隠棲の楽しみ方

第肆頁 松平忠輝……陰ゆえの五代間長寿


栄光 徳川家康の六男に生まれた松平忠輝 (天正二〇(1592)年一月四日〜天和三(1683)年七月三日)はかなり異色の存在である。
 長兄・信康同様の猛将と見られたり、次兄・結城秀康同様に父に疎まれた存在と見られることも有名である。また徳川家の支族である松平氏の一つ・長沢松平家を継いだ事は四兄・松平忠吉(東条松平家を継いだ)と共通する。
 だが様々な意味でかなり型破りな事にかけてはこの忠輝の右に出る者はいない。
 
 忠輝の母はお茶阿の方。彼女を母として天正二〇(1592)年一月四日、江戸城に忠輝(幼名:辰千代)は生まれた。
 この時既に天下は豊臣秀吉の手に落ち、長兄・信康はこの世になく、次兄・秀康は秀吉の養子に行き、三兄の秀忠がほぼ家康の世子として確定していた。
 
 お茶阿は後家で、元は鍛冶屋の女房で娘(つまり忠輝の異父姉)もいた。
 だが、その鍛冶屋はお茶阿に横恋慕した代官のために(濡れ衣を着せられた処刑で)殺され、お茶阿は鷹狩帰りの家康に直訴(←少し後の世なら訴えが通っても死罪)することで見事に亡き夫の仇を討った。

 お茶阿が気に入った家康は彼女を湯殿番に任じ、代官同様というと語弊があるが、惚れ込んでいたお茶阿に手をつけ、側室にした。
 この辺り未通女(おぼこ)や高貴な女性を好む秀吉と対照的に、相手の男性歴・出産経験の有無にこだわらず、後家や身分が低くても純朴な女性を好む家康の好みが如実に現れていて、道場主の趣味とも共通…ぐええぇぇぇ(←道場主のコブラ・クローが炸裂中)。

 イテテテテ…、それでもって忠輝が生まれた訳だが、辰千代と名付けられた六男を初めて見た家康は即座に捨てるように命じた。
 「鬼っ子」と呼ばれる程の「色黒くまなじり裂け怖ろしげ」な容貌が嫌われたと云われるが、薩摩守はいくら戦国時代とはいえ、容貌の美醜で親が子を疎んじるとは思えない(家康はケチではあったが、決して狭量ではなかった)。
 涙飲んで切腹させざるを得なかった信康の赤子の頃に忠輝が似ていた事が家康に良心の呵責による苦悩を与えた説や、双生児ゆえに嫌われたと云う説もある。
 秀康と忠輝は双子で生まれ(もう片方が生まれてすぐ死んだらしい)との説があり、当時は一度の出産で二人以上で生まれて来るのを「畜生腹(つまりは動物と一緒)」と呼び、そうして生まれた子を忌み嫌った傾向が有った。

 ともあれ捨てられる事が決まった辰千代だが、現在の無責任に子供を作ってしまい、困り果てて駅のコインロッカーやどこぞのトイレに放置するような真似をした訳ではない。
 既に拾って育てる親を事前決めた上で形式的に「捨てる」というもので、下野長沼三万五〇〇〇石の栃木城主・皆川広照(みながわひろてる)が養い親に選ばれた。
 この辺りの手抜かりのなさはさすがに家康も人の親と云うべきか、それとも既に二〇〇万石を超える大身の余裕と見るべきだろうか。


 一般に忠輝に冷たかったと云われる事の多い家康だが、お茶阿・辰千代母子にかなり心を砕いていた事は確かだ。
 辰千代を生ませた二年後にお茶阿は家康の七男・松千代(五歳で夭折)を産み、忠輝には慶長四(1599)年に長沢松平家を継がせ、独立した大名とした。
 側近には十八松平家所縁の人々と、お茶阿が産んだ於八(忠輝異父姉)の夫・花井遠江守を取り立て、辰千代自身は父の処遇を気にすることもなくかなり自由奔放に育った。権力者の子でなければこうはいかなかっただろう。

 その後も関ケ原の戦いの勝利に伴なって慶長七(1602)年下総佐倉五万石を、翌慶長八(1603)年家康の征夷大将軍就任に伴なって、信濃川中島一四万石を拝領した。
 まだこの時点での石高を見れば、次兄・秀康、四兄忠吉のそれの五分の一以下だったが、慶長一〇(1605)年に伊達政宗の娘、五郎八(いろは)姫と結婚するに及んで家康の子としての箔はかなり強くなった。
 ちなみにこの婚姻は一〇年以上も前から家康と政宗の間で約束が為されていた物であるからして、忠輝の処遇がそれなりに高かったことが分かる。
 そして慶長一五(1610)年に越後福島七五万石に封じられ、高田城主となると石高でも兄や歴戦の諸大名達と遜色なくなった。

 そして、父からの処遇は処遇として、忠輝自身は武道・医学・茶道・絵画・外国語と文武両道に秀で、五郎八姫との仲睦まじい日々を送った。
 慶長一〇(一六〇五)年に兄・徳川秀忠が二代将軍に就任した際には、秀忠の名代として豊臣秀頼のいる大坂城に見舞の使者として参上したりもした。
 このとき、秀頼は秀忠将軍就任の祝辞言上の為の上洛を周囲から勧められていたのを、母・淀殿が暗殺を恐れたため、「病気」を理由に上洛を拒否していた。

 だが、忠輝自身が平凡かつ悠々自適の日々を望み、マイペースに生きつつも、周囲にいた者が濃過ぎた。
 そしてそれが忠輝の人生に翳りを落とす事となる。



没落 松平忠輝を語るにおいて欠かせない人物は何人もいるが、特に政治的に影響したと云えば、大久保長安と伊達政宗が二大双璧だろう。

 伊達政宗は忠輝の岳父にして、世に云う「遅れて来た英雄」で、江戸幕府成立後もかなりの長期に渡って天下取りへの野望を持ち続けた。
 また大久保長安は武田家に仕える金山師の家に生まれ、武田家滅亡に伴なって徳川家に仕えていた。
 大久保忠隣(おおくぼただちか)傘下にて金山奉行として徳川家の金銀の産出高を大幅増させた事から大久保姓を許されるまでになっていた。

 創業から守成への転換期にあって、徳川家では戦働きよりも行政・経営に力を発揮するものが重用され出し、本多正信・正純父子と大久保忠隣が行政面での二大双璧となったが、両家はいつの間にか派閥を為して暗に対立する様になっていった。
 そんな派閥争いの中でも長安は金山奉行として家康・秀忠親子の覚え目出度く、莫大な富を成すが、使う額もまた莫大だった。
 派手好き・女好きの長安は金山・銀山視察の際にも七、八〇人の遊女を連れて飲めや歌えやの羨ま……あ、いやいや、とにかく派手で贅沢な日々を送りながらも満足せず、更なる利権拡大に燃え、それに忠輝を利用せんとした。


 忠輝自身、地位や権力よりも海外の文化・交易の方に興味があったので、海外外交易に熱意を持つ家康の意向に伊達政宗・大久保長安両名が拍車をかけたが、両名とも腹に一物があった。
 
 慶長一七(1612)年に長安は卒中で倒れ、翌一八(1613)年四月二五日息を引き取ったが、死後に愛妾達の遺産相続内紛から金山統轄権を隠れ蓑にした不正蓄財が発覚した(幕府の所持額より多かったのだ!)。
 所謂、大久保長安事件だが、長安の一族は七人の男子全員が切腹に処され、長安も遺体を棺から引きずり出され、磔にされると云う、江戸幕府史上にも数少ない大量処刑・大粛清が行われた。
 そしてその累は、(遠回しに)庇護者であった大久保忠隣にまで及んだ。

 更に押収品の中から長安が豊臣秀頼を始め、豊臣恩顧の大名と通じる連判状が発見されたとの説もあり、そこに伊達陸奥守政宗・松平上総介忠輝の名もあったことが忠輝の遣欧に待ったをかける事になった。
 大久保長安事件に関しては、政治的勝者となった本多親子による捏造説もあるが、このコーナーの主役は忠輝なので割愛する。
 はっきりしているのはこの事件並びに大久保長安の人脈があらぬ疑いを招き、忠輝ではなく、政宗配下の支倉常長(はせくらつねなが)が渡航する事になったという事である。

 そして忠輝の運命を決定付けたのが慶長一九(1614)年に勃発した大坂の陣であった。
 この戦は徳川方が強引に豊臣方を挑発して起こした戦争(と薩摩守は見ている)なので、冬の陣で留守居を命じられ、夏の陣に出陣した忠輝は秀頼との友情からも積極的に戦おうとしなかった。
 また舅である伊達政宗もなるべく忠輝を戦わすまいとした(戦局によって万一家康や秀忠が討死するような事があった時に忠輝を擁立する事を企んでいた)。
 そんな中で忠輝の兵による将軍旗本斬殺事件が起きた。

 結論を見ると何とも奇妙な事件である。
 早い話、行軍中の軍勢に将軍徳川秀忠直参の旗本・長坂六兵衛信時と伊丹弥蔵が乗り打ちし、咎め立てする越後兵にも将軍の権威を傘に尊大に振る舞い、忠輝への下馬を拒んだ為に越後勢に無礼討ちにされたのである。
 戦後、この事件と夏の陣における忠輝の怠戦にも等しい態度が問題となり、比重としては前者の方が大きかったのだが、将軍旗本を斬った兵に咎めは無かっただからけったいだ。

 後の世の生麦事件にもある様に、まだ戦国時代が終り切っていないとも云えるこの時勢、軍中に乗り打ちした外部の兵を誰であろうと捨て置いては自分達が罰せられるのが当時の軍法だったから、越後兵の無礼討ちはまず合法である(現代の法や倫理と比しての是非は置いておいて下さい)。
 故にこれを忠輝軍の非とするなら、当事者と責任者の双方が罰せられる筈だし、それ以前に直参旗本の無礼が詮議されないのもけったいな話で、結局の所松平忠輝の改易に繋がった顛末には戦時中の軍法は「きっかけ」に過ぎず、伊達政宗野望抑制説、切支丹蜂起阻止説(忠輝夫人は熱心なクリスチャンだった)が主要な要因として見られている。
 背景に間しては謎も多いので敢えて割愛するとして、忠輝に対して家康は勘当(←家康がその気ならいつでも解ける点が重要)と武蔵深谷(現:埼玉県深谷市)での蟄居謹慎を命じた。

 元和二(1616)年正月、徳川家康は鯛の天麩羅に当たって(正確には胃癌のため油物に対して拒絶反応が起きたと見られている)病床に伏した。
 忠輝は駿府城の家康を見舞い、今生の別れを果たさんとして家康が少年の頃に学んだ臨済寺まで忍んで来るが、お茶阿の懇願にもかかわらず父子対面は許されず、勘当も解かれないまま同年四月一七日、稀代の英雄徳川家康は薨去した。
 そして二ヶ月後に将軍徳川秀忠は松平忠輝に越後高田藩の改易と忠輝の伊勢朝熊(あさま)への配流を命じた。
 正室・五郎八とも別れ、配流の地へ向かった忠輝が歴史の表舞台に立つ事はそれ以降二度となく、五郎八は伊達家に戻り、生涯再嫁する事はなかった。そしてこの頃には伊達政宗も天下取りの野望を封印し、スペインにまで行った支倉常長も政宗の密命を果たせず、帰国二年後に失意の内に病死した。

 ここに松平忠輝が歴史上に為した痕跡はすべて地上から消え失せたのだった。



隠棲 故隆慶一郎の『影武者徳川家康』『捨て童子松平忠輝』を鵜呑みにするなら………松平忠輝は文武両道に天才肌で型破りの快男児だが、それゆえに作中で小心で陰湿で嫉妬深いとされた徳川秀忠に疎まれていた。
 そして忠輝及び江戸幕府の行く末が秀忠の暴走で瓦解する事を案じた徳川家康は、わざと忠輝を勘当して陰の存在にして隠れ切支丹に駿府城内の大金を与えて全国に散らせ、忠輝に生き続けて徳川将軍家の目の上の瘤であり続ける事を命じて息を引き取った………。
 とまあ、徳川家の人間像に偏見を抱きかねず、作品のとしては面白く、構成の完成度が高い事は大いに認められながらも、薩摩守は好きではない。

 ともあれ、歴史の表舞台から姿を消した忠輝は伊勢朝熊で七年間隠棲した後に、信濃諏訪に移動させられると五八年後の天和三(1683)年七月三日に享年九二という現在の尺度で見てもかなり長命で、当時としては脅威的な長寿を全うしてその生涯を閉じた。時に世は五代綱吉の時代だった。

 歴史の表舞台から消えた故に松平忠輝の隠棲には謎が多い(薩摩守の「研究不足」の一言に尽きる可能性は鬼のようにある)。
 はっきりしているのは、五郎八姫との間に子はなく、於竹という側室の間に徳松と云う子がいたが、この妻子は忠輝への追随が許されず、徳松は早世した。同じく早世した徳川綱吉の子と同名なのは歴史の皮肉だろうか?
 そして肝心の隠棲は極めて平和裏に時が経過し、忠輝は諏訪の文化発展に多いに貢献し、庶民の人気は絶大だったと云われている。



総論 薩摩守が思うに、元より松平忠輝には政治的野心や権力欲が見られなかった事からまず隠棲そのものは忠輝にとって精神的苦痛を伴うものではなく、政争にあくせくせず、好きな文学や気さくな地域交流に熱中出来たのは忠輝の望む所でさえあったでしょう(五郎八との離別だけは痛手だったろうけれど)。
 その証明は伊勢朝熊での七年間と信濃諏訪での五八年間でしょう。
 もし忠輝が左遷による精神的苦痛の元に生きていたら半世紀以上も一箇所で生き続けることは出来なかっただろう。
 また幕府側でも忠輝に政治的野心がない、と見たからこそ、初めは民衆に人気のある忠輝が土着しないよう二十年未満での謹慎先変更を命じていたのが、諏訪からは移動を命じることもなくなったと見ています(この辺は薩摩守の想像の域を出ない事を予め白状しておきます−苦笑)。
 つまり罰する側と罰せられる側の利害が一致したと見ているのです。
 惜しむらくはその静かながらも悠々自適な隠棲に五郎八姫が供に在れなかった事でしょう。隠棲中の忠輝に女っ気がなかった確証はないが、伊達家に戻った五郎八姫は棄教させられて仏門に入り、生涯ニ夫にまみえる事はなかったが、これは重婚を禁じるキリスト教の教えに準じたものである事は想像に難くないことです。

 尚、松平忠輝は余生だけでなく、「勘当」という名の処罰に服した期間も長く、忠輝の菩提寺となった貞松院の山田住職の働きかけにより徳川宗家より勘当を解くとの内意を得たのは没後三〇〇年以上を経た平成の世の事でした。
 遥か昔に既に故人となった当事者達には些細な問題かもしれないが、それでも現代に生きる人々に忠輝の為に正式に勘当を解いてやりたい、と動かすほど忠輝は土地の人々に愛される余生を送れた事が、単に罪に服する日々では持ち得ない何かをもって忠輝の隠棲に静かな光をもたらした事を述べてこの章を締めたいと思います。



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令和三(2021)年五月一〇日 最終更新