第捌頁 山内一豊……戦前の学習教材となった理想の夫婦

氏名山内一豊(やまのうちかずとよ)
生没年天文一四(1545)年〜慶長一〇(1605)年九月二〇日
恋女房千代(ちよ。出自は諸説あり)
無し(但し、我が子同然に養育した拾い子あり)
略歴 天文一四(1545)年に尾張上四郡を統べる守護代・織田信安の家老を務める山内盛豊の次男に生まれた(天文一五(1546)年出生説もある)。
 尾張は元々室町幕府の管領をも輩出する名家・斯波氏が守護を務めていたが、その代理として、上四群と下四郡を陪臣である織田氏が守護代にして、事実上の支配者として治めていたが、やがて下剋上の世に在って下四郡の三家老に過ぎなかった織田信秀が実力でのし上がり、下四郡を乗っ取っただけでなく、尾張統一を目指した為、信安も盛豊もその脅威に曝された。
 弘治三(1557)年、信秀の故・織田信長が攻め寄せ、兄の十郎が討ち死にし、永禄二(1559)年には父の盛豊も落命し、山内一族は離散。一豊は諸国放浪を余儀なくされた。

 美濃・近江を放浪した一豊は永禄一一(1568)年に仕えていた近江勢多城主・山岡景隆が信長に逆らった後に敗色濃厚となるや出奔したことで一豊は心ならずも父・兄の仇である信長の傘下に入った。
 元亀元(1570)年九月の姉川の戦いで初陣。天正元(1573)年八月の朝倉氏を滅ぼした戦いにて顔面に重傷を負いながらも敵将三段崎勘右衛門を討ち取った。この功績で近江浅井郡唐国(現・長浜市唐国町)に四〇〇石を与えられ、その縁もあって翌天正二(1574)年頃に羽柴秀吉(豊臣秀吉)付となった。

 秀吉配下となってからは秀吉が参戦した重要な戦いに従軍し、中国征伐に従軍したのを皮切りに順調に活躍し、天正一一(1583)年の賤ケ岳の戦いではその前哨戦で伊勢亀山城攻めの一番乗りを果たした。
 翌天正一二(1584)年の小牧・長久手の戦いでは徳川家康軍を包囲する付城構築に従事し、地味ながらも堅実な活躍を重ねたことで、四国平定後には田中吉政・堀尾吉晴・中村一氏・一柳直末等と共に宿老の一人として位置付けれた。
 それに伴って天正一三(1582)年に若狭高浜城主に就任。秀次(秀吉甥)が近江八幡に転封すると、一豊も近江へ移り、長浜二万石の領主となった。
 天正一八(1590)年の小田原征伐で天下が統一されると徳川家康が三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五ヶ国から関八州に移封となった様に、諸大名が数多く移封された。そんな中一豊は秀次に従って山中城を攻めた功績で遠江掛川五万一〇〇〇石を与えられた。
 これには尾張領主であることにこだわって移封を拒絶したことで秀吉の怒りかった織田信雄が改易されたことが背景にあり、改易後に信雄領だった尾張・伊勢に秀次が領主として転封されたことで、秀次宿老の立場にあった一豊も出世したものであった。

 掛川城主となった一豊は同時に駿府城主となっていた中村一氏とともに城の修築、城下町作り、洪水の多かった大井川の堤防の建設や流路の変更を行い、秀次配下であったことから朝鮮出兵への従軍を免れ、後方支援を担うこととなった。
 その秀次が、秀吉の次男・お拾い(秀頼)が生まれたことで謀反の嫌疑を掛けられ、文禄四(1595)年七月八日に関白職を剥奪され、一週間後の同月一五日に切腹させらると秀次の縁者や側近の運命も暗転した。
 秀次宿老の渡瀬繁詮は秀次を弁護したことで秀吉の怒りを買って切腹を命じられ、同宿老の前野長康は中村一氏に預かりなった後にやはり自死を命じられた。
 同じ立場の一豊や田中吉政・中村一氏等も一歩間違えれば危ないところだったが、秀吉の命令で秀次等を取り調べる立場となっていたことが幸いして連座を免れ、逆に一豊は秀次遺領から八〇〇〇石を加増された。

 時が流れ、慶長三(1598)年八月一八日に豊臣秀吉が薨去したことで徳川家康が台頭すると一豊はこれに接近。慶長五年に家康が秀頼の命で会津の上杉景勝討伐軍を起こすと一豊も多くの諸大名と共に従軍した。
 家康出征を好機とした石田三成が毛利輝元を総大将に家康追討の兵を挙げると、これを下野小山で知った家康は従軍諸大名に大坂にて毛利・石田軍の人質とされた妻子が気掛かりなものは自由に軍から去って良いと云い放った。
 この時、福島正則が家康合力を最初に口にしたことから、「三成憎し!」の念の強かった豊臣恩顧の諸大名が次々に家康合力を申し出たことは有名だが、この時一豊は居城にして、大坂に戻る途上にある掛川城を提供するという具体的な忠誠の証を家康に真っ先に提示したことで家康の歓心を買った。

 当然、一豊も福島正則・黒田長政・細川忠興・加藤嘉明等と共に西上し、一豊関ヶ原の戦いの前哨戦を河田島村・米野村で展開し、西軍に味方した岐阜城主・織田秀信(信長嫡孫)の軍を、池田輝政や浅野幸長等と共に破った。
 九月一五日の本戦では家康が本陣を置いた桃配山の東南方の南宮山に布陣する毛利秀元・吉川広家・長宗我部盛親・安国寺恵瓊軍の押さえとして一豊は同山の麓にて在陣した。
 ただ、南宮山の西軍は、東軍に内応していた吉川広家が最前線にて動かなかったため、他の軍も進軍が叶わず、戦闘らしい戦闘は展開されなかった。
 しかしながら、戦後の論功行賞にて一豊は小山評定での発言が評価される形で土佐一国・九万八〇〇〇石を与えられ、後の高直しによって二〇万二六〇〇石の領主として幕府から認められるに至った。

 土佐転任後、同地では「一領具足」と云われたように半農半兵の土着心及び旧主・長宗我部家への忠誠心が根強く、一豊の統治は困難を極め、一揆にも悩まされたが、藩内の重鎮は土佐国外から登用して身の回りを固めつつ、高知城築城を初めとする城下町の整備に努め、(時には残酷な鎮圧もしたが)それなりに領主としての務めを果たした。

 慶長一〇(1605)年九月二〇日、高知城にて病没。山内一豊享年六一歳。実子が無かったために弟・康豊の子・忠義が養子として二代目藩主に就任。同年幕府では徳川秀忠が第二代征夷大将軍となった後、豊臣恩顧の諸大名はその多くが秀忠治政期に改易・減封の憂き目を見たが、山内家は例外的に減封も転封もなく幕末まで土佐藩主の座を維持し続けた(幕末に徳川慶喜の大政奉還を勧めた山内容堂は有名ですよね?)。



一妻 山内一豊唯一人の妻は俗に「千代(ちよ)」の名で親しまれている。「親しまれている」としたのは、史料的には確実な名前が不明だからである。「まつ」とする説もあるが、そもそもこの千代(←便宜上、以後はこの名で通します)は出自にも身分にも謎が多い。まあ、この時代の女性に関して詳細な記録が残っていることの方が珍しいのだが。

 簡単に述べると(簡単にしか述べられないのだが(苦笑))、千代は近江浅井氏の家臣の子に弘治三(1557)年に生まれ元亀後期から天正初期に一豊に嫁いだと見られている。
 その頃の一豊は織田家家臣として定着し、その功績から秀吉麾下に加入した頃で、千代には一豊の立身出世を支えた、所謂、「内助の功」として世に知られたエピソード(詳細後述)をこの時期に為したと云われているが、その信憑性には疑問視する声も強い。
 しかしながら、掛かるエピソードが自然に受け入れられること自体、千代が良妻の手本とされる女性の証左だったと見られており、戦前は特に良妻賢母の鏡として賞賛されていた。

 一豊との間には、長浜城主時代だった天正八(1580)年に一女・与祢を儲けるも、この子は天正一三(1585)年一一月二九日に天正地震にて長浜城が倒壊した際に乳母と共に圧死した(←医学が未発達で幼児死亡率の高かった時代とは云え、かかる死は痛ましいな………)。その後、夫婦の間には子宝に恵まれず、千代も歴史上これと云った活動を見せず、慶長一〇(1605)年九月二〇日に一豊が逝去すると剃髪して見性院(けんしょういん)と号した(←武田信玄の次女と同じ出家名だが、偶然の一致である)。
 一豊死後、山内家では後継者にその甥である忠義を迎えた。見性院は忠義の実父・康豊に忠義を後見させ、半年後には土佐を引き払って、京都妙心寺近くに移り住んだ。
 妙心寺には与祢を亡くした直後に引き取って育てた捨て子・湘南宗化がいて、見性院は彼の側で一〇〇〇石の隠居料を得て余生を過ごした。
 また京都には京都所司代前田玄以の家臣松田政行に一豊の妹が嫁いでいて、政行が一豊のもう一人の妹の子を養子としていた縁もあった。また一豊は生前に妙心寺に塔頭の大通院を起こし、忠義の婚礼の際に夫婦揃って上洛した等の縁もあった。
 隠居後の見性院は初代藩主未亡人として豊臣・徳川両家に対してこまめに働きかけ、忠義に送った手紙においては徳川幕府への忠誠を忘れないようにと諭し、同時に高台院(豊臣秀吉未亡人)に土佐の山茶花を送るようにとも書き、暗に山内家を支える助言を続けた。

 その後、読書の日々を続けていた見性院は元和三(1617)年一二月四日に天寿を全う。享年は一豊と同じ六一歳だった。見性院の臨終は宗化が看取り、本人の遺言により、料紙箱や所有している和歌集が山内忠義へ贈られた(これらの和歌集は、後に幕府に献上されている)。



一妻の理由と生き様 山内一豊千代だけを妻とし、側室を迎えなかった理由ははっきり云えば不明である(苦笑)。ただ、状況証拠からもはっきり云えるのは夫婦仲が至って仲睦まじかったということである。
 同時に千代には彼女が良妻であったとされる数々のエピソードがあり、それは江戸時代から昭和初期に掛けて日本史上における良妻の手本とさえされたのだから、エピソードの真偽は別にしても千代にはそう云われるだけの、そんなエピソードがすんなり受け入れられるだけの素地があったのは確かである。

 千代の良妻振りを示す有名なエピソードは、数々の名著に書かれている。
 まず『常山紀談』には、千代が嫁入りの持参金(またはへそくり)で一豊の欲しがった名馬を購入し、これが馬揃えの際に織田信長の目に止まり留まり、有事に備えて名馬を保持していたことを褒められる形で一豊は加増されたと云うものである。
 この話は『藩翰譜』(新井白石著)、『鳩巣小説』(室鳩巣著)、にも記載があり、戦前には就寝の授業でも度々題材にされた。
 ただ、上述の三著は江戸時代中期の成立で、金子の出どころや、名馬の詳細に関しても微妙な違いがあり、信憑性を疑問視する声は多い。
 入手場所は「安土城下」、時期は「信長の馬揃えが行われた天正九(1581)年二月二八日以前」と一致しているが、逆にこの時期の一豊は秀吉と共に中国地方に出陣中で、「信長配下」と云うよりは「秀吉麾下」としてのカラーの方が強かった時期で、当時それなりの地位を得ていた一豊が馬一等買うのに妻のへそくりに頼らなければならなかったのか?との疑問の声もある。

 ちなみに名馬購入に要した費用は一〇両で、これは現在の価値にして約一二〇〜二一〇万円に相当すると云われている。確かに価格として少なくはないが、当時二〇〇〇石取りだった一豊の身分では物凄く驚く金額と云う訳でもない。
 また、費用捻出には「女の命」とされた髪の毛を千代が売ったとの説もあるが、髪の毛がどれほどの値段で売れたかはっきりしないし、明智光秀の妻・煕子にも、西洋の寓話(オー・ヘンリー『賢者の贈り物』)にも似た話があるので、これも信憑性に疑問が残る。

 では、戦国の世に他に良妻賢母は多数いように、何故に千代がここまでクローズアップされたのだろうか?記録に残りにくいだけで、弱肉強食で骨肉の争いも珍しくない戦国の世に在って妻の存在は決して軽くない。恐らくは千代は普通に妻として立派に一豊を支え、一豊もそんな千代を深く愛したのだろう。

 上述した様に、一豊千代は長浜時代である天正八年に自身で一人娘を失っている。夫婦の意気消沈振りは知る由もないが、直後に一豊本能寺の変に端を発する主君・羽柴秀吉の大出世に伴って一廉の大名となっている。かかる大出世を遂げた一豊に実子がいないとあっては、側室を勧める声は数多あったと思われる。
 だが、一豊は側室を迎えなかった。それどころか、一時は与祢を亡くした後に千代が養子として育てた捨て子に山内家を継がせようとすら考えていた。

 その捨て子は後に妙心寺の僧・湘南宗化となったのだが、さすがに素性も知れない拾った子を後継ぎにするのは一族を初めとする周囲の反対が大きかったと見られ、山内家は一豊の甥・忠義が継いだ。
 しかしながら、一豊死後に千代は土佐を出て、宗化の側で暮らしたのだから、千代は血の繋がりなど問題にならない程の愛情を宗化に注いでいたのだろう。同時に(これは薩摩守の推測に過ぎないが)そんな愛情深い女性である千代一豊もまた深く愛し、彼女以外の女性との間に子供を作ることなど思いもよらなかったのではあるまいか?

 勿論掛かる愛情を受けて、宗化もまた養母を深く慕った。
 山内家の墓所は高知市内にあるが、宗化は妙心寺に山内一豊千代夫妻の廟所を設けている。これは寛永一〇(1633)年に見性院十七回忌に当たり、見性閣を営んで養父母の恩に報いんとしたものである。

 何度も上述した様に、千代のかかる良妻振りは明治から第二次世界大戦が終わるまでの学校制度・女子教育にあって良妻賢母の鏡とされた。終戦に伴って戦前教育の多くが否定され、学科から修身の授業がなくなり、千代のエピソードもかつてほどは日本人の常識とはなっていない。ただそれでもこの夫婦は戦後も理想の夫婦像を愛でられ、何度もドラマ化され、平成一八(2006)年には大河ドラマにもなった。

 如何に信憑性に疑問があろうと、戦前教育の一環として否定されようと、千代を悪妻とする声は皆無で、思うに、万人がその夫婦像を理想とし、羨んでいるのだろう………何?羨んでいるのは薩摩守だって?……………ぬううっ…否定出来ない(悶絶)


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和五(2023)年八月三日 最終更新