隠棲の楽しみ方

第参頁 宇喜多秀家……流刑も何のそのの長寿と土着


栄光 備前の梟雄・宇喜多直家を父に持つ宇喜多秀家 (天正元(1573)年〜明暦元(1655)年一一月二〇日)、幼名・八郎は天正九(1581)年に九歳で直家が没して後、母が豊臣秀吉の寵愛を得た事から秀吉の猶子(家督相続権を持たない養子)となった。
 長じて、同じく養女だった豪姫(実父は前田利家)と娶わせられ、豊臣政権重鎮である五大老の最若年でありながら席次では三位に位置するほどだった。

 秀吉との出会いは毛利征伐直前。叔父の浮田忠家(注:傍系は「宇喜多」ではなく、「浮田」と称した)に伴われて織田信長に謁し、直家の跡目を継ぐ為の後ろ盾とする事に成功し、その見返りとして信長からは中国征伐の為の布石とされたわけだが、この時仲介を行ったのが羽柴秀吉であった。

 翌天正一〇(1582)年の本能寺の変で有名な中国大返しを行った秀吉は、一万の軍を率いて加勢した弱冠一〇歳の八郎に毛利との和睦で割譲された備前・美作数郡を与えられた。
 亡父の旧領と併せると五七万四〇〇〇石の太守となった訳で、養子縁組以前から相当秀吉には可愛がられていたようである(勿論政治的打算が全くないわけではないだろうにしてもである)。
 前述した様に、これには寡婦となった八郎の母・お福が秀吉の寵愛を得たことが大きい。だが、この時点で実子に恵まれていなかったとはいえ、秀吉の子煩悩も大きい。

 天正一三(1585)年、八郎は正式に秀吉の猶子となるとともに元服した。
 代々受け継ぐ「」の字に、秀吉から「」の字を与えられ、「秀家」となったが、猶子とは云え、公の場では「羽柴秀家」、領内に出す文書署名には「豊臣秀家」を使うことになっていたと云うから秀吉の可愛がりようが尋常ではないことが分かる(本名並びに通常はあくまで「宇喜多秀家」)。
 秀吉の子煩悩は有名だが、秀家に対するそれは他の養子・猶子と比べても遜色ないどころか、かなりの優遇であった。
 元服の翌々年には一五歳で従三位・左近衛中将・参議に叙せられ(勿論秀吉の推挙)、天正一七(1589)年には前述通り、同じ養女にして前田利家四女の豪姫を娶わせた。政治的意図からも豊臣・前田・宇喜多の連合を重視した優遇でもある。

 単に秀吉に猫可愛がりされただけでなく、厚遇に伴う重責も課せられた。
 朝鮮出兵においては元帥(渡海司令官)に任じられ、朝鮮半島にて軍中で交わされた八道国割では王都・漢城(ハンソン・現ソウル)のある京畿道(キョンギド)が担当になった。
 このことから、秀家には諸将から認められるだけの実力を持つに至る教育を秀吉から施されていたと見える(同じ養子でも慶長の役で総大将に任じられた小早川秀秋は傀儡に近かった)。
 その軍功により、権中納言になったのが文禄三(1592)年で、秀家は弱冠二一歳。その三年後に二四歳の若さで五大老に列せられた秀家は、キャリアこそ見劣りするものの、官位は五大老第一位の徳川家康(大納言)に継いだ。
 第二位の前田利家でさえこの時点で右近衛権少将だった(後に秀吉薨去時点で家康は内大臣、利家は大納言)。

 話は逸れるが、豊臣秀吉の子煩悩は良き面も悪しき面もあるとはいえ、幼児虐待をするよう馬鹿親どもに彼の爪の垢を煎じて飲ませたいものである。
 殊に昨今、親の離婚により連れ子となった幼児が新しい親に虐待される例などを聞くと、血の繋がらない養子や、秀家のような連れ子も可愛がり、領土や大権だけでなく、きちんとした教育も施した秀吉の子煩悩は、(暴走時は洒落にならないが)一個人としてはかなり微笑ましい。
 薩摩守は特に秀吉を好んでいる訳ではないが、彼の子煩悩は戦国時代だからこそ注目せずに入られない。


没落 宇喜多秀家の没落の始まりが猶父・豊臣秀吉の薨去にあることは説明不要だろう。
 朝鮮出兵から帰国した秀家は出兵による莫大な出費から来る財政難の対応を誤り、武断派家臣達(含む身内)の離反を生み、一時はその家臣達が大坂屋敷に立て篭もり、武力闘争にまでなりかけたが、これは徳川家康と大谷吉継の仲介で離反者達が増田長盛預かりとなることで回避された。
 余談だが、この時の離反者達の大将が浮田左京亮で、後に坂崎出羽守直盛に名を改め、大坂夏の陣に千姫救出の悲劇を演じたのであった。

 家康に妙な借りの出来た秀家だったが、そんなことでは秀吉から受けた大恩は些かも揺らがなかった。
 秀吉が甍ずるや、諸大名との勝手な縁組などで秀吉の遺命に背いているとした石田三成の主張に応じて秀家五大老の一人として他の三大老(前田利家・毛利輝元・上杉景勝)とともに家康弾劾に立った。
 この時は前田利家が余命幾ばくもなしと見て、家康の方が事を急がずに退いたために一触即発は避けられたが、翌慶長四(1599)年に利家が没するとその遺体も冷え切らない内に武断派七将(加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興・加藤嘉明・浅野幸長・池田輝政)が石田三成を襲撃する有り様だったが、この時秀家は佐竹義宣とともに三成を逃がすのに助力した。
 このようないざこざが程なく関ヶ原の戦いに繋がり、それは取りも直さず、大名としての秀家最後の活躍にして没落本格化の始まりでもあった。

 上洛命令に応じない上杉景勝を征伐する為、軍勢を率いて大坂を発った徳川家康を背後から挟撃せんとして挙兵を目論んだ石田三成は莫逆の友・大谷吉継の勧めに従って毛利輝元を総大将に立てた。そして同時に副将に立てられたのが宇喜多秀家であった。
 総大将の輝元が大坂城西ノ丸に居座った事から、関ヶ原での総大将は宇喜多秀家と云っても過言ではなかった。

 西軍副大将として、関ヶ原での大将として一万七〇〇〇の軍勢を率いる秀家は東軍先鋒にして猛将・福島正則、徳川家四男・松平忠吉、その岳父にして徳川四天王の一人・井伊直政の軍勢にも正面から堂々と渡り合った。
 関ヶ原の戦いにおける西軍のチームワークは最悪と云って良かった。
 大谷吉継の指摘通り石田三成は生真面目過ぎる故に人望がなく、島津義弘も小西行長も積極的に戦わず、吉川広家・小早川秀秋に至っては家康に通じて動かなかったり、裏切ったりで、それが為に長宗我部盛親・毛利秀元・安国寺恵瓊は動く事もままならなかった。
 そんな中で獅子奮迅の戦働きをしたのが、石田三成・大谷吉継、そして宇喜多秀家だった。

 だが小早川秀秋の裏切りから西軍は崩れ出した。
 それだけならまだしも、裏切りの伝染病は脇坂安治・赤座直保・朽木元綱・小川祐忠に波及し、遂に宇喜多隊も総崩れとなった。
 秀家は戦場に散る覚悟で小早川隊に突撃せんとしたが、重臣・明石全澄(あかしてるずみ)の勧めに従って戦場を離脱し、再起を図らんとした。
 その道中、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊等が美濃息吹山中等で次々と捕まる中、秀家は重臣・進藤三衛門正次の取り計らいで美濃伊吹山の山村に一飯の宿を請うた際、助けてくれた家主に家康も欲しがったという鳥飼国次の名刀を渡したと云う。
 また北近江にて金子が必要となった際にも、進藤が大坂の宇喜多屋敷に急行して豪姫に会って黄金二五枚を調達。内二〇枚を農民に渡して協力を取り付け、豪姫の方でも人を派して本多正純に秀家死亡の虚報を流したりした。

 北近江に半年以上も潜伏した後に秀家主従は実母のいる円融院(現:大阪府堺市伊庭町)に辿り着いた。
 お福は秀家の生存に涙を流して喜んだが、徳川方に漏れるのを恐れて豪姫にも知らせなかった。
 だが一年二ヶ月後に徳川方の忍びに嗅ぎ付けられ、秀家は舟で堺を発ち、同じく関ヶ原にて戦場離脱に成功した島津氏の領土である薩摩に潜入した(途中で剃髪し、「休福」と号した)。

 島津忠恒は父・義弘の盟友である秀家が領内に潜入しているのを黙認していたが、三年後に再び徳川方の忍びに嗅ぎ付けられるに及ぶや、秀家に自首を勧めた。
 説得に応じて自首することを決意した秀家に島津忠常と義兄・前田利長が秀家の助命嘆願を行った。
 自首した秀家は駿府への出頭を命ぜられ、駿府久能山に幽閉。裁かれる身となった。
 勿論関ケ原の戦いという大戦における西軍副将であった秀家の死罪を求める声は幕府内にも多かったが、慶長一一(1606)年、島津・前田氏の懇願もあって宇喜多秀家は死罪を一等減じられ、八丈島への流刑が決まった。時に秀家、三四歳の若さであった。
 後の世において江戸時代を通じて流刑地の代表とも云える八丈への島送りはこうして始まった。

 (※本来、宇喜多秀家の没落は関ケ原の敗戦で決定的であり、逃亡生活も「隠棲」に含めても良かったのだが、逃げ続ける秀家の為に消極的とはいえ、島津と前田が政治的危険を犯してまで秀家助命の為に尽力した事は秀家に政治的存在義が大きかったと見て、八丈島流刑までを没落途上としました。)



隠棲 宇喜多秀家は二人の息子(長男・孫九郎秀高、次男・小平次秀継)、他一〇人の従者とともに八丈島に流され、筵やすげ傘を折る日々が続いた。
 江戸時代に「鳥も通わぬ」と称された八丈島は、黒潮の影響で温暖な気候自体は快適だが、黒潮の流れの早さ故に脱出が困難で、必然的に本土との往来も限定される事からさながら天然の牢獄であった。
 弥生時代には人が住んでいた痕跡があり、室町時代には鎌倉公方の統治下にあった事がはっきりしている八丈島だが、温暖ながらも塩害の激しさから豊穣の地とは云い難く、島民は臨終間際を除けば年一、二回の祝い事のある時しか米が食えなかったという。
 勿論宇喜多親子・主従の生活も苦しいものだった。

 罪人の身とはいえ、元大名でもある宇喜多秀家はまだ流人としては優遇されていた方だった。
 江戸幕府は代官を時折八丈島に派遣して、秀家を出頭させたが、形式的に流人に対する謹慎状況の報告を行わせただけで実際には秀家に食事も振る舞った。
 割りと有名な話だが、代官・谷庄兵衛が秀家に握り飯を振る舞ったとき、秀家は三つの内一つを食すと残り二つを懐紙に包んだ。
 谷は秀家の食欲がないのか?と訝しがったが、包み込んだ握り飯は家中への土産だった。つまり出頭先で出される食事を持ち帰り、それを家族が当てにするほど生活は逼迫していた。

 だが、この経済的に困窮を極め、過去の栄華を粉々に粉砕された宇喜多父子の生活に、妻であり、母である豪姫が立ち上がった。
 夫や子供とともに八丈に渡って苦労を供にしたい、との申し出が容れられず、実家の前田家で一人身となっていた豪姫は幕府に申し出て、隔年で白米七〇俵、金子三五両、衣類・雑貨・医薬品の物資援助を八丈島へ送ることが許可された。
 これに関して恐れ入るのは前田家の義理堅さである
 隔年の援助は寛永一一(1634)年に豪姫が六一歳で没しても、その二一年後に秀家自身が没しても終らず、何と明治三(1870)年に明治新政府による恩赦がでるまで約二六〇年間、宇喜多秀家の末裔達に続けられたのだから!
 果たして道場主の二六〇年前の御先祖の妻の実家が今の道場主のために何かをしてくれるだろうか?無理である(苦笑)。はっきり云って祖母の実家すら全くの疎遠である(再度苦笑)。

 本来、この「隠棲の楽しみ方」の主旨に沿うなら生涯罪人として食うにも苦難続きの余生を送った宇喜多秀家隠棲を楽しんだとは云い難いので、取り上げるには些か苦しいものがある。
 だが、食うにすら事欠いた隠棲の中で秀家は秀吉に可愛がられ、豪姫を愛し愛され、岡山を築いた君主としての気概を持ち続けた点に、自分らしく生きた秀家の隠棲を買いたくて取り上げた。

 一説によると秀家には大坂の陣終戦後に大名として返り咲く選択肢があったらしい。
 だがその条件は「徳川家に臣従すること」で、秀家が秀吉への義理から豊臣家を滅ぼした徳川に従うを良しとせずに「自首」した筈の相手に「降伏」しないが為に流人生活の続行を選んだと云うのである。
 秀家の選択を処世術を知らない下らない意地張りと嘲笑うか、自分を可愛がってくれた猶父秀吉、義弟秀頼への義理を何処までも重んじた漢(おとこ)らしい生き様と見るかは個々人の判断に委ねる。

   余談だが、とある本で読んだ内容によると、長寿の秘訣とは「適度の労働」と「粗食」にあるらしい。秀家の流人生活は正しくその最たるものだったのではあるまいか?
 流人となること約半世紀、明暦元(1655)年一一月二〇日、宇喜多秀家は享年八三歳と云う当時としては脅威的な長寿の果てに関ケ原の戦いに参戦したどの武将よりも長い戦後を生きた果てに世を去った(法名は樹松院明室寿光または尊光院伝秀月久福大居士。墓所は東京都八丈町大字大賀郷稲葉墓地と東京都板橋区板橋の丹船山薬王樹院東光寺)。
 参戦時の年齢の若さを考慮しても長命であった事に疑いはなく、単に没落の憂き目に打ちひしがれるだけの余生に半世紀も生きる気力は持ち得ない、と薩摩守は考える。
 そしてそれを受け継いだかのように、秀家の二人の息子に続く血筋は明治の赦免時に二〇〇もの家を為していた。



総論 「まさかの時の友が真の友」という言葉があります。富貴の身にある人が華やかで楽しい付き合いを多く持つのは当然で、没落が交流を減らすのも世の常です。
 逆に、それが世の常だからこそ、没落の流人と化した宇喜多秀家に最大限の援助を行った前田家は凄いと思いますし、八丈島にて本土との交流がままならない秀家秀家らしさを失わないかすかな動きにも注目されます。

 最後に宇喜多秀家に関する二つのエピソードに触れて締めとしたいと思います。
 秀家と同じ豊臣秀吉子飼いの将で、関ケ原の戦いで宇喜多勢との激戦の功により安芸広島四九万石の領主となった福島正則は参勤交代での江戸滞在中、船で広島の酒を江戸へ運ばせて楽しんでいました。
 ある年、船が嵐で八丈島へ漂着したとき、一人の老人が、「旗印からすると福島殿の船とお見受けする。広島の酒を一樽所望したい。」と申し出ました。
 使いの者は相手が宇喜多秀家と知って、敗残の没落に同情し、積んでいた酒を一樽渡しました。
 一樽足りない酒の云い訳に、一度は嵐で「樽が海中に没した。」と虚偽の報告しようとした使者でしたが、結局は正直に秀家に酒を渡した事を告げました。
 戦場では敵と激しく戦おうとも、平静は熱き武人たらんとしている正則は使者を怒るどころか多いに褒め、嵐による避難などで八丈島に立ち寄る際は秀家に快く酒を送ることを、命じました。

 NHK大河ドラマ『葵―徳川三代』宇喜多秀家断罪にあたって、関ケ原の戦いでの宇喜多勢の奮戦を徳川への露骨な敵意とする幕閣に対し、前田利長と島津忠恒は戦場にて武士が眼前の敵に死力を尽くして戦うのは当然、と云い切って秀家を庇うシーンが印象的でした。
 そのときの戦闘相手が福島勢だったのですが、戦場で激しく戦いつつも正則と秀家の間には戦った者同士にしか持ち得ない情と、ともに秀吉を「親父様」と呼んだ過去が合い通じていたのかも知れません。


 もう一つのエピソードは寛永二〇(1643)年、備前牛窓の廻船問屋の船が八丈島に漂着したとき、船員が「備前の話を非常に興味深げに聞く老翁」に出会ったという話です。
 この老翁が宇喜多秀家であるとの絶対の確証は有りません。ただ、秀家の父・直家は「梟雄」と呼ばれて蔑まれる一方で城下町・岡山の礎を築いた民に対する明君でもあり、秀家も岡山の繁栄には心血を注いでいました。
 その事からも老翁が秀家である可能性は充分過ぎるほどです。

 明治になって宇喜多家は新政府より赦免されました。
 約半数の宇喜多家が前田屋敷を頼って東京府板橋に移住しましたが、今も八丈島の秀家の墓に香華が絶える事はなく、現在の八丈島には雛祭りの御内裏様と御雛様の如く、秀家と豪姫の像が仲睦まじく、並んで座しています。
 宇喜多秀家とは後世の人間をそれだけ動かす人間でもあったのです。
 隠棲は不幸だったかもしれませんが、宇喜多秀家の人生そのものが不幸だったとは誰にも決めつけられはしません。



次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和三(2021)年五月一〇日 最終更新