第陸頁 伊達輝宗……陰謀砕いた愛妻振り

氏名伊達輝宗(だててるむね)
生没年天文一三(1544)年〜天正一三(1585)年一〇月八日
恋女房保春院(ほうしゅんいん。最上義守娘)
伊達政宗、小次郎、他
略歴 過去作偉人達の親以来、二度目の登場となる伊達輝宗である。「伊達政宗の父」として有名で、逆を云えばそれ以外の立場では歴史的に目立たない人物だが、薩摩守は人として結構好きである。

 天文一三(1544)年九月、伊達家第一五代当主・伊達晴宗の次男として生まれた。幼名は彦太郎。次男に生まれたが、晴宗が婚姻時に舅・岩城重隆との間に最初に生まれた子を岩城家の養子とすることを約定していたため、彦太郎は生まれながらにして事実上の嫡男にして、次期当主となった。

 天文二四(1555)年三月一九日、元服し、室町幕府第一三代将軍・足利義輝の偏諱を受けて伊達輝宗と名乗り、永禄七(1564)年に二一歳で、最上義守の娘・義姫を娶り、同年末頃に父・晴宗より家督を譲り受けた。
 だが、家督は譲っても、実権は譲らない例が枚挙に暇がないのは拙サイトで何度も触れた歴史の通例(苦笑)で、輝宗も実権は晴宗と重臣中野宗時・牧野久仲父子に握られていた。それどころか、祖父・稙宗も存命で、稙宗と晴宗は実権を巡る諍いを繰り返す有様だった。

 家督継承から一五年経て、ようやく輝宗は、永禄一三(1570)年に中野父子を追放したのを皮切りに己に従順ならざる家臣達を処罰すると実権掌握して鬼庭良直、遠藤基信等を抜擢して重用。家中を固めた輝宗は外交面では晴宗同様に蘆名氏との同盟関係を保ち、南奥羽諸侯間の紛争を調停した(南奥羽諸侯は伊達家を含め相互に姻戚関係にあり、同盟・仲違いを繰り返していた)。
 一方で、奥羽以外では天正三(1575)年七月には織田信長に鷹を贈っており、基信に命じて北条氏政・柴田勝家と頻繁に書簡・進物をやりとりして友好関係を構築した。

 天正六(1578)年に上杉謙信が没し、謙信の養子である景勝(姉の子)と景虎(北条氏康七男)との間で家督継承争いである御館の乱が勃発すると、輝宗は対相馬戦を叔父・亘理元宗に一任すると、北条との同盟に基づいて蘆名盛氏と共に景虎を支援してこれに介入した。
 御館の乱が景勝の勝利に終わった後も輝宗は新発田勢(←上杉家中で軍功が蔑ろにされて景勝に叛旗を翻していた)を支援する等して泥沼化。越後への介入は以後七年も続いた。

 一方、対相馬戦は、相馬盛胤・義胤父子の戦上手さに苦しめられたが、天正七(1579)年に田村清顕の娘・愛姫を嫡男・政宗の正室に迎えて味方につけると本腰を入れ、天正一〇(1582)年には小斎城主・佐藤為信の調略に成功。翌天正一一(1583)年に丸森城を、次いで天正一二(1584)年には金山城を奪還した。
 伊具郡全域を掌中に収めた所で頃会いと見た輝宗は同年五月に和睦。和睦条件として得た所領をもって輝宗は稙宗の頃の勢力圏をほぼ回復し、南奥羽全域に多大な影響力を行使する立場となった。

 天正一二(1584)年一〇月六日、会津の蘆名盛隆が男色関係のもつれから家臣に殺害されると、輝宗は新当主となった盛隆の子で、生後僅か一ヶ月だった亀王丸(母は輝宗の妹)の後見となった。そしてそれを機に政宗に家督を譲ることを決定し、自らは越後介入に専念するつもりであったという。
 だが新当主となった政宗が上杉景勝と講和したため、伊達・蘆名・最上共同での越後介入が破綻。蘆名家中において伊達家への不信感が増大した。

 翌天正一三(1585)年春に、政宗が岳父・田村清顕の求めに応じて伊達・蘆名方に服属して田村氏から独立していた小浜城主・大内定綱に対して田村氏の傘下に戻れと命令。定綱が拒否したことで政宗は同年四月に大内氏に対する討伐命令を下した。
 定綱は輝宗の妹であった蘆名盛隆未亡人に取り成しを求めたが、政宗は五月には蘆名領に侵攻。更には定綱とその姻戚である二本松城主・畠山義継へ攻撃を加えた。
 だが政宗のやり方はそれまでの輝宗の戦略方針を急激に転換するもので、南奥羽の外交秩序は破綻の危機を迎えることになった。

 同年一〇月、義継が政宗に降伏を申し入れた。政宗が降伏条件は義継の大名としての家格を完膚なきまでに叩き潰す程過酷なものだった。義継は輝宗に泣きついて調停を依頼し。政宗は不承不承軽減に応じた。
 だが同月八日、義継は調停に謝意を表すべく宮森城に滞在していた輝宗を訪れた際に、突如輝宗に短刀を突き付け、これを拉致して二本松城に戻らんとの暴挙に出た。
 知らせを受けた政宗が阿武隈川河畔にて追いつくと、結果として伊達輝宗と畠山義継は供に命を落とした。伊達輝宗享年四二歳。
 輝宗の最期は、政宗の覇業の足手まといになることを懸念して政宗に自分諸共義継を銃撃させたとも、義継に掴みかかってその短刀で自害したとも、最期を悟った義継の一撃に斬り伏せられたとも云われている一方で、政宗が非情にも両名を銃撃して討ち果たした説もある。
 いずれにしても、輝宗が政宗の眼の前で落命したのは事実で、温厚な輝宗の死は、遠藤基信を初めとする数名の家臣殉死による家中弱体化と、畠山義継の無残な最期に同情した街道七家の政宗に対する反発を呼び、政宗の奥羽制覇を鈍化させることとなった。



一妻 伊達輝宗の正室は山形の領主・最上義守の娘で、義姫(よしひめ)と云った。
 永禄七(1564)年頃、輝宗に嫁ぎ、永禄一〇(1567)年に一九歳で嫡男・政宗を産んだのを初め、二男二女を生んだ(女児二人はともに夭折)。
 伊達家では米沢城の東館に住んだことからお東の方とも、最上御前とも呼ばれた。

 一般に義姫と云えば、NHK大河ドラマ歴代最高視聴率を誇る『独眼竜政宗』(令和五(2023)年現在)で岩下志麻さんの演じたイメージが強い。確かに史実を丹念に調べてもあのドラマに勝るとも劣らぬ女傑であることが随所に伺える一方で、故山岡荘八の原作を見るとドラマより遥かに非情な手段も厭わない冷酷女の一面も垣間見える。
 何せ原作では嫡男(政宗)を産んだ後に輝宗の寝首を掻いて政宗を人質に最上家に帰り、伊達家に降伏を迫るつもりで輝宗に嫁いだとされていた。

 ただ、薩摩守はそんなつもりで輝宗に嫁いだのは史実と見ていない。岩下志麻さん、そして義姫の兄で最上家後継者として父と何度も対立し、時に身内にも非情な手段を取り続けた最上義光(もがみよしあき)を怪演した故原田芳雄氏の名演もあって、そのイメージが物凄く強いと思われるが、薩摩守は最上家の人間が「非情」だったのではなく、「情が濃過ぎた」と思っている。

 確かに義光は義守と何度も対立し、甥である政宗とも干戈を交え、晩年には家督を譲った嫡男・義康を死に追いやり、そんな諍いが祟って義光の死後僅か九年で最上家は幕府から改易を命じられた(最上騒動)。
 だが、奥羽の諸大名は家系図を描けば訳が分からなくなるぐらい姻戚関係が多く、煩雑を極めている。輝宗の祖父・稙宗が艶福家であったこともあって、奥羽の大名に伊達家の血の混じっていない者がいない程で、ある意味、骨肉の争いを全く経験していない者は皆無に近かっただろう。
 当然、義姫の夫・輝宗も、子の政宗も何度も最上家と争った。ただ、義姫と義光は至って仲が良く、義姫は父と兄、兄と夫の戦いを何度も止め、天正六(1578)年に上山城主・上山満兼が輝宗と連合して義光を攻めた際には、義姫は、駕籠で陣中を突っ切り夫の元へ参じ、輝宗に抗議し、撤兵させて兄を救った。

 天正一三(1585)年、輝宗が畠山義継に殺されて未亡人となると出家して、保春院と号した。本作は輝宗義姫の夫婦関係を検証するものなので、その後の保春院に関しては簡単に記したいが、彼女は政宗によって伊達家を追放され、実家の最上家に戻ることとなった。
 一般に、小田原征伐にやって来た豊臣秀吉が奥羽の諸大名の自らへの臣従の証として小田原に参陣することを命じ、この時の政宗の行動が伊達家を滅ぼしかねないと見た保春院が次男・小次郎を立てて政宗を毒殺せんとしたが、難を脱した政宗によって小次郎は斬られ、自らは追放されたとの説が有名である。
 ただ、昨今ではこの説にも謎が多い。事件の三年前に大崎合戦にて政宗が義光によって包囲され危機的な状況に陥った際に保春院は戦場に輿で乗り込み、両軍の停戦を促し、義光が渋々ながらこれに応じたことで八〇日ほど休戦の後に両者は和睦したこともあった。
 何だかんだ云って、保春院も義光も肉親の情を無視する人間ではなかった。

保春院の最上家帰還も、政宗が小次郎を斬った直後ではなく、その後しばらく伊達家に留まっていたとする説も事件の解明を困難にしている。
小田原参陣の三年後の、文禄二(1593)年、保春院朝鮮出兵従軍中の政宗へ、現金三両と和歌を添付した手紙を送り、政宗はこの書状に感激して朝鮮木綿を入手すると「ひとたび拝み申したく念望にて候」としたためた書状を送ったと云う。とても憎み合った母子の交流とは思えない。

 結局、保春院が山形に戻ったのは翌文禄三(1594)年一一月四日で、追放にしては少々おかしい。いずれにせよその後も保春院と政宗の書簡やり取りは続き、慶長五(1600)年の関ヶ原の戦いにおいても、政宗に上杉景勝と戦う義光を助けるよう書状を送り、政宗もこれに応じている。
 最終的に、慶長一九(1614)年に義光が没し、その後の内紛によって元和八(1622)年に最上氏改易を受け、翌元和九(1623)年には政宗を頼って仙台城に入り、同年七月一六日に没した。

 詳細には謎が多いながら、義姫が最上家へ出戻った後も政宗と書簡を交わし、彼女の言動が政宗にも義光にも大きな影響を持っていたことと、最晩年には通常の母子関係に戻っていたことに疑いはない。
 また、義光も原田氏の怪演から陰謀家としての面が目立ちがちだが、彼もまた情の深過ぎた人間で、憎まれ口を叩きながらも要所要所では妹の顔を立ててその言に従い、娘の駒姫が豊臣秀次に連座して非業の死を遂げた時には義光は数日間食事も摂れない程悲しみ、駒姫の母であった妻は駒姫が処刑された二週間後に後を追うように亡くなり、以後義光は真言宗への帰依を深めたと云う。
 嫡男の義康を殺めたのも幕府との関係を重んじ、最上家の生き残りを優先した結果で、ドラマでも義康と駒姫の死を深く嘆く義光の姿は見ている方が辛い程だった。そして何より戦場や謀略では鬼だった義光は領民にとっては良い領主で、「年貢以外に辛いことが無い。」と云われる程、領民に負担を強いない名君だった。

 話が脱線したが、輝宗義姫が仲睦まじく、前者が側室を迎えず、後者が再婚しなかったのも、情の深さが人一倍強かったことと無関係でないと思われてならないのである。



一妻の理由と生き様 何故伊達輝宗が側室を迎えなかったか?正直、その理由は推測の域を出ない。薩摩守が思うに、やはり輝宗故人の性格によるところが大きいと思われる。

 輝宗義姫の夫婦関係は永禄七(1564)年から天正一三(1585)年までの二二年間に渡るもので、この間、輝宗義姫だけを妻とし、一人の側室も迎えていない(一応、大悲願寺一五世住職、江戸中野宝仙寺一四世法印となった「秀雄」という庶子を産んだ妾がいたとの説もあるらしい)。それには何らかの理由があったのは確かだろう。

 推測の一つ目は、「輝宗義姫にべた惚れしていた。」と云うものである。
 伊達輝宗と云う人物、戦国大名に在っては稀有とも云える程信心深く、優しい人物だった。また子煩悩で、上述の過去作にも書いたが、政宗の教育にはかなり力を入れた人物で、政宗が生まれたその日の内に対面している(当時、産室は「穢れた場」とされており、男の入る場所ではないとされていたので、父と子がその日の内に対面することなど皆無だった)。
 上述の義姫の紹介で、彼女が最上家の為に生涯を尽くした人物だったことを述べつつ、彼女が端から輝宗の寝首を掻いて嫡男を人質にする目的で嫁いだ原作内容に否定的な考えを展開しているが、「全くあり得ない。」とまでは思っていない。というのも、肉親にあれだけ情の濃い義姫なら、夫よりは血の繋がった実家を重んじても不思議はないし、その後政宗に尽くしたこととも矛盾しないと思っている。
 結局、原作では輝宗の寝首を掻く気でいた義姫だったが、計画中に肝心の実家が父と兄で諍いを起こし、それを調停している間に輝宗の情を受けたことで小次郎を身籠って計画を中止している間に輝宗と心から本当の夫婦になる展開を辿っていた。輝宗のお人好しとも云える程の情の深さが義姫の陰謀家としての彼女の冷酷面を溶かしたと見れなくもない。
 詰まる所、輝宗義姫も情が深い故に、他の異性に目が行くこともなかったのだろう。

 推測の二つ目は、複雑極まる姻戚関係に輝宗が辟易していたと云うものである。
 上述した様に、奥州の諸大名は血縁関係だらけである。殊に輝宗の祖父・稙宗は艶福家で、娘(つまり輝宗の叔母達)を諸大名家に嫁がせまくったので、伊達家と無関係の応酬大名家は皆無に近かった。
 それ故、養子行きも頻繁に散見された。輝宗の弟・政景は留守家に、昭光は石川家に養子に云っており、次男・小次郎も蘆名家(輝宗の妹が嫁いでいた)への養子行きが話と持ち上がったことがあった。
 また輝宗も本来は晴宗の次男だったが、長兄が母の実家との約定に基づいて養子に出ているし、輝宗の子・政宗が三春の田村清顕の娘を正室に迎えた際に、一人娘しかいなかった田村家に対して、政宗との間の子に田村家を継がせる約束をしていた(この約束は孫の代に果された)。

 例を挙げればキリがないが、この様に二重三重の複雑な婚姻関係・養子縁組が血縁を交えてなされていた訳で、逆を云えば奥羽諸大名は常に「骨肉の争い」を余儀なくされた。
 これを考えると、情の深い輝宗にとって骨肉の争いにかなり辟易していたのではあるまいか?何せ戦う度に相手は身内なのである。勿論こちらが攻めたくなくても相手が攻めてくることもあるから、それこそ愛する妻子兄弟一族郎党を守る為に死力を尽くして戦わなければならない局面もあったことだろう。
 「血の繋がり」とは濃くて大切なものであるが、濃いが故に拗れるとこれ程醜い争いを生むものはないとも云われている。輝宗が外交において奥州諸氏を無視したとは云わないが、近くの諸家よりも遠方の織田信長、北条氏政との交流を重んじ、上杉家に介入していたのも、「血の繋がった身内と陰険な駆け引きをしているよりも、遠方と付き合っている方が気楽。」との想いがあったように思われてならないのである。
 つまり、側室を持つことで、最上家以外にも縁を持ち、新たな火種が生まれて苦しむことを輝宗は厭うたのではないか?との推測である。上述のドラマでも、小次郎の蘆名家への養子行きが持ち上がった際、義姫は「蘆名家なら(家格的に)申し分ない!」と喜んでいたが、輝宗は難色を示していた。そして輝宗の意図はどうれ、彼の死後に蘆名家は政宗の手で滅ぼされているのである………。

 ともあれ、伊達輝宗と云う漢(おとこ)、その情の深さ故に政宗と云う一雄を生む土壌を為し、その情の深さ故に命を落とした。上述のドラマでは、腹に一物を持った最上家の尖兵として嫁いだはずの義姫が父と兄の争いを止めに実家に帰って来て輝宗が如何に優れた男かを説いて、父と兄が争い続ければ最上が伊達に滅ぼされると説いていたが、そんな妹に対して兄は皮肉っぽく、「のろけに来たのか?」と揶揄していた。ある意味、義光には義姫が完全に輝宗に篭絡されて帰って来たように映ったのだろう。
 ドラマをそのまま受け止める訳ではないが、輝宗の情の深さが陰謀を粉砕して本当の夫婦の情愛を生み、妻の実家の諍いまでをも沈めたとすれば、その情の深さは驚嘆するとともに尊敬に値する。

 上手く云えないが、最後の悲劇や、背景の骨肉の争いを別にするなら、輝宗義姫の夫婦関係は、「羨ましい…。」の一言である。


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令和五(2023)年七月一九日 最終更新