隠棲の楽しみ方

第壱頁 今川氏真……優雅な戦国窓際族


栄光 今川氏真 (天文七(1538)年〜慶長一九(1615)年一二月二八日)は駿河・遠江・三河に覇を唱え、「東海一の弓取り」と称された今川義元の嫡男に生まれ、永禄元(1558)年頃より既に父・義元から三国の内、本拠地である駿河の統治を任され、政務を執っていた。

 今川氏真に関しては「菜根版名誉挽回してみませんか」も参考にして頂きたいが、一般に武将としては情けない生涯を送ったが、農政・流通・文化面では領主としてそれなりの実績を上げている。
 重複するので駿河領主時代の氏真の実績は割愛するが、三国を統べる権勢と、父・義元を背景にした治政の中で一般に文弱に耽ったとされる氏真の趣味だが、そこは下手の横好きではなく、和歌は権大納言冷泉為和ら、蹴鞠は飛鳥井流宗家の飛鳥井雅綱に学び、一般に戦人としての覇気のなさを酷評されつつも塚原卜伝に新当流剣術を学んでいたように、当代一流の師についてその習熟度は並々ならぬものがあったと云われる。
 またそれらの習得における公家との交流には政治的目的があった事も無視できない。

 全盛期の今川氏真は内政と分化文芸に優れ、足利将軍家支族の御曹司として次世代征夷大将軍たりうる存在と云えた。


没落 駿河守護にして、次期には駿遠三の太守となった今川氏真の没落は云うまでもなく、永禄三(1560)年の桶狭間の戦いにおける今川義元のまさかの討死に端を発した。

 その後の国主としての統治において農政に尽力し、経済政策もこなしていた氏真だったが、父義元の仇討ちを為すべき立場にありながら戦に消極的な姿勢や人質を巡る処遇が松平元康(徳川家康)を始めとする勢力圏内の国人領主達の離反を招き、戦う前よりその勢力を半減させていた。

 永禄一一(1568)年、ついに武田信玄と徳川家康の侵攻を招いた。
 さすがの氏真も最初から戦おうとしなかったわけではないが、既に国人達の人心離反は抑え様が無く、有力国人である葛山氏・瀬名氏の造反の前に氏真は戦いようが無く、遠江掛川城へ逃れた。

 属国扱いした上に、駿河に残した多くの人質を殺し、領主の岳父である関口親永を切腹させられた三河徳川家の離反はともかく、三国同盟で互いに固く結び合っていた筈の武田家からの侵攻には同盟のもう片翼である北条家が怒り、今川家に同情したが、その後の氏真は掛川城主・朝比奈康朝とともに半年ほどの篭城での奮闘が精一杯だった。
 永禄一二(1569)年、氏真は城兵一同の助命を条件に「和睦」という形で開城に応じた。和睦内容は今川氏真・北条氏康・徳川家康の名で為され、武田氏を駿河より駆逐した後に氏真を再度駿河領主とする事を約したものだが、結果的に、そして必然的に履行されなかったのは歴史がそれを示している。
 形式や政治上はともかく、戦国大名としての今川家の事実上の滅亡がこの時だった。


隠棲 掛川城の開城後、今川氏真は正室の実家北条氏を頼って相模に逃れた。
 名目上はいまだ駿河守護にして、同盟相手でもある氏真は永禄一二(1569)年五月二三日に同盟強化の為、北条氏政の嫡男・国王丸(氏直)を猶子とし、武田信玄への対抗の為、今川・北条・上杉三国同盟を結んだ。

 しかし上杉との同盟は北条に利無し、と見た氏康は自らの死を契機に上杉と縁を切り、武田と結び直すことを遺言。元亀二(1571)年に氏康が没すると氏政は遺命に従い、氏真は相模を離れ、徳川家康の庇護下に入った。
 氏真にとっては掛川城開城時の盟約が頼りで、家康にとっては甲州勢迎撃に世論の支持を取り付けるためにも氏真を保護することに大義名文を得る、という利があった。

 父義元の仇である織田信長に会見し、評判の悪い「親の仇の前で蹴鞠をついた」のエピソードはこの時のことである(場所は京都相国寺)。
 その後一時期、遠江牧野城主に任ぜられたり、長篠の戦にも従軍する等の徳川家の末将的な役割のこなした様だが、程なく上京し、剃髪して (そうぎん)と号し、京に定住した。
 客将としての地位を解任されたとも云われるが、その後も家康の保護は続き、旧知・姻戚の公家などの文化人と往来し、連歌の会などに参加していたのだから家康によって駿河守護時代の人脈を活かした、朝廷・公家とのコネクション的役割を課せられた模様である。
 しかしながらこの任務こそが氏真にもっとも向いた任務であり、その後の今川家の家格の基ともなった。

 著名歌人・冷泉為満との親交を始めとする公家との交流の中で一七〇〇もの和歌を残した氏真の徳川家文化担当者としての活躍は、山科言経(やましなときつね)の『言経卿日記』に記され、後水尾天皇が選んだ『集外三十六歌仙』に名を連ねるほどであった。

 その後、天下は家康が唯一膝を屈した豊臣秀吉の手によって、かつての同盟相手でもあった北条家が滅ぼされることによって一応の終息を見た。
 更には慶長五(1600)年関ヶ原の戦いの後、氏真の嫡男・範以(この時既に早世)が相続した今川家の当主にして氏真嫡孫の今川範英と氏真次男にして分家・品川家の当主・品川高久の二人が揃って徳川秀忠より旗本に列せられ、氏真も江戸に移住した。
 以後今川家・品川家は正式に幕閣に和歌を始めとする芸の道を教導する役職の家となった。

 慶長一九(1615)年一二月二八日、大坂冬の陣の和睦がなり、戦国最後の束の間の平和の中、江戸品川の次男・品川高久宅で今川宗こと今川氏真は没した。
 享年は七八歳で、単純な年齢においても、その流浪に近い、武力的にはいつ消されてもおかしくなかった後半生を考えれば驚嘆に値する。
 葬儀は弟・一月長得が萬昌院で行い、萬昌院に葬られたが、後に妻・蔵春院早河殿の墓とともに、東京都杉並区今川町の宝珠山観泉寺に移された。法名は傳岩院殿量山泰栄大居士。


総論 一般的に父・義元討死後に丸で覇気を見せず、武田信玄と徳川家康にいいように翻弄されて駿河を追われた愚将に見られる今川氏真が全盛期にも没落後にも趣味とした和歌と密接な立場に居られたのは注目させられます。
 誰も好き好んでかつて格下だった属国領主(家康)の庇護下に入ったり、親の仇(信長)の前で道化にされる屈辱に甘んじたりはしないでしょう。

 単純に考えるなら、父・義元との安定した連立治世下で趣味と実益を兼ねた蹴鞠・和歌の日々と、かつて属国降将扱いした相手が主となって命を下す任務としての連歌の日々では前者の方が望まれるところでしょう。
 しかしながら一つ確実に云えるのは文化人としての氏真の技量が下手の横好きではない一流の域にあり、駿河守護時代からの政治家としての交際能力と、それまでに築いていた人脈があったからこそ、「芸は身を救う」となったいう事です(つまり、「芸」だけでは助からなかった可能性が高い)。

 覇気を捨てた隠棲に甘んじることが出来なければ、生命・家格・著作のすべてが江戸時代に残ることはなかったでしょう。
 徹底的に趣味に徹した隠棲は氏真が最後に望んだ事であると同時に生命線でもありました。
 彼の隠棲を「文弱」と見るか、「処世術」と見るかは個々人の自由ですが、中途半端な技量やプライドに対する固執等で簡単に瓦解したものであろうことを考えると、勢力を失った時に同じ様に身を振れる人間がそうは見当たらない事を胸に留めたいものです。


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令和三(2021)年五月一〇日 最終更新