隠棲の楽しみ方

第弐頁 毛利輝元……大権放棄後に見る才覚と安定


栄光 毛利輝元 (天文二二(1553)年一月二二日〜 寛永二(1625)年四月二七日)は謀将として名高い毛利元就の嫡孫に生まれ、彼の父・毛利隆元も若死にしたために歴史的な影こそ薄いものの、その温厚篤実な人柄で武勇の次弟・吉川元春、知略の三弟・小早川隆景のみならず、時には隠居の父・元就や朝廷・幕府まで使いこなして毛利両川体制と中国地方覇者としての礎を築いた男だった。
 そんな偉大な祖父・父・叔父の元に生まれたのは輝元にとっての幸運でもあり、不運でもあった。

 幼名は幸寿丸で、永禄六(1563)年、父・隆元の急死のために弱冠一一歳で家督を継いだ際に室町幕府第十三代将軍足利義輝の「輝」の次を貰い、毛利輝元となる。
 曾祖父弘元・祖父元就の代の毛利家は大内・尼子の中国二代勢力に挟まれて二面外交を強いられ、父隆元にしても最初は大内氏の人質にならざるを得なかった(待遇は悪くなかった)のに対し、三代目とも云える輝元が生まれた頃には毛利家は両川体制が確立し、それに引き換え、尼子は内紛寸前で、大内も陶晴賢の大内義隆に対する謀反の影響を引き摺っていた。
 更に輝元が家督を継ぐ頃には大内家は事実上滅亡し、尼子家も斜陽の一途をたどっており、毛利氏の中国制覇はほぼ掌中の物となっていた。

 その後、天正元(1573)年に京都を追われた最後の室町将軍足利義昭を保護した事から織田信長との対立が生まれ、石山本願寺を海上援助して、信長旗下の九鬼嘉隆水軍率いる伝説の鉄甲大船と激戦を繰り広げ、羽柴秀吉の襲来を受けるなどして、数々の危機を招くも、二人の叔父・優秀な家臣団・陣僧安国寺恵瓊の機知もあって、清水宗治を初めとする重大な犠牲を払いつつも本能寺の変をきっかけに一応の危機を脱した。

 本能寺の変を知らぬまま、羽柴秀吉から持ちかけられた和睦を受諾し、変の発覚後、和睦を反故にして羽柴勢追撃を訴える吉川元春と、秀吉を重く見て和睦を履行する事を訴えた小早川隆景・安国寺恵瓊とで家中の意見は別れたが、輝元は和睦履行論を採択し、これは結果として後々の豊臣政権成立の事実からも「吉」と出た。
 実際、秀吉は毛利家の人々に対してかなり好意的だった。人たらしの秀吉が元春にだけは生涯好かれなかったが、結局は四国征伐に参加しなかった元春も九州征伐には参加(その途中で元春陣没)、その九州征伐で強敵・島津の前に大きな犠牲を払った毛利家だったが、その奮闘も秀吉の好感を得るのに一役買い、天下統一後、秀吉の関白就任(この時に「豊臣」に改姓)に伴なって輝元は叔父隆景とともに五大老に任じられた。

 石高も毛利家一一二万石、小早川家三五万七〇〇〇石、安国寺恵瓊六万石で、地理的にも本拠地である中国地方に留まる事を認められた訳で、もし毛利一族が一丸となって反旗を翻せば天下人・秀吉といえども再度の苦戦を強いられることは必定で、毛利一族に対する並々ならぬ好意なしには考えられない待遇だった。
 秀吉の好意はその後も続き、朝鮮出兵を命じられた際にも小早川隆景・吉川広家(元春三男)が渡海して碧蹄館(ペチェグァン・へきていかん)の戦いで両将が活躍した。
 一方で、本家である毛利家は養子・毛利秀元(元就四男である穂井田元清の子・輝元従弟)が渡海したものの、当主輝元は本土に留まることとなった。
 徳川家康や前田利家が渡海しなかったのと同様と見られ、輝元がいざという時の温存すべき勢力であり、国内においても重きを為す存在と見られていたからでもあろう。

 そして表面上はともかく、事実上はここまでが毛利輝元及び毛利家の最も輝かしい時代であった。


没落 毛利輝元及び毛利家の没落は慶長二(1597)年六月一二日の小早川隆景逝去に始まった。
 勿論智謀に長けた隆景の事、輝元にもそれ以上の大身を望まない事を遺言し、生前、実子の無い輝元 (後に秀就が生まれはしたが)に秀吉の甥である秀秋が養子として押し付けられそうになった時には自らの養子に秀秋を貰い受けることを直訴して毛利本家が乗っ取られる事を防ぎもしたし、その秀秋には宍戸隆家(姉婿)の娘(つまりは輝元の従妹)を娶わせて、秀秋の毛利一族としての強化にも努めた。

 だがその隆景にも死がやってきた。
 頼りにしていた叔父の死を輝元が悲しんだのは云うに及ばずで、朝鮮の地で訃報に接した安国寺恵瓊は隆景を失った毛利が軽く見られかねない今後を嘆き、父・元春とは対照的に知略に秀でていた広家も「後、五、六年生きて欲しかった。」と呟き、、秀吉に至っては六五と云う当時としては然程短いとも云えない享年に対して、「才知が人の寿命を延ばすのであれば、隆景は百まで生きたであろう。如何ともし難い事だ。」と云ってその死を惜しんだ。
 そして隆景亡き毛利一族にあって知略を担えるのは吉川広家・安国寺恵瓊ぐらいだったが、明かに隆景とは役者が違った。否、相手が悪かったとも云える。

 さて、ここまで殆ど毛利輝元を有能家臣に支えられた凡将みたいな、実に影の薄い人物に綴ってしまったが、事ここに至って輝元はついに自らの決断で動かざるを得なくなった。
 良くも悪くも真の毛利輝元伝はここから生まれたと云えるのかも知れない。
 その輝元だが、一般に凡将とされるのはその後の「没落振り」と、それを予測していたかのような元就の書状(少年期の覇気のなさや機密を簡単に口外する様を嘆く内容が残っている)に隆景がスパルタ教育を必要とした(通常、叔父でも分家の当主は本家の当主に主君として接するが、隆景は叔父として接し、時には折檻も辞さなかった)ことによるものだろう。

 輝元の実際の没落は関ヶ原の戦い直後の、西軍総大将としての腰砕けに始まった。

 豊臣家の為に徳川家康を除かんとする石田三成は上杉景勝と共謀して家康を会津征伐に向かわしめ、それを挟撃せんとして挙兵した。
 三成の親友・大谷吉継は一度は三成に苦言を呈して止めるも、その決意動かす事能わず、と見るや三成への合力を決意し、再度苦言を呈して、その人望のなさと石高や権威からも自らは総大将に立たず、五大老から総大将・副将を担ぎ出す事を勧め、三成もそれに従った。
 そして総大将として担ぎ出されたのが毛利輝元であり、副将に担がれたのが宇喜多秀家であった。

 関ヶ原の戦いにおける事実上の総大将が石田三成と見られるように、総大将である筈の輝元の知らない所で様々な思惑が動いていた。
 五大老の筆頭にして、生前秀吉が頼り、恐れもした徳川家康と敵対する事を良策としない吉川広家は輝元にも伏せて密かに家康と通じ、毛利家の本領安堵を取り付けると輝元を大坂城に留め、合戦時に前陣にて南宮山を動かなかった。
 そのため、後詰の毛利秀元・安国寺恵瓊・長宗我部盛親も動けず、東軍は背後を気にする事無く、全面の敵に集中攻撃を浴びせた。

 また、毛利一族の一員でありながら、事実上両川体制の一翼から離れたに等しかった小早川家は徳川家康・黒田長政・石田三成・稲葉正成といった敵味方を問わぬ老獪な大人達によって若大将・秀秋が翻弄された。
 結果、紆余曲折はあったものの松尾山からの寝返り攻撃で東軍大勝利に貢献したのは余りにも有名である。
 かと思いきや養子・秀元は養父・輝元に秀頼を擁しての出陣を要請したり、関ヶ原敗退後は立花宗茂とともに大坂城での徹底抗戦を主張したりしながら、当初は大坂入城に反対してもいた。
 更に故小早川隆景とともに毛利一族のブレーンを担っていた安国寺恵瓊は石田三成との懇意から積極的に輝元を半ば強引に総大将に祭り上げるための片棒お担ぐ始末であった。

 これでは輝元の意志がどこにあろうと、一枚岩ならぬ一族体制の前にあっては万全を期しようがなかった。
 はっきりしているのは水面下で親徳川と反徳川が凌ぎを削り、まとまらない状況下で決断を下し得るのは輝元のみで、その輝元が大坂城に入城したことで西軍毛利の立場は動かしようがなくなったという事である。
 そんな中でも益田元祥(ますだもとよし)・熊谷元直(熊谷氏は吉川元春正室の実家)・宍戸元次(宍戸氏は元就長女の嫁ぎ先)等が連名で榊原康政・本多忠勝に弁疏の書状を送り、広家も榊原に同様の書状を送っている有り様だった。

 だが、輝元が宇喜多秀家とともに両者の名で家康弾劾(故太閤の遺命違反など)の書状を諸大名に送った状態では家臣の弁明がどれほどの力を持ち得ただろう?旗色は動かしようがなかった。
 周知の通り関ヶ原の戦いは西軍の大敗に終り、ここで初めて広家は徳川方との密約を輝元・秀元に明かした。
 輝元は徹底抗戦を主張する秀元の意見を退け、広家に従って、黒田長政からの家康に害意のない旨を示した書状を受け取った事もあって、返書の後に大坂城西ノ丸を退去した。
 この時、輝元の胸の内に「長政だけではあてにならない。せめて井伊直政あたりからの確約した書状を。」との懸念がないでもなかったが、実際に行動に移すには余りにも後手後手に回り過ぎた。
 そして、戦わずして退去した輝元に与えられようとしたのは広家が確約を取り付けた「本領安堵」どころか、「改易命令」であった。

 勿論輝元も広家も約束反故に慌てに慌てた。
 状況的に不戦の密約も「家臣が勝手にやった事」と突っ撥ねる事も家康には可能なのである。
 広家は黒田・井伊に必死に嘆願し、自らが褒賞として与えられる筈の周防・長門の二国拝領を投げ打って、毛利輝元・秀就親子の身命保証と毛利家改易の撤回を懇願した。
 相当な懇願だったらしく広家に与えられる筈だった周防・長門の二国が辛うじて輝元に残される事となった。
 だがその石高は三六万九〇〇〇石………その転落振りは石高だけを見れば同じ五大老にあった上杉景勝と同様の痛手だったが、云い掛かりに等しい戦いにも堂々と戦い抜いた上杉軍に比して、戦わずして大転落した輝元に対する同情は少ない…。時に毛利輝元四八歳。


隠棲 辛うじて周防・長門二国三六万九〇〇〇石のみを安堵された毛利輝元は隠居して、家督を秀就に譲り、自身は入道して幻庵宗瑞と号した。このコーナーの主旨通り、隠棲中にこそ輝元の見るべきがあると薩摩守は見ている。

 隠居必ずしも引退ならず、という例は古今東西枚挙に暇がない。
 輝元も隠居しつつも即座に領内改革に着手した。否、一二〇万石から三〇万石という大減封は何もせずにいられる甘いものではなかった
 同様の大減封にあった上杉家では家臣の数を減らさなかったために多くの家臣が大減給となったが、毛利家では大リストラを敢行した。

 話は飛ぶが、本来「リストラ」とは「restructuring(再構築)」の略で、部署編成や人事異動による企業内の構造的な改革を指す言葉である。
 だが、いつの間にか「人員削減」・「大量解雇」の代名詞となってしまっている。偏にバブル経済崩壊後からの「再編成」に名を借りてイメージの悪い「首切り」を態よく云い訳され続けている訳だが、ここで挙げた毛利輝元のリストラは本来のリストラでもあり、人員削減を伴なう平成版のリストラでもあった。

 輝元は長州藩の萩を本拠とし、長府・下松(くだまつ)を支藩とした。
 長府は元養子で、秀就誕生後に養子の地位を放棄して固辞した毛利秀元が藩主に、下松藩は輝元次男の就隆を藩主とし、更に長府藩からは後に清末藩が分枝されている。
 実は本来ならもう一藩とも云える存在が岩国にあるのだが、支藩とは認められず、岩国領の「領主」とされたのが吉川広家だった。
 明かな報復人事で、広家はギリギリで毛利を救った「功績」を買われるより、独断で一族を危機に陥らせた「罪」の方が重く見られた。
 広家も一族の白眼視に云い訳せずに耐え続けたが、岩国はついに藩に昇格する事はなかった。

 輝元の報復人事は家臣にも及び、如何なる理由によるものか、徳川に通じた家臣でも益田元祥は家老に任じられるとともに益田氏は永代家老家格とされたが、熊谷元直は族滅となり、宍戸元次に始まる宍戸氏は一門筆頭に列せられた。
 この人事には吉川元春・小早川隆景コンビによる両川体制の盤石と、吉川広家・毛利秀元コンビによる体制のちぐはぐさの比較を思い知らされ、そして安国寺恵瓊や広家の独断専行に煮え湯を飲んだことが相当輝元の身に染みていた事に端を発していると云えよう。

 一族や家老がこの有り様なのだからそれより格下の家臣は帰農させられた者も多かった。
 だがそれはいずれ復職を睨んだ一時的なもので、その間も輝元は新田開拓や特産品奨励で長州の実収を高め続け、地方藩主、そして没落大名家中興の祖としては申し分ない働きをした。

 慶長二〇(1615)年五月、周防山口にて大坂城落城と豊臣家の滅亡の報に接した輝元は「公私大慶に候」と述懐し、余人の顰蹙を買っている。
 豊臣家と袂を分かったとはいえ、細川忠興は炎上する大坂城に涙し、ほんの半年前まで血縁上の義理から淀殿・秀頼母子に侍っていた織田有楽斎は母子の訃報にただ黙って茶を喫していたのに比べて世間は輝元が目出度い、と述べた事を余りに情がなさ過ぎる、としたのだが、薩摩守はそこに人と人の思惑と結束に倦み疲れた隠居ならざる隠居の人生観を見た気がする。
 寛永二(1625)年四月二七日毛利輝元長門国萩にて死去、享年七三歳。墓所は山口県萩市の天樹院。


総論 「命長ければ恥じ多し」とも云います。
 七三年の長寿に大権力と「有能一族に助けられた絶頂期」と、「側近を御し切れずに流されたための没落期」を味わったから毛利輝元の人生は複雑です。
 逆境に置ける踏ん張りを男の真価とするなら、輝元はこのコーナーよりも『菜根版名誉挽回してみませんか』に取り上げる方がしっくり来る人物とも云えます。
 輝元は結局隠居しながらも引退はしませんでした。
 しかし天下取りにあくせくする必然性をなくし、改めて叔父達に支えられていた頃を思い出したかのような一族体制を再構築した時、能吏然とした「隠棲」の日々は「院政」でもありながら、やはり対人関係にあくせくした日々からの「隠棲」でもあり、五大老時代よりはよほど輝元本来の性に生きられた日々ではなかったでしょうか?


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令和三(2021)年五月一〇