第玖頁 徳川秀忠……隠し子を隠し抜いた恐妻振り

氏名徳川秀忠(とくがわひでただ)
生没年天正七(1579)年四月七日〜寛永九(1632)年一月二四日
恋女房崇源院(すうげんいん。浅井長政娘)
千姫、珠姫、勝姫、初姫、徳川家光、徳川忠長、和子
略歴 天正七(1579)年四月七日、徳川家康の三男として浜松に生まれた。幼名は長松丸。母はお愛の方(西郷局とも云う)で、家康の側室の中で二人以上の子を産んだ数少ない一人で、寵愛を得てからは逝去の時までその寵を失うことは無かった。

 長松丸の生まれた年に長兄・信康は自害し、次兄・於義丸(結城秀康)は母親の立場から家康の寵愛を得られず、小牧・長久手の戦いの後に和睦の証として羽柴秀吉の養子となったため、母親の寵愛もあった長松丸は事実上の嫡男として育った。

 小田原征伐に際して、娘を北条氏直に嫁がせていた家康は秀吉に反意の無い証として秀吉の元に人質として送られたのが、長松丸と秀吉の邂逅となったが、この時長松丸は秀吉の妹で、家康の継室となっていた朝日姫に可愛がられていたことや、兄・於義丸が秀吉に可愛がられていたことが幸いし、立場は人質でも秀吉から可愛がられた。
 対面の八日後には自分の片諱・「秀」の字を長松丸に与えて「秀忠」と名乗らせて元服させた(恐らく「忠」の字は祖父・広忠の一字を取ったのだろう)。
 更には織田信雄の娘と婚約が為され、その娘が夭折すると、浅井三姉妹の一人であるお江を秀吉の養女として娶せられた。そして二人の間に長女・千姫が生まれると秀吉は実子秀頼の妻に千姫を請い、秀忠は徳川家と豊臣家を累代に渡る絆を築く役割を課せられた。

 しかし慶長三(1598)年八月一八日に豊臣秀吉が薨去すると、天下は徳川家康にシフトし、慶長五(1600)年九一五日の関ヶ原の戦いにて大勝した家康は事実上の天下人となった。
 この戦いが初陣だった秀忠は徳川軍の主力三万八〇〇〇を率いて中山道を西上したが、途中信州上田城攻めに手間取ったこともあって肝心の一大決戦に遅参するという、武将としての大失態を演じてしまったが、散々試案を重ね、重臣達にも諮った結果、家康は秀忠を自らの後継者とした。
 慶長七(1600)年に征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた家康は、徳川政権の世襲を天下に示す為に僅か二年で駿府に隠居し、秀忠は慶長九(1605)年に第二代征夷大将軍に就任した。

 勿論、実権は大御所となった家康が握り続けた訳だが、秀忠自身、自らの際は父に遠く及ばぬと認識し、幕藩体制を固める二代目役に徹した。
 娘達を豊臣家(長女)、前田家(次女)、結城家(三女)、京極家(四女)、皇室(五女)と次々に嫁がせて縁戚を固める一方で、当主が嗣子なく没した大名家では身内(松平忠吉・武田信吉等)でも容赦なく改易し、徐々に豊臣恩顧の勢力を削ぎ、慶長一九(1614)年には最後の対戦となる大坂の陣に臨んだ。
 最後のこの大戦も結局は大御所である父・家康が総大将を務め、秀忠は最後まで軍権を委ねられることは無かったが、豊臣家が滅亡した翌年に家康も薨去し、秀忠は名実ともに最高権力者となり、家康生前に共に発布した武家諸法度禁中並びに公家諸法度寺社諸法度といった法令を厳格に駆使し、幕藩体制を固めた。

 元和六(1620)年六月一八日、末娘・和子を後水尾天皇の中宮として入内させ、三ヶ月後の九月六日に嫡男と次男を共に元服させ、家光・忠長と名乗らせ、次代への布石を次々と打ち続けた。
 一方で参勤交代体制を固め、法令の厳格適用で福島正則を初めとする豊臣恩顧の大名を次々と改易・減転封させ、キリスト教への弾圧も強め、元和九(1623)年二月には生前何かを顔を立てて来た兄・秀康の遺児で、三女の婿でもあった松平忠直の不参勤を初めとする不行状を許さず、隠居させる等の辣腕も振るった。

 同年六月二五日に上洛した秀忠は将軍職を家光に譲って、自らは隠居して大御所となったが、実権に関しては「以下同文」である(笑)。
 家康が形の上では駿府城に退いたのに対し、秀忠は(当初は小田原城に移ることを考えていたようだったが)江戸城西の丸に移り、完全に権力の座に居座った。

 一方で我が子達に対しても何かと手を打ち続け、寛永七(1630)年九月一二日には和子の産んだ孫娘・女一宮が天皇に即位させることに成功(明正天皇)。寛永八(1631)年には将軍職を初めとする天下の大権に未練を見せ続ける次男忠長の領地を召し上げて蟄居を命じた。
 そんな激務が祟ったものか、この頃から体調を崩し出した秀忠は寛永九(1632)年一月二四日に薨去した。徳川秀忠享年五四歳。



一妻 云うまでもなく、お江である。戦国時代の姉妹として最も有名な浅井三姉妹の末妹で、父は浅井長政、母はお市の方(信長妹)である。
 名前に関しては、「お江与」、「小督」、「達子」と様々伝わっているが、本作では「お江」で通します。

 天正元(1573)年に生まれたが、父・長政はその年の内に伯父である織田信長に滅ぼされたため、二人の姉と異なって彼女だけは父の顔を知らずに育った。

 夫を兄に殺されたお市は別の兄である織田信包の保護を受け、お江も二人の姉と共に育てられたが、天正一〇(1582)年六月二日に本能寺の変が勃発して信長が横死したことが一つのきっかけとなって母が柴田勝家に嫁いだことでお江達も越前北ノ庄に移った。
 だが、継父・母との生活は勝家が賤ケ岳の戦いに敗れたために一年で終わりを告げた。勝家とお市は羽柴秀吉の降伏勧告を拒絶して自害。三姉妹は心ならずも父母・継父・兄の仇である秀吉の反故を受けることとなった。

 その後、三姉妹は「信長後継者」を自認する秀吉から都合の良い手駒として縁戚強化に利用され、程なくお江は最年少ながら最初に婚姻した。相手は尾張知多郡大野領主で、織田信雄の家臣にて、お江にとっても従兄にあたる佐治一成でった。
 ただ、この婚姻は余りにも記録が少なく、詳細は不明で、すぐに離縁を余儀なくされ、一説には婚約のみで実際に嫁いでなかったとする説もある。

 いずれにせよお江は次に秀吉の甥(姉の子)・豊臣秀勝に再嫁した。
 秀勝との婚姻も記録が少なく詳細は不明だが、夫婦仲は良かったようで、娘(完子)も生まれたが、秀勝は朝鮮出兵において戦場にて病死してしまった。
 結局お江徳川秀忠に再々嫁したのは文禄四(1595)年九月一七日で、二人は伏見において婚姻した。勿論秀忠は初婚で、このとき一七歳。一方のお江は六歳年上の二三歳だった。

 秀忠に従って江戸に暮らすことになり、最終的には二男五女に恵まれたお江だったが、その道のりは決して平坦なものでは無かった。まず娘の完子と引き裂かれた。秀吉は完子を「豊臣家の血を継ぐもの」として豊臣家から出すことを許さず、彼女は秀吉の側室で、実の伯母である淀殿の下で育てられた。
 秀忠との間に次々と子が出来るも、第一子から第四子まですべて女児だったため、「女腹」、「年齢的に嫡男は望めない。」、「若様(秀忠)も、父上(家康)に倣って側室を迎えればいいのに……。」との陰口に苦しんだ(恐らく身分的にも直に云われない分、余計苦しんだことだろう)。
 その娘達も多くが幼くして嫁がされて自分の下から離れて行った。次女の珠姫は僅か三歳で前田家に嫁ぎ、それが永遠の別れとなった。四女の初姫は長女千姫が豊臣家に嫁ぐのに同行した際に大坂で産んだが、同様に大坂に来ていた次姉・初に請われて生まれてすぐ養女としたため、僅かな日数しか過ごせなかった。

 慶長九(1604)年に、五度目の正直で遂に嫡男・竹千代(家光)を生んだが、徳川家にとっても待望の存在だった竹千代はすぐに乳母・春日局に預けられ、竹千代は実母よりも乳母に懐いた(当時としては珍しい話ではなかったが)。
 そんな経緯もあってか、次男国千代(忠長)は自分の手で育てられることが許されたが、自分に懐かず、生来病弱な竹千代よりも、我が手で育てた上に健康優良児であった国千代の方を偏愛することとなってしまった。

 その後、お江にとって、夫(秀忠)と岳父(家康)が姉(淀殿)と甥(秀頼)を攻め滅ぼすという悲劇(大坂の陣)を味わう中、お江は名実ともに天下人になった夫の活躍と、我が子達が徳川家との縁を固めつつ幸せな生活を送ってくれることが生き甲斐とする一方で、亡き父母・姉の菩提を弔う日々を送り続けた。

 寛永三(1626)年九月一五日、江戸城西の丸で死去、お江享年五四歳。お江が危篤に陥ったとき、秀忠・家光・忠長は上洛中で、公務の都合上すぐに江戸に戻る訳にもいかず、忠長だけが即座に江戸に戻ったが臨終には間に合わず、結局お江は夫にも我が子にも看取られることは無かった。



一妻の理由と生き様 本作で採り上げた人物の中で、唯一人、過去作『恐妻家列伝』でも採り上げられているのがこの徳川秀忠である。
 歴史好きな人にとって、秀忠お江だけを正式な妻とし、公には側室を迎えなかった一方で、乳母の次女・お静に手を付け、保科正之という御落胤を為していたのも有名だろう。

 詰まる所、秀忠は完全に「お江一筋」だった訳ではないが、身分的にも、「世継ぎを成さなくてはならない。」というロイヤル・デューティからも側室を持つことは容易だったし、「持つべし!」との声も周囲に少なくなかったと思われる。
 にもかかわらず、秀忠は(公式にだが)側室を持つことなく、それどころか幸松(保科正之)を産んだ後のお静と顔を合わすこともなく、保科家へ養子に出された正之と対面したのもお江死後のことである。

 秀忠お江の人格、夫婦関係、嫉妬の在り様は醜聞好きな人間の性からもドラマには格好のネタにされたようで、大河ドラマを初め様々なドラマ・小説・漫画で描かれているが、作品ごとにかなり差異が大きく、その実態は掴み難い(殊に故隆慶一郎氏の秀忠嫌いはかなりのもので、それを反映してか、小説『捨て童子松平忠輝』に出て来るお江は別式目と呼ばれる自前の刺客すら擁していた)。
 ただ、総合的に見て、お江がかなり嫉妬深い性格で、秀忠お江を憚ったのは間違いないだろう。

 以上を踏まえた上で薩摩守なりに考察するに、恐らく徳川秀忠という漢は、恐妻家であるとともに、それ以上の愛妻家だったのだろう。
 お江が待望の嫡男竹千代を生んだのは慶長九(1604)年のことで、秀忠二六歳、お江三二歳で、婚姻から九年が経っていた。
 時代や家法による相違もあるが、「嫁して三年子なきは去る。」とされた時代、「子供産めない=離婚」は短絡にしても、男尊女卑の世で女性は三十路を迎えると新たな女性を夫に勧めるのが礼儀であり、謙虚さとされた。
 伊達政宗の正室・愛姫(めごひめ)も一六歳で、政宗に嫁ぎ、一九年後に三五歳で待望の嫡男を得た例があるが、政宗もそれ以前に側室を迎え、庶長子を設けている。このことを考慮に入れても、第一子から第四子迄女児ばかりを生み、三十路を過ぎたお江を「女腹」、「嫡男は見込めまい……。」という声は少なくなかっただろう(秀忠お江の身分を考えれば、少々の陰口なら世に現れなかったと思われる)。

 ここからは薩摩守の予測だが、秀忠お江をべた惚れレベルに愛するとともに、お江の前半生に深く同情していたのではなかっただろうか?
 繰り返しになるが、お江は物心つく前に実父(長政)を伯父(信長)に殺され、その伯父の手先となった男(秀吉)に兄(万福丸)と、継父(柴田勝家)と、母(お市)を殺され、政略結婚の手駒にされ、姉(淀殿)に手が付けられた。時代の違いをある程度考慮しても、悲惨極まりない前半生を送っている。
 婚姻にあっても、最初の夫(佐治一成)との婚姻は夫婦生活らしい夫婦生活を送らない内に離縁させられ、次の夫(豊臣秀勝)には若くして死なれ、その間に生まれた娘(完子)とも引き裂かれた。
 子供達を見ても、完子は淀殿に大切に養育されて九条家に嫁ぐことで現在の皇室にもその地を残しているが、長女・千姫は従兄・秀頼に嫁ぐも他ならぬ父の手で姑と夫を死に追いやられた。
 次女・珠姫は僅か三歳で前田家に嫁ぎ、それが根性の別れとなった。三女・勝姫は従兄妹である松平忠直に嫁ぐが、その忠直は後に不行状を咎められて、叔父であり、岳父でもある秀忠によって隠居させられた。

 そんなお江の前半生を見てきた秀忠にとって、全く懐妊しないのならともかく、次々と子供を産んでくれるお江を愛おしく思うとともに、何としてもお江に嫡男を生ませたいとの想いが生じても不思議ではない。
 そして五度目の正直でお江は嫡男を生んだ。謂わば大任を果たした訳で、医学が未発達な当時からすれば三十路を過ぎた女性にそれ以上子供を産ませることを躊躇ってもおかしくなかったが、その後もお江は一男(国千代)一女(和子)を産んだ。世継ぎ問題を抜きにしても秀忠お江を愛していた証拠と云えよう。

 さて、お江が最後の子となる和子を産んだのは慶長一二(1607)年一〇月四日のことで、このときお江は三五歳だった。お江の逝去はその一九年後で、その間夫婦の営みがあったかどうかは不詳だが、年齢的にも「二男五女も産めば充分」と見られた可能性は高い。
 一方、六歳年下の秀忠は二九歳で、まだまだ性欲も充分の年代である。また、家光・忠長がいるとは云え、当時の幼児死亡率は高く、二人だけでは安心出来ない向きもあっただろう(実際、家光は何度も病気に罹り、周囲を不安に陥らせた)。
 となると、和子出産後にお江は身を退いて、秀忠が側室を持っても全くおかしい話ではなかった。だが、くどいが秀忠はそうしなかった。

 これには秀忠お江への愛情及び同情、加えて対豊臣家問題もあったと思われる。
 徳川家康と豊臣秀吉は義兄弟(家康の継室が秀吉の妹)で、秀吉と秀忠も義兄弟(各々の妻が姉妹)で、秀頼と千姫は従兄妹同士にして夫婦で、秀忠と秀頼は義理の親子だった。
 謂わば二重にも三重にも徳川家と豊臣家は縁を重ねており、淀殿とお江の姉妹愛も筋金入りだった。多くの史家は「家康は何が何でも豊臣家を滅ぼすつもりだった。」と見ている一方で、家康を英雄視する歴史小説などでは家康は最後の最後まで豊臣家を滅ぼしたくなかったとされるものも多い。
 その実態に関してここでは検証しないが、「徳川家VS豊臣家」の難題は秀忠にとっても、お江にとっても悩ましい問題だったのは想像に難くない。

 いずれにせよ、結果的に秀忠は、お江の姉と甥を滅ぼし、娘を後家にしてしまった(しかも立場上とはいえ、秀忠は家康の目の前で、千姫に「何故夫・秀頼に殉じなかった!?」と怒鳴りつけている)。
 後継者問題が片付きつつも、多くの身内の不幸を見て来たお江にせめて余生は愛情に恵まれた、争いのない世を見せたくて、側室を迎えず、御落胤と顔を合わせる事すら憚ったと考えるのは考え過ぎだろうか?

 最後に余談だが、幸松(保科正之)が生まれた時、大河ドラマ『春日局』『葵・徳川三代』『大奥』等で、秀忠はその存在をお江に知られまいとしてみっともない程に狼狽し、『葵・徳川三代』に至っては、秀忠 (西田敏行)は、幸松の存在が知られれば「お江 (岩下志麻)に殺される!」とすらしていた。
 お江が嫉妬深い女性だったのは史書にも書かれている史実だが、なかなか嫡男を産めないことや、夫より六歳も年上である我が身を顧みて、側室を持つことを勧めた話もあるので、演出とは云え、お江に現代ドラマ風にデンジャラスなまでの嫉妬深さを盛り込む傾向はいい加減にして欲しいと思う次第である。


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令和五(2023)年九月六日 最終更新