第参頁 吉川元春……美醜を超えた鴛鴦夫婦

氏名吉川元春(きっかわもとはる)
生没年享禄三(1530)年〜天正一四(1586)年一一月一五日
恋女房恋女房 新庄局(しんじょうのつぼね。熊谷信直娘)
吉川元常、毛利元氏、吉川広家、他
略歴 享禄三(1530)年、安芸領主・毛利元就を父に、妙玖(川国経の娘)を母に、安芸吉田郡山城に、第三子・次男として生まれた。幼名は父と同じ松寿丸
 父の元就は妙玖が逝去するまで側室を迎えなかったので、嫡男隆元を筆頭に、長女・五龍局、次男・元春、三男・徳寿丸(隆景)は同母兄弟で、姉の夫・宍戸隆家を含め、兄弟間の結束は強かった。

 天文九(1540)年に一一歳で元服前にもかかわらず初陣を飾って以来、毛利一族の中でも武の筆頭ともいえる人物に成長し、天文一二(1543)年八月三〇日に元服して毛利元春と名乗った。
 ちなみに毛利家では、「元」の字を通字として、嫡男だけが「〇元」と名乗り(例・弘元・興元・隆元・輝元)、それ以外の男児は基本「元〇」と名乗った(元就・元春・穂井田元清・元秋)。

 天文一六(1547)年、新庄局(熊谷信直の娘)を妻に迎え、同年七月に吉川興経の養子となった。吉川家は母・妙玖の実家で、興経はその従兄だった。その背景には興経とその叔父・経世の仲が悪く、それを収める為に吉川家家臣団が勧めた縁組で、興経は乗り気ではなかったが、興経の命と興経の子・千法師を元春の養子として、成長後に吉川家家督を相続させることを条件に渋々承諾したものだった。

 だが、この養子縁組が吉川家乗っ取りを図った元就の謀略であったのは歴史的にも有名な話で、天文一九(1550)年に、元就は興経を強制的に隠居させると、元春に家督を継がせて吉川氏当主とした。その後、元春の岳父・熊谷信直に命じて興経と千法師を殺害してしまったのだった…………。
 その後、元春は要害の地である日野山を活動拠点として、弟の小早川隆景が智謀を武器に主に瀬戸内で活躍したのと並行して、自身は武勇を武器に主に山陰地方を活躍の舞台として、「吉川」の「川」と「小早川」の「川」から、「毛利の両川」と呼ばれ、長兄・隆元を、その死後は甥の輝元を補佐した。

 弘治元(1555)年に厳島の戦いにおいて父(元就)・兄(隆元)・弟(隆景)とともに大内の大軍を撃破し、陶晴賢を討ち取るのに貢献。翌年からは主に石見の尼子晴久と戦い、弘治三(1557)年に元就が隠居すると、隆景と共に隆元補佐を本格化させた。
 そして永禄八(1565)年に第二次月山富田城の戦いでの大勝を皮切りに翌永禄九(1566)年に遂に尼子義久を降伏せしめた。
 だが、長く毛利家に対抗した尼子氏はその後もしぶとく、永禄一二(1569)年からは尼子氏再興を目指す尼子家旧臣・山中幸盛(鹿之助)等率いる尼子再興軍と戦うことになった。
 尼子毛残党との戦いは元亀二(1571)年(1571年)に幸盛を捕らえ、尼子勝久を敗走せしめた(その後、幸盛は脱走)が、同年、父元就が逝去。八年前の永禄六(1563)年八月四日に隆元が父に先立ったことで元就が事実上の当主だったが、これにより隆元の子・輝元が一九歳で名実ともに当主となったが、当然元春と隆景が補佐し続けた。

 だが、若当主を擁する毛利家の苦難は続いた。
 尼子毛の残党は新将軍足利が義昭を擁し、畿内に大勢力を築きつつあった織田信長を頼り、毛利家は織田軍と対峙することとなった。
 天正四(1576)年、三年前に京を追われた足利義昭が備後鞆に下向して毛利家を頼ってきたことで大義名分は得られたものの、織田軍との衝突が避けられなくなった。翌天正五(1577)年には信長の重臣羽柴秀吉が中国征伐の軍を起こし、攻め寄せて来た。
 そんな中でも(そんな中だからこそと云うべきか)、元春は軍事に大活躍し、天正六(1578)年に上月城の戦いにて勝久を自陣に追い込み、長く毛利家を苦しめた山中幸盛を捕らえて処刑することが出来、尼子毛を完全滅亡に追い込んだ。
 だが、織田軍は尼子軍より遥かに手強く、元春はその都度奮戦したが、天正八(1580)年三木城が落とされ、城主・別所長治は自害。備前の宇喜多直家や伯耆の南条元続が織田家につき、豊後からは大友宗麟が信長と呼応して毛利領に侵攻。翌天正九(1581)年には因幡鳥取城主で吉川一族の吉川経家が自刃に追いやられた。

 天正一〇(1582)年、秀吉の水攻めで清水宗治の籠る備中高松城が落城寸前に追いやられた。元春は隆景と共に宗治を救わんとして出陣したが、水攻めの遭った高松城に近付けず臍を噛むしかなかった。だが、ここで局面は劇的に変化した。
 本能寺の変勃発である。同年六月二日、信長に反旗を翻して彼を自害に追いやった明智光秀は秀吉軍を毛利軍と共に挟撃せんとして密使を送ったが、その密使が捕らえられたことで羽柴軍は毛利軍より先に信長横死を知った。
 驚愕した秀吉は一刻も早く帰洛して光秀を討たんとしたが、その焦りを巧妙に隠しながら毛利家の外交僧・安国寺恵瓊を巧みに利用し、清水宗治の切腹を条件とした和睦を持ち掛け、度重なる苦戦に疲弊していた毛利家は苦渋の決断でこれに応じた。
 和睦が成立すると秀吉軍は即座に撤退。その翌日紀伊の雑賀衆から本能寺の変が起きたことを知らされた元春は和睦を反故にしての追撃を主張したが、隆景を初めとする大多数がリスクの方が大きいとして反対し、さしもの元春もこの多数意見を覆すことが出来なかった。

 同年、元春は家督を嫡男の元長に譲って隠居した。和睦を皮切りに毛利家自体は親秀吉路線を採って、天下統一を着々と進める秀吉と親睦することで中国地方での勢力保持に努めたが、元春は秀吉を嫌っていた。
 隆景と元長が秀吉の四国征伐に参戦した際も、元春は出陣しなかった。だが、秀吉の方では毛利家の面々を気に入り、厚く遇しつつも、とことん利用もした。四国の長宗我部家を下した秀吉は天正一四(1586)年に九州征伐の軍を起こし、毛利家の参戦を強く要請した。
 気の乗らない元春だったが、隆景・輝元の説得を受け、渋々従軍した。しかしこのとき既に元春の体は病に蝕まれており、同年一一月一五日に出征先の豊前小倉城にて病死した。吉川元春享年五七歳。



一妻 上述した様に、吉川元春は一八歳で熊谷信直の娘・新庄局を妻に迎えた。後の世に「元春の嫁取り」と呼ばれたこの婚姻には虚実含め様々な説が囁かれているが、ここではまず確かな史実だけを記載する。

 まずこの婚姻で信直は元春の舅となるとともに、毛利一門同然の待遇となったが、元々安芸国人武田家の家臣であった熊谷氏は毛利とは敵対関係にあり、信直の父(つまり新庄局の祖父)は毛利・吉川連合軍との戦いで戦死していた。
 普通に見れば、「親の仇」=「不倶戴天の敵」と見做すところだが、戦国の世に現代の常識は必ずしも通用せず、骨肉相食むことも珍しくなかった戦国の世では仇敵と和する事もまた例のない話ではなく、信直は元就の際に注目し、元就も信直の武勇を愛で、両者は早くに接近し、元春新庄局の婚姻で盤石化した。

 謀略を得意とした元就が、「当家のことを良く思う者は国外はおろか、国内にもいない。」と認識して、一族の結束を何より重視していたのは有名だが、その一族には娘婿の宍戸隆家や、元春の舅・信直も含まれていた。

 そして信直の親毛利路線以上に、元春新庄局は仲睦まじい夫婦として生涯寄り添い続け、元春は生涯側室を置かず、夫婦の間には四男二女が設けられた。そして生涯戦場を縦横無尽に走り回った元春新庄局は良く支え、三男の広家は元春から様々な注意を書状で受けていたが、その書状は元春新庄局の連名で為されていた。
 このことから新庄局元春にとっての「良妻」であり、元長や広家ら子供達にとっても「賢母」であったことが確実視されている。



一妻の理由と生き様 上述した「元春の嫁取り」に関してだが、俗に吉川元春は熊谷信直の娘・新庄局が不美人であるのを承知の上で、それに絡む背景を計算に入れて彼女を妻に迎えたとの説である。

 宣阿(江戸時代中期の武士・歌人)の『陰徳太平記』によると、家臣・児玉就忠に縁談を薦められた際に元春は不美人と評判だった熊谷信直の娘を望んでいる旨を告げてこれを断った。驚いた就忠が元春の意を確認すると、「信直の娘は醜く誰も結婚しようとはしないので、もしこれを娶れば信直は喜び、自分の為に命懸けで尽くすだろう。」と話した、とされている。
 つまり、元春は勇猛な信直を自らの片腕とすべく、計算づくで結婚したとするものだった。

 確かに、その後の信直の元春への協力振りを見ると頷けなくはない。平成九(1997)年にNHKで放映された大河ドラマ『毛利元就』でも、新庄局 (仁科扶紀)は不美人とされていた(仁科さん、よく受けたよな………)。同ドラマでは俗名を「美々」とされ、吉川興経(京本政樹)は容姿と名前のギャップを皮肉り、美々の父・信直(綿引勝彦)は、嫁の貰い手が無い程不美人であった娘を貰ってくれた元春 (松重豊)の為に生涯尽力した展開を辿っていた。

 ただ、もし、元春がそんな心根と計算で我が娘を娶っていたとしたら…………薩摩守が信直なら元春を斬り殺すだろう。

 容貌の美醜は先祖から受け継いだものだから、正直尽力ではどうしようもない者があるし、美醜が人生のすべてを決める訳では決してない。
 醜く生まれても、人格・能力を愛でて婚姻に至るケースは古今東西いくらでもある。それを「不美人」であることを利用する様に計算づくで娶り、良い様に利用するなど、或る意味、容貌を侮辱する以上の侮辱である。

 ただ、歴史を見てみても、元春新庄局、そして元春と信直の仲は生涯良好だった訳で、恐らく上述のような下衆い計算は元春になかった、と薩摩守は見ている。そもそも吉川元春という漢(おとこ)、良くも悪くも武骨者で、父・元就や弟・隆景の様な謀略を駆使するタイプではなかった。
 何かを企むよりも、槍を持って戦場を暴れ回る方が性に合っており、自分に足りないものは完全に父・兄・弟に任せ、自分がその面において劣っているからと云って嫉妬する男でもなかった。
 もし、信直が元春に誠心誠意随身した要因が嫁取りにあるとすれば、婚姻そのものではなく、元春が側室を持つこともなく、娘を愛し続け、仲睦まじくあってくれたことへの感謝から来るものと思われ、良い意味で後付的なものだったと思われる。

 一方、新庄局が不美人ではなかったとする説もある。
 上述の『陰徳太平記』は江戸時代中期の書で、吉川広家が存命中に成立した可能性がある『安西軍策』には彼女の器量が悪かったとの記述はない。また信直の妹(つまり新庄局の叔母)は絶世の美女だったと云われており、父親似か母親似による相違はあり得るにしても、叔母と姪で容貌がそこまで極端に異なることに対する疑問の声もある。
いずれにせよ、この当時の女性は実名を含めて記録に乏しいケースが多く、多くの女性は美醜に関しても不明で、写真もなかったこの時代、本当に不美人であれば後世の誹りを避ける為にも容貌については記録されない可能性が高い。いずれにせよ、新庄局の容姿に関する確かな証拠はない。

 他の説として、元春新庄局は、元就と信直の関係から早期に婚姻が成立していたのを、新庄局が疱瘡(天然痘)を病んだせいで顔が醜くなり、信直はこれを理由に婚約を辞退しようとしたが、元春の側がそのような理由で約束を違えるのを潔しとせず、結婚したとするものがある。
 明智光秀にも似た話があるが、この当時、婚姻に関しての選択は圧倒的に男性側が有利で、実際疱瘡の為に妻となる予定の女性の要望が代わってしまい、夫となる筈だった男性が拒絶したケースは数多くあったことだろう(それゆえ光秀の話が美談となるのだ)。
 似た話は他にもあるから決め付けは早計だが、元春の性格を考えればこれが実態に近い気もする。

 何せ、元春は一本気である。その一本気さから狡猾さを発揮し、父や弟以上の謀略家である羽柴秀吉を嫌ったが、秀吉からはその一本気さを気に入られていた。その一本気さゆえに、政略結婚が珍しくないこの時代にもかかわらず、元春は前約を守り、変わり果てた容貌を気にする素振りも見せず、側室を置くことなく娘だけを愛し、孫を儲け続けた元春に信直が感謝の念を抱いて随身した……………というのは物凄く辻褄に合う気がする。

 最後に、個人の資質とは別の面を上げておきたい。
 実は、元春以外にも、次頁で採り上げる小早川隆景を初め、毛利一族には側室を娶っていない者が多い。元々毛利家は安芸の国人領主の一家に過ぎず、大内・尼子と云う二大勢力に挟まれて、生き残りに汲々として来た一族だった。
 当然その婚姻は一族の結束を高める政略的なものにならざるを得ず、父・元就は吉川家から嫁を迎え、長兄・隆元は幼少の頃から大内家の人質だったため、大内義隆の養女を妻に迎え、弟・隆景は小早川家に養子入りした経緯から、小早川家当主・小早川繁平の妹を正室とし、いずれも側室を迎えなかった。下手に側室を迎えれば、正室の実家との関係が悪化することを懸念したとも思われる。

 同時に、元春が側室を迎えなかった要因として、元春個人の性格もあったとは思うが、父・元就との関連も強かったと薩摩守は考えている。元就は正室・妙玖死後に継室を迎え、四男以降の元春異母弟達が生まれ続けたが、妙玖生前は側室も迎えなかった。
 上述した様に、元就は自身の謀略家振りから一族以外に信用出来る者はいないと考えており、唯一の拠り所である一族結束を盤石にする為に年の近い異母兄弟が生まれることを避けたのではあるまいか?そしてそんな父を慮って、元春もまた「側室」と云う概念を持たなかったのかも知れない。

 結局、新庄局の容貌については伝承や推測の域を出ないが、結果的に元春新庄局は仲睦まじい一夫一妻で、元春死後も熊谷信直は文禄二(1593)年に八七歳で没するまで吉川家に尽くし、新庄局も夫と長男に先立たれる不幸はあったにせよ、慶長一一(1606)年に三男・広家の庇護下で静かに七四年の生涯を終えているので、夫婦仲・親子仲共に円満に終えることで来たと見てよかろうと思われる。


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令和五(2023)年七月六日 最終更新