士の協力でロックフェラーの組織外の研究施設を貸与された英世は研究を開始した。だが昭和三(1928)年一月二日英世は黄熱病を発症して入院。一月九日には回復、退院し、研究を再開した。
 三月末、フレクスナー宛に南米で見つけたものとは異なる黄熱病病原体をほぼ特定できた旨の電報を出し、秘書への手紙でもそれまでの自説を否定していた。四月、フレクスナー宛にアメリカで研究を継続したいため、五月一九日にアクラを発つと打電したが、予定八日前の五月一一日に体調が急速に悪化した。
 二日後の五月一三日に正式に黄熱病と診断され、アクラのリッジ病院に入院。五月一六日には食欲を示すほどに回復したかと思われたが、五月一八日に病状は再度悪化。見舞いに来たヤング博士に「どうも私には分からない。」と発言したのが最後の言葉となった。
 そして五月二一日、昼頃、息を引き取った。野口英世享年五二歳。
 英世の最期の言葉を聞き、直前に体調を気遣われ、英世を解剖したヤング博士もまた同月二九日に黄熱病の為にこの世を去った。
 アメリカに帰国した英世の遺骸は六月一五日にニューヨークのウッドローン墓地に埋葬された。


帰国が叶わなかった事情 帰国先を日本と見るか、アメリカと見るかで見解は大きく異なる。前述した様に、亡くなる一ヶ月前に野口英世はフレクスナーに帰米して黄熱病の研究を続けたい旨を打電しており、帰国予定日を五月一八日としていたからアメリカ並びにメアリーの元に帰る意志は充分だった筈である。

 実際には英世は帰国予定日の三日後にアクラにて客死した。また予定の帰国が為されなかったことには黄熱病の病状が一進一退していこともあるだろう。
 黄熱病に関しては英世の部下だったエイドリアン・ストークス博士も、英世を看取って解剖したヤング博士もこの病の為に命を落とした恐るべき伝染病で、同時に謎も多かった。というのも、結果論になってしまうが、黄熱病の病原体は細菌ではなく、ウィルスだった(ウィルスを細菌だとすると、最近は人間の大きさに匹敵するほど小さな存在)。ウィルスは当時の医学者が使用していた光学顕微鏡では捉えられるものではなく、その正体が解明されるには電子顕微鏡の登場を待たなくてはならなかった。例えるなら虫眼鏡で細菌を探って研究していたようなもので、身も蓋もない云い方をしたら「初めから勝ち目のない勝負」だった。

 逆の云い方をすれば謎が多いゆえに英世は意固地になった。英世のアフリカ行には妻のメアリーを初め、周囲の反対もあったが、エクアドルでの研究成果が否定されたことに対する悔しさもあっただろう。当然英世はガーナ行前に自らが開発したワクチンを射っていたし、発病直後は黄熱病ではなくマラリアを疑った。つまりは「負け」を認めていたなかったのである(「負け」を認める訳に行かなかった、ともいえよう)。
 亡くなる直前に発した台詞の如く、様々謎に苛まれ、動くことの叶わない体で英世はこの世を去った。今少し謎が解明されていれば、早めにアメリカに戻るか、早めの休息が出来たかも知れない。そもそも英世は研究に没頭すると寝食を忘れる傾向が強かった。
 それがために当時アメリカの医学界では「実験マシーン」、「日本人は睡眠を取らない。」という日本人イメージが生まれた程だったが、英世自身は自分のために日本人がそのようにみられることを好ましく思っていなかったので、これは彼自身の性格だろう。
 だが、同じ研究をしている仲間が何人も黄熱病に罹患して命を落として状況を考えると、この英世の不眠不休での研究没頭が命取りになった可能性は否めない(いまだにワクチンはあっても、特効薬の無い黄熱病だが、当時にしても必ず死ぬという訳ではなく、多くの疾病同様、抵抗力・生命力で助かる人も少なくなかった)。

 一方、もう一つの故郷に対する日本に対してはどうだろうか?
 前述した様に英世は渡米後、一度しか帰国していない。そしてその後は母・シカに対して精一杯の親孝行を行ったことは有名だが、その後は母の死に際しても、父・佐代助の死に際しても帰国していない(タイミングを逸したこともあるにはあるが)。
 多忙を極めて世界各国を渡り歩き、故国でも高名だった英世に、死に際して日本に帰りたい気持ちはなかったのだろうか?
 直接の証拠が無いので推測するしかないが、これは多忙さで足を向ける機会が無かっただけで、故国に対する想い入れは並々ならぬものが有った筈と思われる。母との再会時には、次の帰国時にはメアリーも一緒に来て欲しいと云われていた。また、血脇守之助が訪米した折には多忙極まりない男が滞在中の三八日間、付きっ切りで歓待に務め、ハーディング大統領にまで会わせている(←フレクスナーが「血脇を歓待攻めで殺す気か?」と冗談混じりに揶揄するほど綿密な歓待スケジュールだったらしい)。
 そしてアメリカの名士に血脇を紹介する度に、「私の大恩人の血脇守之助先生です。」と紹介した。まあ英世の性格がどうあれ、血脇に恩義を感じてなかったとすれば「血が通っていない。」と非難されても文句は云えないだろう(苦笑)
 それは冗談として、凄まじい歓待ぶりに血脇はシカゴでの別れに際し、「既往の私の世話を帳消しにして欲しい。」と申し出た程だった。だが、英世は感泣しながら「私は日本人です。恩義を忘れてはいません。それに恩義に帳消しはありません。昔のままに清作と呼び捨てにして下さい!。」と応えたという。
 その血脇は日本歯学界の発展に尽力し、英世の訃報を満州で耳にし、愕然としたという(その後日本で執り行われた野口英世追悼会では血脇が追悼演説を行った)。

 血脇との交流を基準とするのは些か物の見方が偏っているかも知れないが、これほど若き日の恩義を重んじた英世が日本への想いが軽かったとは思えない。それを反映したものかどうかは分からないが、英世亡き後も英世の妻・メアリーと英世の姉・イヌの交流は続き、日米開交戦中も途絶えなかった。

 医学博士・砂金学者としての使命感の方が強過ぎただけで、英世は可能であればもっともっと日本とアメリカを往復したかっただろうし、英世と交流を持った日米両国の人々も同じ想いだっただろう。


余談 野口英世の研究成果には、周囲の期待に応える為に不眠不休の大急ぎで行われた結果、後に誤りとされたものも多いが、その過程における着目点、研究方法、新発見は様々な医学の発展に貢献しており、結果に誤りがあったからと云って、英世の医学と人類への功績は些かも揺らぐものではない。
 いずれにせよ、光学顕微鏡しかなかった時代に、電子顕微鏡が無ければ調べようのなかった分野にまで肉薄しただけでも驚嘆に値する。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新