栄光 松平忠直 (文禄四(1595)年六月一〇日〜慶安三(1650)年九月一〇日)は『菜根版名誉挽回してみませんか』でも紹介し、このコーナーで二度目である。
一応簡単に紹介すると、父は結城秀康で、当然祖父は徳川家康である。
文禄四(1595)年六月一〇日に父・結城秀康、母・清涼院(秀康側室)の間に長男として生まれた松平忠直の幼名は国丸。
大柄にして怪力に育った国丸は慶長一一(1606)年に元服して叔父であり、将軍である徳川秀忠の偏諱・「忠」の字を受けて松平忠直となった(父と姓が異なるが、この時既に結城秀康は松平姓に復していた)。
翌慶長一二(1607)年閏四月八日に父・秀康が若くして病没すると越前福井藩七五万石第二代藩主となり、翌々慶長一四(1609)年には将軍秀忠の三女・勝姫(つまりは従妹)との婚約が成立し、更に二年後の慶長一六(1611)年に勝姫を正室に迎えた。
これには将軍秀忠が兄であり、忠直の父である秀康を慮ったからであるのは云うまでもない。
『菜根版名誉挽回してみませんか』にも書いたが、父の結城秀康は二度の養子行きの経歴から徳川家の家督を継げず、その秀康を何かと気遣った生来の律義者・徳川秀忠は結城家=越前松平家を「制外の家」とし、御三家以上の別格の家柄と位置付けた。
だがその家格故に大坂の陣において忠直勢は様々な意味において過酷な戦いを強いられたと云っても過言ではない。
もっともそれに憤りはしてもへこたれる松平忠直ではなかったのだが。
そしてネックとなった大坂の陣だが、まず冬の陣において、忠直勢は大坂城南方の真田丸に抜け駆けとも云える突撃に加わった。
供に突撃に加わったのは井伊直孝勢に前田利常勢。攻撃のメインとなったのは一〇〇万石の石高を誇る前田勢だが、井伊直孝は後には大老になった程の譜代重臣で、とにかく層々たる面子が真田丸に攻め込んだ事がうかがえる。
だがこれは歴戦の名将である大御所・徳川家康、凡将ながらも慎重人間である将軍・徳川秀忠の叱責を買った。
更に翌年の夏の陣では極端な扱いを受けた。
五月六日の若江・八尾の戦いでは軍令を墨守してこれを傍観したために祖父・家康から「昼寝でもしていたのか」との叱責を受けた。
これには軍勢の寡多で優位に立ち、既にそれまでの戦闘で後藤又兵衛、薄田兼相、塙団右衛門、木村重成と云った名立たる敵将を討ち取り済みで、緊張感をなくしかねない自軍を引き締める為に「孫であっても容赦しない」という姿勢を見せる為だったとの見解もある。
だが、家康の真意はともかく結果的に忠直は部署から外された。
そしてその汚名返上に翌日の岡山口の戦いで奮戦した忠直勢は、徳川全軍が真田幸村を初めとする豊臣勢最後の大抵抗の前に苦戦を強いられ、総大将の家康までがあわやの状況に追いこまれる中、茶臼山の真田本陣を陥落させた。
そして最後の難敵・真田幸村も旗下の西尾仁左衛門宗次が討ち取り、徳川方の勝利を不動のものにした(同日、家臣の一人野元右近は越前の脱藩者にして大坂方の猛将の一人・御宿勘兵衛政友を討ち取っている)。
この活躍に家康も昨日とは正反対に「流石はこの家康の孫」と云って褒め、稀代の名茶器・初花を褒賞として下賜した。
他にも金銀を賜り、戦後、忠直の弟の忠昌、直政も大名に取りたてられ、忠直自身は参議に昇進した。
武士(もののふ)として、松平忠直が最も輝いた時である。
没落 道場主の人生指南書である『菜根譚』には人間の没落は絶頂の時にあると説いている。
松平忠直にも多分にその傾向が見られる。
松平忠輝の没落は大坂の陣の後に始まったが、藩主就任直後にもその種はあった。
久世騒動、越前騒動とも云われる御家騒動で、秀康没後の家臣団の統率に失敗したもので、採決に家康・秀忠も携わるほどだった。
だが、程なく忠直は秀康生前の秀康と秀忠の約束通り秀忠三女の勝姫と婚姻しているからこの騒動は忠直没落の決定打ではなかった。
忠直失脚の要因は一言で云えば幕命違反である。
元和七(1621)年に病を理由に江戸への参勤をせず、翌元和八(1622)年になると正室・勝姫を殺害しようとしたり(侍女が身代わりで斬られた)、家臣の家に軍勢を差し向けて討つなどの乱行が目立ち始めるようになったと云われる。
だが、これも『菜根版名誉挽回してみませんか』で触れたが、薩摩守は懐疑的である。
これらが事実なら、改易の前に切腹になりかねない乱行揃いだからだ、一言で云えば。
そしてその懐疑は忠直乱行の原因についても薩摩守は同様に考えている
忠直の乱行は大坂の陣の論功行賞に対する不服説が最も根強く、一部には秀康に気遣った家康・秀忠が忠直以降も御三家以上の気遣いを続ける事を厭うた為の遠回しな勢力縮小政策と見られている。
また結城秀康を幕府によって暗殺されたとする人々は、「父の死の真相」を察知した忠直の叛意説を挙げるが、薩摩守は秀康暗殺説に否定的で、論功行賞不服も決定的な根拠と見ていないので、徳川本家側で「制外の家」扱いの続行を厭うて越前家勢力削減策に走った可能性が強いと見ている。
まず論功行賞不服説だが、元寇と同じように、戦に勝ったりとはいえ、豊臣家六五万石を滅ぼして取り上げた禄高だけで参加大名全員に領地を賜るのは不可能に近かった、否、不可能だった。
確かに石高加増の代わりが茶器ではよほどの茶道マニアでもない限り喜びはしないだろうが、忠直が日本領土事情を弁えず茶器しか貰えなかったから乱行に走ったとは思えない。
もしそれが原因の乱行なら、幕府に対して「取り潰して下さい。」と云っているようなものである。付け加えれば忠直が「怒りに任せて叩き割った」とされている「初花」はしっかりと現存している。
それよりは元和三(1617)年に家康九男・名古屋義直、家康一〇男紀州頼宜という二人の叔父(ちなみに年齢は忠直の方が上)が忠直を追い越して父・秀康と同じ中納言に昇格した事に徳川政権下での権勢獲得に失望して藩政に投げ遣りになった可能性の方が高い、というのが薩摩守の見解である。
結果として、元和九(1623)年二月八日に松平忠直は隠居を命ぜられ、生母・清涼院の説得により、嫡男の光長に家督を譲って、豊後府内藩(現:大分市)に流され、謹慎させられる事となった。時に松平忠直二九歳。
この五ヶ月後に徳川秀忠は家光に将軍位を譲って隠居し、その後越前松平藩は光長が越後高田藩二〇万石に減転封となり、越前福井藩には弟・忠昌が藩主となって移って来た。
事実上の「制外の家」の終りであり、結城秀康の血筋は各地に松平の分家として名を残したが、忠直の名跡は綱吉の代に江戸時代三大騒動として有名な越後騒動において藩政不行届きで取り潰された。
隠棲 隠居・配流・謹慎と同時に松平忠直は剃髪して「一伯」と号した。
豊後津守では厳重な監視下に置かれ、完全な重罪人扱いだった。だが当の一伯こと忠直は医師や庄屋、村人らと交わりを持ち、乱行が嘘のような庶民的で穏やかな生活を送ったとされている。
寺社への数々の寄進の記録が残っており、居館に隣接してあった熊野権現社に、全長一八〇メートルに及ぶ「熊野権現縁起絵巻」を奉納、西光寺には子の松千代の病気回復を祈って観音堂を寄進、円寿寺には越前から送らせたとされる「厩図びょうぶ」(大分県指定文化財)も残っている。
監視下にありながら越前から物品の取り寄せが可能だった点は流刑人・松平忠直を考察するに老いて見落としてはならない点だろう。
次に注目すべきは忠直が近在人に「一伯さん」と呼ばれ、親しまれていた点である。
本来の忠直の身の上は罪人であり、かつては抜刀して戦場を縦横無尽に駆け巡った男が不本意な隠遁生活を強いられているのである。これは現代に例えると傭兵や格闘家が罪を得てその地位を剥奪されて時間と体力を持て余して近在を練り歩いているのに等しい。
一般人にはかなり近寄り難いシチュエーションである事が想像される。
勿論常に監視が付いているので無茶はしないにしても雲の上の身分の人がいつ鬱積した不満を爆発させるか分からない筈が、地域住民に親しまれていたという事は、忠直が隠棲の鬱積をうかがわせない隠棲を彼なりに過ごしていたことの論拠となりえないだろうか?
一応は出家している忠直は藩主でも武士でもない世俗を離れた身で、世俗を離れた身に世俗の人間の身分の上下は関係ない。
だから僧侶は税も払わない(現在も宗教法人は非課税)一方で国家の保護も受けられない(故に洋を問わず昔の宗教勢力は自前の武力を持った)。つまり皇族・貴族・武士だろうと頭を下げる必要もないのだが、そこはそれ、世の一般のエチケットもあって権力者には礼儀正しく接し、出家以前の身分もある程度考慮した付き合いが為される。勿論出家が政治権力の表舞台を降りたと見せるポージングだとすれば「出家の身」とは空身分だろう。
そしてそれを考えると忠直の出家は不殺を得るための世俗を捨てたポージングではなく、失脚をきっかけに世俗を吹っ切った真の意味での出家だったのではなかろうか?
だからこそ近在の人々が忠直を「一伯さん」と呼び親しんだように薩摩守には思えてならない。
忠直は猛将然とした勇姿の裏で新田開発や都市開発にも善行を残す明君としての素顔もあり、その文武両道にして権なき逆境も活かすところはさすがに家康の孫であり、同じ松平の姓を持つ叔父忠輝に似たり、とも云える。
ただの暴君として流罪にあったのなら誰も忠直に近寄ろうとはしなかっただろう、と云うのが推測の基である。
そしてその穏やかな隠棲は慶安三(1650)年九月一〇日に忠直が享年五六歳で没するまで続き、遂に監視が解かれる事はなかった。
法名:西巌院殿前越前太守源三位相公相誉蓮友大居士 または西巖院殿相譽蓮友大居士。
総論 かつて大河ドラマ『葵−徳川三代』で徳川家光(尾上辰之助)が今際の際の徳川秀忠(西田敏行)に自らの名に秀忠の字が与えられていない事を尋ねると、秀忠は家康の「家」に秀忠の「忠」をつけたかったが、既に一族に松平家忠がいる事を指摘し、「そなたは儂の「忠」の字が欲しかったのか?」と尋ね返しました。
家光は「今は御免を蒙ります。」と云い、松平忠輝、松平忠直、徳川忠長と云う「忠」の字を持つ失脚者の名を挙げる、というシーンがありました。
勿論三者の内、前二者と後一者では姓と後々の運命が大きく異なりますが、三者に共通している事に、「時の権力にとって、いつまでも大きな力を持たせる事が望ましくなかった。」との共通点があります。
そんなとき、歴史で留意しなければならないのは勝ち残った権力者による歴史の「歪曲」です(←敢えて「捏造」・「改竄」としないのは彼等も家康の血を弾く者達だからです)。誰も好き好んで悪者になりたがりません。
敢えて悪を名乗りたがるとすれば、その時点での善に対して不当を感じ、それに当て付ける目的がある場合が多いでしょう(心底己が正しいと思っていたら自らを悪とはしません、善の名乗りを挙げます)。
戦国時代にあっては骨肉故に生まれた対立もあり、骨肉だから加わった手心もあるでしょう。色々書きましたが、道場主は隠棲後の松平忠直が近在の人々に「一伯様」や「一伯殿」と呼ばれず、「一伯さん」と呼ばれた事がすべてではないかと思っています。
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戦国房へ戻る令和三(2021)年五月一〇日 最終更新