第伍頁 明智光秀……裏切り者の裏切らぬ夫

氏名明智光秀(あけちみつひで)
生没年永正一三(1516)年〜天正一〇(1582)年六月一三日
恋女房煕子(ひろこ。妻木範煕娘)
明智光慶、珠(細川ガラシャ)、他
略歴 織田信長を裏切った人物として、歴史が好きではない人間でもその名を知らない者はいないと云われる程有名人物でありながら、明智光秀の前半生は諸説紛々で謎が多い(生年からして詳らかではない)。
 一般に、美濃の国主で、清和源氏の源頼光の流れを汲む土岐氏の支族で、明智荘に土着したことで明智姓を名乗った一族の末裔とされている。

 当然、先祖代々土岐氏に仕えていたが、土岐頼芸が斎藤道三によって美濃を追われるとそのまま道三に仕えた。道三が息子・義龍と争うようになると斎藤家を出て越前の朝倉義景に仕えた。
 やがて永禄八(1565)年に室町幕府第一三代将軍足利義輝が殺される(永禄の変)と、その弟・義昭が将軍位奪取の為に朝倉家を頼ってきたことで義昭に仕えるようになった。

 義景が越中一向一揆との対峙から越前を動けないことで、義景を頼りにならないと見た義昭は斎藤龍興(道三の孫・義龍の息子)を追って美濃を領有する様になった新進気鋭の織田信長を頼らんとし、信長の正室・濃姫が光秀の母方の従姉妹だったこともあって、そのコネクションから義昭と信長の橋渡しを務めたことで信長及び織田家中と縁を持つこととなった。

 永禄一一(1568)年七月二二日、義昭と信長は美濃で初めて顔を合わせ、九月二六日に信長は義昭を奉じて上洛し、光秀もこれに同道した。
 かくして同年、義昭は室町幕府第一五代征夷大将軍となったが、翌永禄一二(1569)年一月五日、信長が帰国した間隙を縫って三好三人衆が義昭の宿所・本圀寺を急襲(本圀寺の変)。この時光秀は義昭の側に合って防戦に尽力した。

 やがて義昭と信長はその後の将軍としての在り様や、信長から傀儡とされていることに義昭が不満をいだいたことから仲違いをし始め、その一方で信長からその才を認められた光秀は新参者でありながら累代の織田家中の重臣達をしのぐ活躍を見せ、重用され出した。義昭からの御内書を受け取った朝倉義景と信長が戦闘状態となると、信長の妹婿である浅井長政が累代の同盟を優先して朝倉についたため、信長は長年近江一帯で苦戦を強いられたが、皮肉にもそれ等の戦いで光秀は数々の活躍を遂げ、信長を助けた。ただ、この時点では義昭からも恩給を受けており、まだ義昭家臣とも、信長家臣とも、断じ難い立場だった。
そして元亀二(1571)年、自身が反対したにもかかわらず従事した比叡山焼き討ちでの手柄から近江坂本城主となり、織田家筆頭家老柴田勝家よりも先に城持ち大名となった。この二年後の天正元(1573)年に義昭は京都を追われ、室町幕府は滅亡。この時点で光秀は名実ともに織田家重臣となっており、光秀と共に義昭を守って放浪してきた細川藤孝(幽斎)も同様だった。

 その後、信長が天下統一を目指して戦線を拡大する中、光秀長篠の戦いを含む主要な戦いに参加しつつ、丹波方面攻略の総指揮者としての大任を担った(同様に柴田勝家は北陸方面を、羽柴秀吉は中国方面を、丹羽長秀は四国方面を、滝川一益は関東方面を担当した)。
 天正七(1579)年に遂に細川藤孝と共に丹波を平定。その少し前に信長の命で、光秀の三女・珠(後のガラシャ)と、藤孝の嫡男・忠興が婚姻し、義昭を奉じて以来の盟友だった細川家との絆はますます強まった(かに思われた)。

 天正一〇(1582)年三月一一日、長年の宿敵であった甲斐の武田家が滅亡(天目山の戦い)。光秀もこの戦いに従軍したが、この戦いの主戦力は織田信忠(信長長子)と川尻秀隆で、信長と光秀は見届け人に近く、四月二一日に帰国すると、五月に安土城にやってきた徳川家康の接待役を命じられた。
 武田家滅亡に伴って、家康は長年織田家の同盟国として武田を抑え、その滅亡に貢献した功で信長から駿河一国を与えられた。かつて今川義元が勢力を誇った駿遠三を領する大大名となったことへの御礼言上に安土城にやって来た訳で、その接待は家康の度肝を抜く大歓迎を見せつつ、今や大大名となった家康が完全に信長麾下にあることを満天下に示すことをも担う重大事だった。

 だが、光秀は突如その任を解かれ、中国地方の大利毛利戦線で苦闘中だった羽柴秀吉の後詰として出陣することを信長から目地られた。そして亀山を発った光秀は六月二日明け方、「敵は本能寺にあり!」と叫び、本能寺に宿泊中だった織田信長を襲い、信長・信忠親子を死に追いやった(本能寺の変)。

 首尾よく信長父子を討ち取った光秀だったが、その後の動きは完全に精彩を欠いていた。  京都−坂本−安土のラインを抑えた光秀は畿内の親信長勢力征討に掛かったが、堺見物中だった徳川家康には逃げられ、娘婿・細川忠興も父の幽歳と共に剃髪して信長・信忠への弔意を示し、珠を幽閉して神戸信孝(信長三男)に織田家に遺臣が無いことを示して光秀に味方することを拒んだ。他にも大和の筒井順慶も中国地方から急ぎ引き返して来た羽柴秀吉についた。

 かくして畿内を抑え切れないまま光秀は驚くべき早さで戻って来た秀吉と天王山に戦い(山崎の戦い)、光秀は敗れた。戦線離脱した光秀は本拠の坂本に戻って体勢を立て直さんとしたが、その途次に小栗栖(現・京都市伏見区小栗栖)で落ち武者狩りにあって殺害された。明智光秀享年六七歳。

 尚、本略歴では、光秀が信長を裏切る要因となった様々な事象(打擲・接待役解任・領地召し上げ・人質となった母親見殺し)に関しては大幅にカットしています。昨今これらの事象の多くが江戸時代以降人口に膾炙したものであったことから信憑性が疑われると同時に、本作の趣旨ではない為であり、決して手抜きではないことを御理解頂ければ幸いです(苦笑)。



一妻 明智光秀の妻・煕子は細川家に残る記録から、一般に享禄三(1530)年に妻木勘解由左衛門範熙の長女とされているが、正確な生年は不詳である。
 妻木氏は光秀の明智氏同様、美濃に土着した土豪で、その縁で光秀煕子は婚約したとされている。

 有名な話だが、婚約直後、煕子は疱瘡(天然痘)に罹患し、一命を取り留めたものの顔面に痘痕が残ってしまった。範煕は煕子の妹を替え玉として光秀の元に送ったと云うから、明智家と妻木家の姻戚関係締結は両家にとってかなり重要だったと思われる(煕子の叔父・妻木広忠は明智家と運命を共にした)。
 勿論そんな替え玉作戦が光秀に通用する筈なく、妹はすぐに実家に送り返されたが、光秀は改めて煕子を妻に迎え、終生側室を娶ることは無かった。

 婚姻して程なく、斎藤道三に仕えていた光秀は、道三が息子・義龍に敗れて戦死したことで斎藤家に居場所を亡くして越前の朝倉義景を頼ったが、当然浪人同然の日々に生活は困窮し、それに際して煕子は朝倉家で開催された連歌会に参加する光秀が恥をかかない様に「女の命」と云われる黒髪を売って連歌会参加に必要な費用を工面したとのエピソードが伝わっている。
 薩摩守個人的には、オー・ヘンリーの『賢者の贈り物』と話が似ている上、似た様な話は他にも聞かれることから、信憑性は低いと思っている。ただ、そんな話が違和感なく囁かれることから、光秀煕子の仲睦まじさに疑問の余地はなかったと見てはいる。

 天正四(1576)年一一月七日、明智煕子死去。享禄三(1530)年生まれ説が正しいなら享年四七歳。その早世はこの時期一時重病となって軍務から離れることもあった光秀への看病疲れとも云われている。



一妻の理由と生き様 私事だが、この戦国房を制作し始めた際、真っ先に着手したのが、「菜根版名誉挽回してみませんか」で、そこで明智光秀を採り上げたのも、「日本史上屈指の裏切り者」とされた彼のイメージを覆したいとの思いがあった。

 過去作において何度か触れているが、薩摩守は織田信長が嫌いである(←注)彼の有能さや、戦国時代を急速に終息に向かわしめた歴史的功績は決して否定していません)。そんな信長を裏切った光秀に対しては、(その要因に対する真偽は別としても)かなり同情し、そこから光秀の才能や人格を精査し、彼が煕子を迎えた際のエピソードに大きな衝撃を受けた過去がありました。

 過去作「天然痘との戦い」でも書いたが、かつて道場主は『日本の歴史』第3巻における天平九(737)年の天然痘流行のシーンがトラウマとなり、「歴史」と云う単語をその後数年間怖がるほど天然痘特有の発疹を伴う病態や、終生残る痘痕に恐怖したことがあった。
 勿論終生残る痘痕に対しては、道場主の恐怖以上に罹患者の方が遥かに心を痛めたことだろう。顔面に痘痕が残ったことで容貌が損なわれたことで縁談が破談となったケースは洋を問わず数多く実在したであろうことは想像に難くない。
 同時に戦国時代、社会は明らかに男尊女卑社会だった。婚約解消も、離婚も女性の方からは希求できなかったが、男性側からは簡単に申し出ることが出来た。勿論、政略結婚などで、仲人または妻側の実家が絶大な力を持っていれば妻側のごり押しが効いたケースもあるかも知れないが、妻木家が明智家に対して大きく上回る家格を持っていたとは思えない。まず同格だったろうと思われる。
 となると、容貌が損なわれたことを理由に、或いはそうはっきり明言せずども別の理由をつけて光秀煕子との婚約を解消することは容易だった筈である。

 だが、光秀はそうはしなかった。

  替え玉として送られた妹を送り返すと、その策を咎めず、怒らず、煕子こそ我が終生の妻である。」として改めて妻として迎えた。
 後年、珠(ガラシャ)が幼少の頃に、痘痕に覆われた煕子の肌を笑った際に、光秀「父は母者の心に惚れたのじゃ。心の目で見れば母者の肌は今も美しい。」と云って、娘を窘めたと云われている。
 当然の話だが、疱瘡による痘痕は悪魔のウィルスに冒されたことからもたらされた不運で、決して罪でも恥でもない。そう理屈で分かっていながら、幼少から少年期に掛けて今以上に臆病だった道場主は絵画・写真を問わず、天然痘患者の痘痕に恐怖し、目を背けた…………同じ男として、明智光秀に対して様々な意味で恥を覚えずにはいられなかった…………。

 光秀の愛妻家振りに一片の疑問の余地もないとして、最後に何故に光秀が側室を迎えなかったのか?を検証しておきたい。
 光秀の永正一三(1516)年生まれ説、煕子の享禄三(1530)年生まれ説が、正しいと仮定するなら、両者の年齢差は一四歳である。別段珍しい年齢差ではないが、弘治二(1556)年に越前に逃れる際に光秀は身重の煕子を背負って美濃を脱したエピソードがあり、その時点で光秀は四〇歳、煕子は二六歳である。嫡男・光慶や珠が生まれたのは永禄年間とされているから、煕子が一〇代後半から二〇代前半だった天文年間(1532〜1555年)の後半に婚姻したとするなら、その時の光秀は三〇代だったことになる。
 疑問なのは「これが光秀の初婚だったのか?」と云うことである。明智家の身分は低くとも、血統は清和源氏の後裔で、家格からすれば一〇代前半で結婚していてもおかしくない。詳細は不明だが、光秀には煕子の前に妻がいたとの説もあるにはある。

 思うに、光秀煕子の前に婚約・或いは婚姻を結んだものの、斎藤家の動乱を含む激動の渦中でそれを不幸な形で失ったのではなかろうか?それゆえ心底惚れた煕子を大切にし、疱瘡の為に容貌の変わってしまった妻への気遣いも加わって、彼女だけを大切にしたのではあるまいか?
 勿論、煕子の賢妻振りからも、両者は婚姻だけではなく、心底仲睦まじい夫婦であったのだろう。いずれにしても、煕子を前にした明智光秀に対して薩摩守が思うのは「カッコいい………。」の一言である。恐らく光秀は本作で採り上げる愛妻家の中でも一、二を争うのではないかと思われる。


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令和五(2023)年七月一二日 最終更新