第参章 斎藤道三…恩義も血縁もなきにつき



虐殺者斎藤道三
虐殺対象長井長弘一族
虐殺行為仕官途上の恩人一族を滅亡に追いやる
虐殺要因出世の為
応報嫡男義龍及び旧土岐家家臣の離反による横死並びに次男・三男の虐殺
 梟雄・松永久秀と並ぶ下剋上の代表的人物で、織田信長の正室濃姫の父であったために信長に関連した話でも有名。
 だが、知名度が高い一方で謎の多い人物でもある。

 斎藤道三と云われて多くの人が思い浮かべるのが……
 「一介の油売りが土岐家の家臣となって、「蝮」と渾名された辣腕と謀略の下剋上によって土岐頼芸(ときよりなり)を追放し、美濃一国を強奪。
 しかしながら対立した嫡男・義龍に敗れて戦死。存命中より娘婿・織田信長の将来性を高く評価していた………。」
 というイメージではなかろうか?
 まずそれで間違いはない。経歴的には。

 最近では前半生の不鮮明から道三による国盗りは親子二代によるもの説や、正徳寺での信長との舅婿会見での信長を見込んで、子孫が信長に仕えるであろうと述懐したエピソードは『信長公記』による創作説もあるが、本項の主旨とは取り敢えず無関係なので割愛する。

 結論から先に云うと斎藤道三のジェノサイドは土岐家への反逆による美濃乗っ取りの過程に在り、因果応報は義龍との争いの結末として迎えた道三自身の破滅に在る。


 その前に少し話が横道に逸れるが、道三の渾名である「(マムシ)」について触れたい。
 「蝮」という字は偏が「虫」で、つくりが「腹」と同じ字である。
 これは卵胎生である毒蛇・蝮の子が、親の胎内から出てくる様が「腹」を食い破って出てくる、と見られたために、「蝮」という蛇は「親殺し」・「主殺し」の象徴として見られた。
 そして親も同然である恩人・主家に反逆した道三に渾名として冠せられた訳である。

 油売りの身でありながら、槍と学問に秀でていた文武両道の道三 (道三は出家してからの法名で、出家前は斎藤秀龍。更に彼は度々改名しているので、本項では「道三」で統一する)はその才覚で美濃の豪族・長井長弘に仕え、やがては長弘の推挙を受けて美濃守護大名・土岐政頼の弟・土岐頼芸の寵臣に収まった。
 周知の通り、道三は天文一一(1542)年に頼芸を追放して、自らが美濃の国主となった訳だが、そのこと自体をジェノサイドとは薩摩守は見なさない。
 第一、道三は頼芸を殺していない(頼芸は信長が横死した天正一〇(1582)年まで生きた。追放されてから四〇年後のことである)。
 頼芸追放よりは武田信玄の実父・信虎追放の方が罪は重いだろうし、愛妾を下げ渡すほどまでに自分を買ってくれた頼芸に兄への謀反を唆した事の方が余程えげつない。
 問題は長井家への裏切りにある。

 そもそも僧侶→油商人の道を経てきた道三を士分に採り立てたのは長井長弘である。
 僧侶としての道三を知る妙覚寺の日運上人が長弘に推薦し、その槍の才を見込んだ長弘道三を採り立てただけでなく、土岐頼芸への推薦まで取り付けてくれたのである。
 文武両道に秀でた道三の才能があれば、長弘の力を借りずとも美濃国主の地位は獲得したかもしれないが、史実として長弘道三の為に相当の尽力をした事に疑いの余地はない。
 だが道三はそれを裏切った。
 道三自身の才能を別に考えるなら、最も道三出世の力になってくれた恩人夫婦に対して……。

 亨禄三(1530)年一月、道三は恩人である長井長弘を土岐頼芸に讒言。「職務怠慢に対する上意討ち」と称して、長弘夫婦を殺害した
 更には長井氏の名跡を奪って、長井新九郎を名乗り、それを足掛かりに長井氏の主筋で絶家していた斎藤の姓を名乗るに至った。
 下剋上に枚挙に暇がないこの時代、他にも悪人・悪行が多数ある中で、薩摩守が道三長井家への裏切りを取り上げるのも、恩こそあれ恨みのない長井家に仇でもって報いた事、後に主君の頼芸は追放しつつも殺さなかった道三が讒言を用いての一家皆殺しと名跡奪取に一際大きな怒りを覚えればこそである。

 勿論このジェノサイドは道三が他に為した悪行への報いも伴って、彼及び何の罪もない彼の息子達をも巻き込んで跳ね返ってきた。
 早い話、長男・義龍による反逆である。彼はその出自に疑惑が有り、それが元で父子の仲は良くなかった。
 頼芸から下げ渡された道三の妻・深芳野(みよしの)は道三と結婚して七ヶ月で道三の嫡男・義龍を産んだ。
 そのため義龍は道三の子か、頼芸の子かが疑問視され、道三は弘治元(1555)年に義龍に家督を譲るも、明かに自分の子であることがはっきりしている次男・孫四郎龍重か、三男・喜平次龍定に家督を譲るために義龍廃嫡を考えるようになった。
 ために義龍は仮病を使い、見舞に訪れた二人の弟に抜刀して潜りこんだ蒲団の中から襲いかかって惨殺し、自らを「斎藤道三の子ではなく、土岐頼芸の忘れ形見である。」と称して、道三を「親の仇」と呼んで挙兵し、長良川に両者は争った。

 「信長に劣る馬鹿息子」と思っていた義龍が土岐家旧臣、長井家残党を組織して一万七〇〇〇の軍勢を揃えたのに対して、道三に追随したのは二七〇〇に過ぎなかった。
 道三は自慢の長槍を振るって奮戦したものの、衆寡敵せず、義龍配下の二人の武士に首を取られ,享年六三歳でこの世を去った。
 道三を討ち取った二人武士の名は一人が小牧源太、もう一人が長井忠左右衛門と云った……正に因果応報である。

 片手落ちを忌む拙房の主旨から述べたいのだが、斎藤道三は全くの人情知らずというわけではなく、人情よりも立身出世への冷徹振りの方が上回った人物故に常人には計り切れない男だった。
 野心家として恩人を裏切ったものの、個人としては油売り時代に自らが行き倒れた時に助け、介抱してくれた恩人には出世するや数俵の米を持って自らその家を訪れ、恩に報いたりもしているし、為政者としての評判はすこぶる上々だった。
 だが長井氏への恩を恩とも思わない裏切りは裏切りである。
 何の罪もない長井夫婦を讒言で滅ぼした道三の悪行は何の罪もない二人の息子への惨殺として応報され、長年の恨みは土壇場で彼のもとに留まる兵士の数を激減させた。

 薩摩守は斎藤道三に不必要な殺戮を避ける智恵があり(←頼芸のことである)、かつての恩に報いる心があり、恩義や血筋を越えて人を見る眼がある(←信長の事である)からこそ、唯一讒言を用いた長井家へのジェノサイドに怒りと悲しみを覚えるのである。




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令和三(2021)年五月五日 最終更新