第漆頁 黒田如水……入信前から妻は一人

氏名黒田如水(くろだじょすい)
生没年天文一五(1546)年一一月二九日〜慶長九(1604)年三月二〇日
恋女房光(てる。櫛橋伊定娘)
黒田長政、他
略歴 黒田如水は、菜根道場道場主をして「最も敵に回したくない男」と云わしめる鬼才の持ち主である。ただ、これも度々言及しているが、決して嫌いな男ではなく、むしろ好きな方である。その如水の諱は孝高(よしたか)で、通称は官兵衛だが、本作では面倒くさいので出家名である如水で通させて頂く。

 天文一五(1546)年一一月二九日に播磨の小大名・小寺政職の家臣である黒田職隆の嫡男として姫路に生まれた如水は、永禄四(1561)年から一六歳で近習として政職に仕え始めた。
 永禄一〇(1567)年頃には父から家督と小寺家家老職を継ぎ、政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘・(てる)を妻に迎え、姫路城代となった。
 この間、中央では織田信長が暗殺された室町幕府第一三代将軍足利義輝の弟・義昭を奉じて上洛し、義昭を一五代征夷太将軍に就任させて畿内に覇を唱えだし、西方では毛利元就が勢力を拡大する中、毛利に滅ぼされた尼子氏の残党がこれに抵抗し、小寺家も時代の荒波に揉まれ出した。

 永禄一二(1569)年八月、信長の命を受けた羽柴秀吉が但馬の山名祐豊を攻める為に二万の大軍で攻め寄せて来ると、時を同じくして足利義昭に通じた赤松政秀が三〇〇〇の兵で姫路に攻めて来た。如水は寡兵で良くこれを防ぐ中、程なく信長と義昭が仲違いし、信長が浅井・朝倉を滅ぼし、義昭を京都から追放するなど優勢を辿る中、如水は信長と結んだ方が有利と考える様になった。
 そして天正三(1575)年に信長が長篠の戦いに大勝したのを機に、如水は政職に信長への臣従を進言。同年七月には秀吉の仲介で政職共々信長に謁見した。

 天正五(1577)年に、主君・政職の子が病弱だったことから自身の嫡男・松寿丸(長政)を臣従の証として織田家への人質として差し出したが、織田・毛利の狭間で三木・浦上・宇喜多・荒木と云った摂津・播磨の小豪族は向背定かならず、天正六(1578)年九月に宇喜多直家の調略に成功するも、直後信長に反旗を翻した摂津有岡城の荒木村重(←政職もこれに呼応した)を説得せんと出向いた際に、村重によって幽閉されてしまった。

 約一年後の天正七(1579)年一〇月一九日に有岡城は陥落し、如水は重臣・栗山利安達に救出された。その間監禁生活で如水は足の自由を失い、如水が裏切ったと思い込んだ信長の命で松寿丸が殺される所だった。
 幸い、竹中半兵衛がこっそり匿ってくれていて、救出によって如水が裏切ってなかったことが判明し、(珍しく(笑))非を認めた信長によって松寿丸人質の任は解かれ、如水は正式に秀吉の参加に入った。

 亡き半兵衛に替わって秀吉の知恵袋となった如水は毛利攻めにも貢献し、備中高松城を水攻めにして陥落寸前に追い詰めた。しかし天正一〇(1582)年六月二日に本能寺の変が勃発して、信長が横死した。
 明智光秀が毛利方に送った密使を捕らえたことで事件を知った秀吉は滂沱に暮れたが、如水は逆にこれは秀吉の好機であると説き、その言に従った秀吉は急ぎ毛利方と講和を結ぶと「中国大返し」と呼ばれる急退却で畿内に戻ると山崎の戦いで明智を討ち、主君信長の仇を取ったことで織田家における発言力を盤石のものとし、やがて天下人への道を歩み始め、それに伴って如水の地位・戦力も大きく向上した。
 だが、悲嘆にくれる秀吉を励ました際の言が、秀吉をして「油断ならぬ奴。」と思わしめ、その後の秀吉家中における如水は優遇されつつも、警戒されるようになった。

 小牧・長久手の戦い後、播磨宍粟に五万石を与えられた如水だったが、九州征伐後は何かと難治な九州を治める名目で豊前六郡一二万石を与えられ。石高だけ見れば倍増だが、地理的には左遷に他ならなかった。
 しかしながら如水は更なる立身出世を諦めた訳ではなく、天正一七(1589)年五月に嫡男・長政に家督を譲って隠居したが、勿論これは表向きで、自身は伏見の京屋敷や天満の大坂屋敷に居を構えて中央に居座った。
 翌天正一八(1590)年の小田原征伐にも従軍し、北条氏政・氏直親子を説得して小田原城を開城させると云う大功を立てており、警戒されつつもその才能は秀吉から重宝され続けた。

 天下が統一されると如水朝鮮出兵にも軍監として従軍したが、その間に同じ軍監仲間だった石田三成や増田長盛等と意見が対立し、独断で戦線離脱する一方で剃髪して秀吉への謝意を示した(←この剃髪から「如水」を名乗り始めた)。
 幸い秀吉からは赦免され、程なく慶長三(1598)年八月一八日に秀吉が薨去したことで朝鮮出兵も終結し、黒田家は一応の安定を保った(ただ、この間に従軍を希望した次男・熊之助が嵐の為に水死すると云う悲劇に見舞われている)。

 だが、秀吉が亡くなって僅か半年後の慶長四(1599)年閏三月三日に豊臣家中の対立を抑えていた前田利家が亡くなると長政が六人の仲間(加藤清正・福島正則・加藤嘉明・細川忠興・浅野幸長・池田輝政)とともに石田三成襲撃事件を起こし、天下はきな臭くなった。
 翌慶長五(1600)年六月二日に徳川家康が上杉景勝討伐令を豊臣秀頼の名で発すると、四日後に家康養女を娶った長政はその一〇日後に岳父・家康に従って出陣した。これを受けて天下が乱れると見た如水は豊前中津に戻ると家康と気脈を通じつつ、中津城の金蔵を開いて領内の百姓や諸国の浪人を集めた九〇〇〇名の即席軍を作り上げ、西軍方の諸大名と戦い、勢力を保持した。
 如水の予見では、東西両軍の戦いは長期間に及ぶと見られ、その間に如水は九州にて一大勢力を作り上げ、東西双方が疲弊したところを第三勢力である自軍が双方を潰し、黒田家の天下を為さんと目論んでいた。だが、如水人生最後の大博打は他ならぬ息子・長政の手で潰れた。
 長政の優れた手腕で豊臣恩顧の有力大名が数多く家康に味方し、その結果長期間に及ぶと見られた関ヶ原の戦いはたったの一日で東軍の大勝利に終わっていた。戦いの四日後に西軍大敗の報に接した如水は徳川方であることを示すべく戦い続け、立花宗茂を降伏させたり、島津義弘の軍船を沈めたりしたが、やがて家康から停船命令を受けてこれに従った。

 関ヶ原の戦いで大活躍した長政の功により、黒田家は豊前中津一二万石から筑前名島五二万石に大躍進した。密かに天下を狙っていた如水にしてみれば手放しで喜べない面もあったが、ともあれこれにて如水は完全に隠居・療養生活に入り、上方と筑前を往復し、時に有馬温泉に療養する日々を送った。そして黒田家は江戸幕府における外様ながらも大大名としての地位盤石化に邁進した。

 関ヶ原の戦いから三年半後の慶長九(1604)年三月二〇日、京都伏見の屋敷にて如水は病没した。黒田如水享年五九歳。



一妻 上述した様に、黒田如水の妻は、櫛橋伊定の娘・である。櫛橋は黒田家の旧主・小寺政職の姪で、推測するに一族の結束を固める政略結婚だったのであろう(名目上、は政職の養女となった上で如水に嫁いでいる)。
 天文二二(1553)年の生まれで、如水の七歳年下。如水との間には長政・熊之助の二男を設けた。

 黒田家にあって「才徳兼備」と称えられ、内外から黒田家の重要人物と見られた。
 豊臣秀吉の天下を統一すると諸大名の妻子を人質として大坂に置くことを命じ、も同様に大坂に置かれた。それがため関ヶ原の戦いに際して西軍の人質として捕らえられる危機に瀕した。
 幸い(と云っては変だが)、細川忠興の正室・ガラシャが人質になることを拒んで自害(←正確には家臣に自分を刺殺させた。熱心なキリシタンにとって自害は御法度故に)したことで西軍方の監視は緩み、栗山(善助)利安、母里(太兵衛)友信、宮崎重昌等の活躍では栄姫(長政正室)は長柄の屋敷から救出され、中津城まで船で脱出した。

 慶長九(1604)年三月二〇日に如水と死に別れたことでは出家。京都において報土寺に塔頭・照福院を建立したことでそれが院号となった。
 同寺には如水のみならず秀吉も訪れたことが過去帳に残っており、の肖像画も伝来し、現在は京都国立博物館に寄託されている。同時代の女性にあってはかなり珍しいことである。
 話は逸れるが、拙サイトにて歴史上の女性を採り上げる際、毎度毎度その記録の少なさに頭を悩まされる。歴史が古代に遡るほど日本社会(に限らないが)は男尊女卑の度合いが大きく、女性の記録は本当に乏しく、紫式部や清少納言の様な有名人であってもその諱が伝わっていないことが多い。
 その点、はまだ知名度の割には記録の多い方かも知れない。

 織田家と毛利家の争いで毛利方に着いた実兄を失い(その子、つまり甥は黒田家に仕えることを許された)、朝鮮出兵で次男を失い、慶長九年に夫・如水に、元和九(1623)年に長政に先立たれ(享年五六歳)たが、如水も長政も当時としては短命だった訳でもなく、が長命だったと云える。
 長政逝去の四年後、寛永四(1627)年八月二六日、筑前福岡において逝去。櫛橋光享年七五歳。



一妻の理由と生き様 実のところ、黒田如水の他に側室を迎えなかった理由ははっきりとしない。それゆえ、推測で記載することを御許し願いたい(苦笑)。

 「世継ぎを残す。」ことを至上命題とする世の中にあって、いつ命を落とすか分からない戦国時代ならずとも、明治以前の日本ではそこそこ地位のある人間が側室を持つのは半ば当たり前だった。勿論、正室の実家が大権力者だったり、正室が次々と男児を生んだりした場合は敢えて側室を迎える必要はなかっただろう。
 ただ、如水と照の間に生まれたのは長政・熊之助の二男のみで、実際に長政が幼少期に命を落とし掛けたり、熊之助が元服前に水死したのを鑑みると、子はもっと数多くなすべきと見る人も多かったと思われる。

 そんな戦国の世に在って、敢えて正室一人しか迎えなかった要因の一つに、「キリシタン大名」というものがある。キリスト教の世界では重婚は重大な禁忌とされた。『新約聖書』にはイエス・キリストが「一人の男子と一人の女子が結婚して一体となることが神が定めたもうた秩序である」と公言したとあり、重婚は「神に背く行為」と認識されている。殊にカトリックにおいて修道女達は「入信と同時に心の上でイエス・キリストと結婚した。」とされ、現実の世で男性と結ばれることが「重婚」となることで生涯独身であることを義務付けられた。

 如水も熱心なキリシタンだった高山右近・蒲生氏郷の誘いでキリスト教に入信(洗礼名はドン・シメオン)し、長政も入信している。そんなクリスチャンの厳格な掟である「一夫一妻」の原則に従って如水が側室を迎えなかったとの説があるが、話はそう単純ではない。
 確かに熱心過ぎるほど熱心なキリシタン故に国外追放すら受け入れた高山右近などは一人しか妻を迎えていない。一方で右近ほどではないにしても熱心なキリシタンだった小西行長には側室がいて、海外でも有名なキリシタン大名である大友宗麟は七人も側室を持っている。
 まあ、宗麟は個人的にその人格にかなり問題のある人物と薩摩守は見ているし、入信を機会に離縁された正室もいるから話は本当に単純ではない。

 同時に、(クリスチャンの方々には嫌な話になると思うが)、キリシタン大名の敬虔さはかなり千差万別で、南蛮貿易による利益や、領内の寺社勢力との対立から便宜上キリシタンになった者も少なくない。そんな「利」を重んじてキリシタンとなった者は「利」が軽いと見ると簡単に棄教した。
 貿易面の有利さから当初はキリスト教を保護した豊臣秀吉も晩年にはその教義や欧州諸国の動向から伴天連追放令を発してキリスト教を大弾圧しており、秀吉死後に天下を取った徳川家康もキリスト教を禁教とした。結局それに伴い、如水・長政も棄教している。
 これだけ見れば如水もまた損得勘定による入信だったと見たくなるが、死に際して如水はロザリオと祈祷文を手に息を引き取っており、自分の遺骸を領内の神父の元に送ることと、教会の保護を遺言している。
 つまり、現実主義の観点から幕命に従ってキリスト教を忌避する風を装いつつも、密かな信仰を続けていたと見れなくもない。如水の信仰についてはなかなか一口に語れない(ちなみには生涯熱心な浄土宗の信者だった)が、との婚姻から入信までの期間を考えても普通ならその間に側室を迎えるのは充分にあり得た話である。

 では何故に如水は側室を迎えなかったのか?

 薩摩守が推測するに、旧主・小寺家との関係、更には有岡城における幽閉があったと思われる。黒田家は元々小寺家の支族である。それゆえ如水の祖父の代から小寺家の家老職を務め、政職の姪を正室に迎えた。
 そしてその小寺家だが、所謂国人領主で、その勢力は決して大きくなく、織田家と毛利家の狭間でつくべき相手を間違えれば一族滅亡も充分有り得る話だった。それは周辺の三木・浦上・赤松・荒木といった国人諸氏も同様で、実際に彼等は織田に付いたり、毛利に付いたりした。
 そんな中、如水は初めから信長優勢を予見し、政職に信長随身を進言していたが、結果的に政職は毛利に付き、黒田家とも袂を分かった。この政職の裏切りも彼なりに御家存続に頭を悩ました果ての選択と思われ、何も好き好んで裏切りや如水との断交を選んだとは思えない。
 思うに、如水は側室を迎えることで主家以外に縁が出来ることでしがらみが増え、いざと云うときに決断が鈍ることを恐れたのではあるまいか?

 そして二つ目の推測だが、如水が側室を迎えなかった要因の一つとして有岡城における幽閉があると薩摩守は睨んでいる。
 共に信長に随身した筈の摂津有岡城主荒木村重が毛利に付き、政職もこれに従ってしまった。慌てた如水はこれを説得向かい、幽閉されたのは周知の通りである。この幽閉で如水は足の自由を失い、病にも冒されたが、大変だったのは如水の家族も同様かそれ以上だった。
 織田家への忠誠の証として人質に出されていた松寿丸(長政)には信長からの抹殺命令が下った。これを竹中半兵衛が密かに匿ったのは有名だが、このことが信長に知られれば半兵衛・松寿丸は勿論、羽柴秀吉の命すら危ない。それゆえ松寿丸助命は徹底的に隠され、如水救出まで黒田家の人間にも伏せられた。

 「当主行方不明、跡取り誅殺」という事態に見舞われた黒田家に残るのは隠居した先代の職隆と、と、まだ幼い熊之助だけだった。勿論職隆が当主としての任務を代行する訳だが、次期当主を殺した(と見られていた相手)に、現当主の生死・行方が一切不明の状態で秀吉及び信長に従い続けたのである。その心労は察しようにも察し切れない。当然は女性の身ながら、義父・職隆を支え、ただ一人手元に残った熊之助を守り続けなければならなかった。
 幸い、一年半後に如水は救出され、その潔白が証明されたことで密かに匿われた松寿丸も人質の任を解かれ、の元に夫と死んだ筈の息子が帰って来た。平成二六(2014)年の大河ドラマ『軍師官兵衛』で救出された如水(岡田准一)の再会した直後に、殺されたと思っていた松寿丸(若山耀人)と再会した際の(中谷美紀)の驚きと感激振りはフィクションながら視聴から九年を経た今でも(中谷さんの名演もあって)胸に来るものがある。

 ともあれ、黒田家に帰って来た如水だが、周知の通り一年半の幽閉生活でその体は大きく蝕まれ、足が不自由となったことで馬にも乗れなくなっていた。頭部に醜い瘡が残ったとも云われ、一説には梅毒に蝕まれたとも云われている。
 たしかに掛かる体になり、まして梅毒に冒されたとなるとその後新たに側室を迎えることは不可能になったことだろう。ただ、如水がかかる体になったのは不衛生な土牢における幽閉生活によるもので、過酷な環境下で梅毒に掛かる行為(要するに性行為)が持てたとは考え難い。仮に幽閉前に罹患していたとしても、しか妻がいなかった状態で性病に罹ったとも考え難い(まあ記録に残らないお手付きがあった可能性までは否定出来ないが、そこまで云い出せばきりがない)。

 結局、如水を蝕んだ病に関しては何とも云えない。ただ、彼が幽閉された土牢は相当過酷且つ不衛生だったことが語られており、梅毒ならずとも体の一部を不具にしたり、醜い後遺症を残したりする病は他に幾つもあることから、それによって側室を迎えられない体になっていたことは充分考えられる(如水同様に高天神城で過酷な土牢生活を強いられた大河内正局(徳川家康家臣)は救出されてすぐに息を引き取っている)。
 まあ、政職の向背が定かならず、後に天下を取った秀吉・家康からも警戒された如水の人生を思えば、だからこそ唯一信じ合える家族の結束はより強固になったと見れなくもない。

 余談になるが、最晩年死に臨んだ如水は急に家臣に対して口喧しくなり、些細なことでも怒鳴り散らした。見るに見かねた長政が家臣に優しくするよう進言したところ、如水は、

「お前のためだ。今、家臣達は儂に対して、「糞爺、早く死ねばいい。」と思っていることだろう。そして儂が死ねば家臣達は喜んでお前に尽くすだろう。黙ってこのままにさせろ。」

 と答えた。
 このように、自分の死すら利用するところが、薩摩守をして黒田如水を「こんな男を絶対的に回したくない!」と思わせる一面なのだが、一方でそれが愛息の為であることがこの男を「好きな武将の一人」と思わしめる一面でもある。
 如水のそんな家族想いな一面が、ただ一人の妻であったに注がれた愛情となっていたとすれば………さんはかなりの果報者だったと云えよう。


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令和五(2023)年七月二四日 最終更新