第肆章 織田信長…反故が生んだ不毛



虐殺者織田信長
虐殺対象長島一向一揆勢力
虐殺行為降伏を反故にしての皆殺し
虐殺要因一向門徒への恨み、軍事的徹底殲滅
応報一向門徒最後の大反撃で織田一族が何人も討死
 余りに有名な人物なので人物紹介や前後の事象は割愛する。既に拙房でも『認めたくない英雄達』『本能寺の変』『師弟が通る日本史』でも大きく取り上げてあるので。

 今回取り上げるのは長島一向一揆殲滅戦である。
 織田信長が為したジェノサイドと云えば比叡山焼き討ちをいの一番に思い浮かべる人も多いと思われるが、薩摩守は個人的にこの長島の干殺しと、それに続く降伏後の殲滅戦の方が残虐度が高く、許し難い大虐殺と見ている。

 一向一揆は一向宗(浄土真宗)の門徒による僧と農民が一体になり、信仰故に死を恐れない、百戦錬磨の戦国大名達にとっても手強い集団だった。
 加賀一向一揆に攻められた富樫政親が自害に追い込まれたのを筆頭に、三河一向一揆には徳川家康は家臣団の結束を乱され、家康自身も腕に銃弾を受けた。
 戦国最強武将の一人・上杉謙信すら加賀一向一揆が上洛と武田・北条討伐への大きな足枷となった。
 そして石山本願寺の掃討に信長が一〇年以上の歳月を掛けたのは有名である。
 同じ宗教勢力でも戦意・好戦性からも天台宗の比叡山延暦寺・真言宗の高野山の比ではなく、同じ一揆でも思想基盤の脆弱な土一揆、御家大事の国人一揆よりも遥かに頑強だった。

 まして長島一向一揆は尾張・伊勢の国境とも云える長良川と木曾川のデルタ地帯を天然の要塞として五つの砦でもって立て篭もり、顕証寺の法真は息子の法栄と武田信玄の四女・菊姫と婚約させ、武田家は勿論、浅井・朝倉の協力をも取り付けていた。

 その力は元亀元(1571)年一一月に尾張小木江城を陥落させ、信長の弟・織田信興を自害に追い込んでいたほどである。
 弟の死に怒った信長は元亀二(1572)年五月に長島を攻めるも、長篠の戦いで大量の鉄砲を用いた信長により三年も先に三〇〇〇挺の鉄砲をもって長島本願寺は頑強に抵抗し、織田方は猛将・柴田勝家が負傷し、美濃三人衆の一人・氏家卜全が討死する有り様だった。
 更にはこの虚を突いて浅井・朝倉が坂本城を落とし(森三左衛門戦死)、信長に服していた松永弾正久秀も大和・信貴山にて信長に反旗を翻した(←さすがは梟雄だ)。
 長島に苦戦している間に踏んだり蹴ったりの信長が以後宗教勢力に一切の容赦を覚えなくなったのも、それ自体は無理のないことだった。
 実際に当時の宗教勢力は武力も財力も持ち、ともすれば神仏・朝廷の保護を盾に我を通す武装集団だったのだから。信長比叡山焼き討ちはその長島戦の四ヶ月後のことだった。

 さて、本項の目的である天正二(1574)年の長島戦以前に信長と一向宗の戦歴にざっと触れたのはこれらの背景を考慮しても信長の大虐殺は非道で、その因果応報もまた大きいと薩摩守が見るからである。
 では本題に入りたい。


 時は天正二(1574)年七月一二日、伊勢長島を完全に包囲した織田信長軍と長島一向門徒との戦端の火蓋は切って落とされた。
 前年の天正元(1573)年に一向門徒達が頼りとした武田信玄は没し、浅井・朝倉は信長に滅ぼされ、室町幕府最後の将軍・足利義昭も京を追われていた。
 稀代の革命児にして天才・織田信長が指揮する織田軍と、「進むは極楽浄土、退くは無間地獄」を合言葉に死を恐れず猛進して来る一向勢の戦いは熾烈を極めた。

 だが水上封鎖の前に食料も弾薬も尽きた一向勢は、信長が許さないであろう事を承知の上で長島の明け渡しを信長に申し出、信長も武器を捨てた老若男女の退散を妨げないことを約束した。
 果たして約束は反故にされた。
 天正二(1574)年九月二九日、信長は鉄砲隊に城砦から出て、骨と皮ばかり状態になって歩行もままならず、戦中に項垂れる門徒達への一斉射撃を命じた。

 顕証寺法真は自害、長良川を鮮血が染め、残った屋長島城と中江城も焼き討ちされ、焼き出された門徒達には一斉射撃が襲いかかり、長島一向一揆に参加したものは文字通り皆殺しにされた。その数、およそ五万……

 ジェノサイドへの因果応報はすぐに始まった。
 飢餓に苦しみ、精も根も尽き果てた筈の、鉄砲も持たない門徒達が「どうせ死ぬなら。」と思ったのか、丸腰に近い身でありながら一斉に織田軍に最後の大抵抗を敢行した。
 信長は明らかに追い詰められた人間の力を見誤っていた。
 浅井・朝倉・武田の諸氏を滅ぼし、今川家・将軍家を実質滅亡に追い込んだ際にも信長は一兵卒や軽輩の諸将には降伏や敗走の余地を残していた。故に諸氏の滅亡する瞬間は驚くほど呆気なかった。
 だが、この時は違った。織田信広(信長庶兄)、津田信次(信長の叔父)・津田信成(信長の従兄弟)といった信長の身内が最後の大抵抗の前に次々と討死した。そしてこの戦いの渦中には信長自身も負傷した。


 勿論この一大ジェノサイドには信長なりの云い分もあっただろう(信長は残虐行為を厭わなくても、無意味にそれを行って大きな恨みを買うような馬鹿では決してない)。
 自らの地盤である尾張と次子・信雄の治める伊勢の国境にして、居城・岐阜の下流域、という要衝の地にて反旗を翻す長島一向一揆は織田領内の癌で、彼等の為に信長は弟・信興を失い、浅井・朝倉討伐にもなかなか本腰を入れられなかった。恨みは極大に相違なかっただろう。
 更に、長島を退散した彼等を生かしておいては大坂の石山本願寺に逃げ込んで再度武器を執って刃向かって来る可能性も小さくはなかっただろう。
 だが本当にこうするしかなかったのだろうか?

 薩摩守は自身が仏教徒だからと云って信長が宗教勢力と戦ったことに非は唱えない。
 相手は現代のような非武装宗教集団とは異なり、自前の武力と財力で敵意を露わにし、神仏の名をもって朝廷や他勢力への影響力を持ち、酒色に耽って修行を等閑にするものも少なくなかった。
 問題は「只そこに住んでいるだけの者達」を巻き込む焼き討ち攻撃や、「助命の約束を反故」にしての殲滅攻撃にある。
 只の戦死なら誰もここまで信長を恨まず、その後の怒りの大抵抗もなく、それに伴う織田家中の死傷者数も大きく異なっただろう。
 信長の武力・才覚からこうするしか道がなかったとは思えない。水上封鎖をもっと徹底していれば、敵には凄惨でも家中の無駄な討ち死には減らせただろうし、長島を退散する門徒達に対しても街道や水上の封鎖をうまく利用すれば大坂や加賀に向かわせることもなく帰農させる事も可能だっただろう。
 ジェノサイドに対する怒りは、結局のところは「不毛で尽きる事のない殺し合いの果てに夥しい犠牲と悪名しか残さない」という点にある。
 そのことを今後の世界のすべての軍人・圧政者にも知って欲しいものである。
 現存するテロリストや圧政者達を見ていれば、「聞く耳を持たない」、「一顧だにしない」だろうけれど、億が一にも、聞き入れてくれるなら土下座してでも頼みたいものである。




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令和三(2021)年五月五日 最終更新