第肆頁 小早川隆景……他家乗っ取りの罪悪感払拭?

氏名小早川隆景(こばやかわたかかげ)
生没年天文二二(1533)年〜慶長二(1597)年六月一二日
恋女房問田大方 (といだのおおかた。小早川正平娘)
実子無し
略歴 天文二(1533)年に戦国大名である毛利元就と正室の妙玖夫人の三男として、安芸吉田郡山城で生まれた。幼名は徳寿丸

 天文一〇(1540)年三月、徳寿丸の従姉(元就の兄の娘)の夫であった竹原小早川家の当主・小早川興景が銀山城攻めの最中に二三歳の若さで病死した。興景に子供が無かったことで竹原小早川家中は元就に対し徳寿丸を後継に求めた。更には中国地方の大大名で、安芸国人衆に強い発言権と影響力を持っていた周防の大内義隆が強く勧めたこともあり元就はこれを承諾した。

徳寿丸は元服に際して、義隆の偏諱を受けて小早川隆景と称し、天文一三(1543)年一一月に一二歳で竹原小早川家の当主となった。
 天文一六(1547)年に初陣を飾り、備後神辺城の支城である龍王山砦を小早川軍単独で落とすという戦功は義隆からも大いに賞賛され、感状を与えられた。

 その後、小早川家の本家である沼田小早川家にて、家中の対立が起きた。と云うも若年の当主であった小早川繁平が生来病弱な上、病により盲目となっていたため、家中は優秀な隆景を新当主に迎えんとする一派と、どこまでも繁平を支えんとした一派で対立した。
 この対立に、大内義隆は、繁平では尼子氏の侵攻に耐えられないとして、天文一九(1550)年に義隆は元就と共謀し、隆景擁立派の重臣達を支持し、「尼子氏と内通した。」との疑いを掛けて繁平を拘禁し、隠居・出家に追い込んだ。
 表向きは隆景と繁平の妹(問田大方)を娶せ、隆景が繁平の養子となる形で沼田・竹原を統合した両小早川家を継承することとなったが、この継承に際して繁平派の重臣達が多く粛清されたことからも、吉川家同様、毛利元就による小早川家乗っ取りであることは余人の言を待たないところである。このとき小早川隆景、一八歳。

 天文二一(1552)年に沼田川対岸に新高山城を築城した隆景はそこを新たな本拠地とし、毛利氏直轄の精強な水軍として活躍することになった。
 殊に弘治元(1555)年の厳島の戦いにおいては、隆景の率いる小早川水軍は、巧みな外交で精強な村上水軍を味方につけ、陶晴賢率いる大内水軍を破って海上を封鎖し、毛利軍の勝利に大いに貢献した。

 そして、弘治三(1557)年に大内氏を滅ぼすと、父・元就が隠居。長兄の毛利隆元が家督を継ぐと、隆景は次兄・吉川元春とともに隆元を支えた。
 元春が主に武力を持って山陰地方にて活躍したことで毛利本家を支えたのとは対称的に隆景は智謀を主力に瀬戸内にて活躍たことで本家を支えたことから、両者のせいを持って、「毛利の両川」と並び称されたのは有名である。

 永禄六(1563)年、隆元が急死し、甥の輝元が一一歳で家督を継ぐと、元春とともに幼少の輝元を補佐した。通常、相手が甥とはいえ、この時代本家当主は主君で、叔父と云えども家臣扱いだったが、元春と隆景は輝元を厳しく補佐し、時には折檻も辞さなかったと云う。
 一方で、隆景は当主としての輝元への敬意も忘れず、立てるべきは立て、永禄九(1566)年に長年の宿敵尼子氏を滅ぼし、翌永禄一〇(1567)年には、海を越えて伊予に、更には九州に出兵して大友氏とも戦った。

 元亀二(1571)年六月一四日、父・元就が逝去し、若い輝元の補佐役として元春・隆景兄弟の役割は益々大きくなった。
 中央ではこの二年後に室町幕府最後の将軍足利義昭が織田信長によって今日を追われ、義昭が毛利家を頼ってきたことで強敵・織田軍との対峙を余儀なくされた。
 織田家の侵攻は武力のみならず、国人領主への調略にも優れており、隆景は毛利家を裏切った三村氏を討伐し、豊後の大友宗麟が信長と通じて侵攻して来るのを、水軍を率いて迎撃した。

 天正四(1575)年、義昭が鞆に落ち延びてくると、義昭の強い誘いもあって、完全に織田家と対立することとなった。隆景は信長包囲網の中心的存在であった石山本願寺を救援し、第一次木津川口の戦いでは、小早川水軍、村上水軍を主力とする毛利水軍が、織田方の九鬼水軍を破った。
 しかし、天正六(1578)年、第二次木津川口の戦いでは有名な鉄甲船に敗れ、制海権を失い、上杉謙信が急死、翌々年の石山本願寺開城を受け、信長包囲網は崩壊。追い打ちをかけるように織田家中きっての切れ者・羽柴秀吉が方面軍司令官を担う織田勢が攻め寄せ、毛利家は数々の苦戦を強いられ、国人衆の離反も相次いだ。

 天正八(1580)年の播磨三木城が陥落で別所長治を、翌天正九(1581)年の因幡鳥取城陥落で吉川経家を失い、更に翌天正一〇(1582)年には清水宗治が籠る備中高松城が包囲され、水攻めの前に兄・元春と共に救援に駆け付けた隆景だったが、手も足も出せなかった。

 だが、同年六月二日に本能寺の変にて織田信長が横死したことで局面は大きく変わった。明智光秀から毛利氏に贈った密使を捕らえたことで変を知った秀吉はその事実を巧みに隠し、毛利家の外交僧・安国寺恵瓊を通じて秀吉と和睦交渉を行った。
 城主・宗治の切腹を条件に高松城の城兵を助命し、和睦することが成立。宗治の切腹を見届けた秀吉は即座に畿内へ引き返した(中国大返し)。
 直後に、雑賀衆からの知らせで本能寺の変が毛利方にも伝えられ、兄・元春は追撃を主張したが、追撃のリスクを重んじた隆景は恵瓊と共に「誓紙の血痕未だに乾かない内にこれを破るのは武士の恥。」として、追撃派の諸将を説得し、これを阻止した。

 畿内に取って返した羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀を討って織田家中での発言権を増し、賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破ると隆景は秀吉の天下を確実視し、毛利家として秀吉従属路線を選び、隆景は異母弟で養子の小早川元総(後の毛利秀包)を人質として秀吉に差し出した。
 この路線は図に当たり、毛利家は天正一三(1582)年の四国征伐で秀吉に大きく貢献し、秀吉は隆景に伊予一国を与えて独立大名とするとした。
 しかし隆景はこれが毛利家の結束を分断するものであることを見抜き、一度毛利家に与えられた伊予を改めて受領する形で、毛利家の一武将としての体裁を保った。
 そして天正一四(1586)年(1586年)、九州征伐にも参加。兄・元春と甥・元長が戦病没する悲劇に見舞われつつも島津氏を下すことに成功し、戦後秀吉から筑前・筑後・肥前一郡の三七万一三〇〇石を与えられた。
 これに対して隆景は毛利・吉川・小早川三氏の所領が広がり過ぎて、却って公役を充分勤めることが出来ないとして辞退を申し出た。伊予拝領時同様、秀吉による毛利家分断を懸念してのことだったが、秀吉は秀吉で半ば強引に隆景を筑前・筑後に入封することとなり、天正一七(1589)年筑前名島城に入った。

 豊臣秀吉による天下統一後、文禄元(1592)年に朝鮮出兵文禄の役が始まるとこれに従軍。一万人を率いて六番隊を指揮した。出兵当初、日本軍は快進撃を続けたが、やがて朝鮮側は宗主国である明に援軍を請い、水軍による海上封鎖や民兵の蜂起で日本軍は劣勢に転じた。
 そんな最中、明・朝鮮連合軍が文禄二(1593)年に攻め寄せていたが、隆景は立花宗重と共にこれを迎撃し、大勝した(碧蹄館の戦い)。

 この間、秀吉による毛利家乗っ取りも着々と進められつつあった。
 秀吉は毛利家当主・輝元が四〇歳近くになっても男児に恵まれないことから、秀吉の義理の甥(正室お禰の兄の子)・羽柴秀俊を毛利家の養子とするよう持ち掛けた。
 しかし、養子を送っての乗っ取りは毛利家の専売特許で(笑)、隆景はこれを見抜き、先手を打つように、秀吉に対して、既に輝元の従弟・毛利秀元を養子にする事が内定していること告げ、同時に秀吉の面子を潰さない様に秀吉に請うて秀俊を小早川家の養子として貰い受けたのだった。勿論、この秀俊が後の小早川秀秋である。

 だが、色々あっても、秀吉は隆景及び毛利家には好意的で、文禄四(1595)年に秀吉は隆景を徳川家康や前田利家等と共に五大老の一人にも任じた。その後、隆景は秀秋に家督を譲って隠居する譜代の家臣団だけを率いて三原に移ったが、そんな隆景に秀吉は知行目録を隆景に授け、筑前に五万一五〇石という破格の隠居領を与えた。

 慶長二(1597)年六月一二日、病没。小早川隆景享年六五歳。



一妻 小早川隆景の妻は、問田大方(といだのおおかた)と呼ばれる女性で、父親は沼田小早川家当主・小早川正平で、小早川家は桓武平氏の流れをくむ氏族だった。
 源頼朝の重臣・土肥実平の子・遠平が相模小早川を領有したことから小早川姓を名乗り、鎌倉初期に安芸沼田の地頭となったことから、小早川本家は「沼田小早川家」と称され、そこから派生した支族の一つが、徳寿丸が養子入りした竹原小早川家だった。
 竹原小早川家は、小早川氏の一支族だったが、室町幕府初期に足利尊氏についたことで本家に匹敵する勢力を築いており、第一三代当主興景が毛利元就の姪を妻に迎えていたことから、断絶しかけた際に竹原小早川家中は興景正室の従弟に当たる毛利徳寿丸を養子に迎えんとし、これに大内義隆が後押しをしたことで成立した。

 一方で、本家である沼田小早川家では問田大方の曽祖父・扶平、祖父・興平、父・正平が相次いで二〇代で早世し、正平の後を継いだ兄・繁平は生まれつき病弱だった上に、病の為に盲目となっていた。
 かかる事態を受け、沼田小早川家中は上述した様に、聡明で竹原小早川家の当主となっていた小早川隆景を新当主に迎えんとする派と、繁平を当主とし続けんとした派が対立し、結果として、隆景問田大方の婿に迎え、繁平の養子とする形で、沼田・竹原小早川家の統合と、隆景の当主就任が決定した。

 尼子氏との内通を疑われる形で隠居・出家に追いやられた繁平はその後僧として生きたが、三三歳で病没している。隆景の小早川継承に際しては繁平の当主存続派であった重臣達が何人も粛清されており、決して綺麗なものではない、血塗られた御家騒動だった。
 平成九(1997)年放映のNHK大河ドラマ『毛利元就』では、隆景 (恵俊彰)の小早川家継承に際して、最後の最後まで反対した田坂全慶(石山雄大)等三名を、重臣・椋梨景勝(舟木一夫)が斬り殺し、繁平(高橋譲)が自身の盲目を理由に大人しく隠居・出家して隆景に後事を託し、修業の度に出る彼を、御家騒動の咎で切腹させられるはずだった椋梨が共に出家して旅路を共にする終わり方をしていた。
 勿論これはフィクションで、椋梨は隆景にそのまま使え、小早川家断絶後は毛利家家臣となっている。ただ、薩摩守は概ねこれに近い展開を辿ったのではないか?と見ている。

 繁平が当主の継いだのは僅か二歳で、意思もへったくれもあったものでは無かった。病の為に盲目となったのはその一〇年後で、その間に繁平が自身の意志で何かを出来たとは考え難い。
 盲目であることに偏見を持ちたくはないが、武田信玄の次男も幼少時に病で盲目になったことで早々に次期当主候補から外されていた例からも、先行きの見えないこの時代、病弱・盲目を理由に繁平を当主とし続けることに不安を抱いた家臣は決して少なくなかったと思われる。

 もし、繁平を隠居・出家せしめた一連の流れが不当なものだったら、隆景問田大方の夫婦仲は仲睦まじいものではあり得なかったと思われる。
 問田大方の生年は不明で、繁平の妹であったことだけが分かっている。繁平隠居時、彼は一〇歳で、問田大方は父の没年に生まれたとして八歳だったことになる。勿論かような少女に政治的駆け引きが理解出来るとは思えないが、一方で物心つく前に父を失った彼女にとって、繁平以外に愛情を抱ける身内は無かった訳で、もし繁平への仕打ちが著しく不当なものなら、問田大方はそれを深く恨むこととなり、それを隠蔽し続けることは相当困難だったと思われる。

 詰まる所、繁平の隠居・出家は状況的に、一般論的にも「止むを得ない。」と見られるもので、隆景は小早川家を毛利家に取って頼りになる一家とする為にも、ドラマ同様に繁平に替わって問田大方と小早川家を守ることを強く誓ったのと思われる。

 実際、隆景問田大方の夫婦仲は至って仲睦まじく、両者の間には子供が出来ず、桓武平氏の流れをくむ名家の血は途絶えてしまったが、隆景は生涯側室を迎えることは無かった。
 問田大方隆景が没し、隆景の養子となった秀秋が嗣子なく没したことで小早川家が改易になった後も生き続け、小早川家改易後は義兄・吉川元春の外孫で、隆景の旧臣でもあった益田景祥の給領地・周防吉敷郡問田に移り住み(そのことで、「問田大方)と呼ばれた)、その地で元和五(1619)年五月二〇日に没した。享年は不明だが、兄の繁平が二歳の時に父が没しており、その妹であることから、七七歳前後の天寿を全うしたこととなる。



一妻の理由と生き様 二つの理由が考えられる。
 一つは、小早川隆景問田大方が仲睦まじかったことにあるのだろう。両者の婚姻が勧められた一番の目的は、「桓武平氏の名家である小早川家の存続。」である。となると、隆景が小早川家の血を引かない側室を迎え、その腹から生まれた男児が小早川家を継承すれば、家名は存続しても血脈は途絶えることとなる。
 とはいえ、「家名存続・血脈断絶」の例は世に腐る程ある。実際、隆景も小早川秀秋や毛利秀包を養嗣子に迎えているが、両名とも小早川家の血は引いていない。そして隆景は明らかに小早川家よりも毛利家を大事にしており、豊臣秀吉が秀秋(当時・羽柴秀俊)を毛利輝元の養子にせんとしたおりには、自らの養子に迎えることで他家の者が毛利家に入ることを阻止する一方で、小早川家には他家の血が入ってしまった。
 それでも小早川家中にこれと云った乱れが無かったのだから、隆景の家中統制能力もさることながら、問田大方との仲が睦まじかったことで、小早川家の血脈を重視する家臣も隆景に不満を抱くことが無かったのだろう。

 もう一つ考えられるのは、隆景が乗っ取られる小早川家を徹底的に気遣ったから、と薩摩守は捉えている。
 隆景問田大方の仲が良かったのは間違いないが、同時に隆景が多くの人々からその才能以上に人格を愛でられ、様々な気遣いの出来る人間であったことも大きいと見ているのである。
 隆景と親交のあった黒田如水(勘兵衛)の残した『黒田家譜』には問田大方に関する記述がある(←女性への言及が乏しいこの時代にあって、極めて稀有である)。それによると隆景は自身が婿養子の立場であることを軽視せず、彼女に対して仲が良い一方で、夫婦とは思えないほど礼儀正しく接していたと記載されてもいる。
 悪く云えば他人行儀、別の云い方をすれば、何処までも小早川の血を立てたと云われる。それゆえ、小早川家継承時こそ、粛清の血が流れたものの、その後の小早川家は内面において極めて安定していたのであろう。
 実際、小早川隆景程才があれば、普通警戒される(黒田如水然り、蒲生氏郷然り、徳川家康然り、前田利家然り)。さすがに隆景が徹頭徹尾万人の恨みをこれっぽっちも買わなかったとは思わないが、隆景を悪く云う目立った言は薩摩守の記憶にない。

 隆景が還暦ならずして世を去った時、秀吉は「才智が人の寿命を決めるなら隆景は百まで生きたであろうに。」と云い、如水は「これで日本から賢人はいなくなった。」と云ってその死を惜しんだ。
 隆景が才智を愛でられつつも嫌われない器量人であったことを表すエピソードだが、掛かる器量でもってたった一人の女性を愛したとすれば、例えそれが小早川家と云う一家を固める目的の為であったとしても、小早川家を乗っ取ったことへの罪悪感を払拭する為だったとしても、問田大方は幸せな女性だったと云えよう。


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令和五(2023)年七月一二日 最終更新